2011年04月30日
小野寺由恵の亡くなった日
小野寺由恵。
この名前を聞いて誰だかすぐわかる方は
よっぽどの石ノ森ファンか、トキワ荘ファンかのどちらかでしょう。
小野寺由恵という人は、
石ノ森章太郎先生(本名・小野寺章太郎)の実のお姉さんです。
石ノ森先生の良き理解者として、トキワ荘に同居して支援していました。
しかし、彼女は喘息の持病があり、
1958年(昭和33年)4月4日に還らぬ人となっています。
享年24歳の若さでした。
この石ノ森先生のお姉さんの死については、
いくつかのトキワ荘関連書籍に書かれていますが、
一番詳しく書かれているのは、当日トキワ荘にいた(住んでいた)
水野英子先生の書いた「トキワ荘日記」(私家版)でしょう。
しかし、一番詳しい「トキワ荘日記」にも書かれていない話を
29日のトキワ荘のトークショーで
水野先生が詳しく話していらっしゃったので、
補足・・・というのはおこがましいですが、ちょっとこのブログで
「石ノ森章太郎の姉が亡くなった日」のコトを
詳しく書いてみたいと思います。
1958年4月4日。
小野寺由恵さん(以下「お姉さん」と表記させていただきます)は、
午前中に(何時かは不明)突然石ノ森先生の部屋で喘息の発作をおこしました。
そして石ノ森先生は赤塚先生の部屋に行き、
「姉貴の調子が悪い!」
と、訴えます。
この時、水野先生も赤塚先生の部屋にいたので、
赤塚先生と水野先生の二人が石ノ森先生の部屋に向かいます。
すると、そこにはいつもより重い症状のお姉さんが
布団に横になって、吸入をしていました。
そこで、すぐタクシーを呼んで
いきつけの病院に搬送し、
石ノ森先生だけでなく、赤塚先生と水野先生も付き添って、
午前中はバタバタと過ぎて行きました。
やがて状態が落ち着いたとの事なので、
お姉さんはそのまま入院させて、
三人はトキワ荘へいったん戻ります。
そこで一息ついたので、
石ノ森先生のほうから、
近所の目白映画で「マダムと泥棒」が上映するので、
観に行こうと言い出します。
この日の映画館のプログラムは2本立てか3本立てだったのですが、
「マダムと泥棒」を一本だけ観て3人は帰ります。
そして、トキワ荘に着いたら、
深刻な表情の赤塚先生のお母さんが出迎え、
(当時トキワ荘で赤塚先生と同居していました)
病院からお姉さんが亡くなったという知らせが来た事を
3人に伝えました・・・
この時の事を
石ノ森先生のドキュネンタリー番組とかでは
お姉さんの容態が心配で、
不安な気持ちのまま現実逃避するように
映画を観ていた・・・
と、いったふうに演出される事が多いのですが
(「知ってるつもり」ではまさしくそういった演出でした)
実際の石ノ森先生は、お姉さんは完全に助かるだろうと信じていたので、
いつものようにリラックスして映画を楽しんでいたと、
29日のトークショーで水野先生が証言しています。
お姉さんの死因は心臓発作でした。
発作を抑える為のモルヒネの打ち過ぎだったとの事で、
詳しくはわかりませんが、
今なら医療ミスだったといっていいのではないか?と、思います。
その後、お姉さんは東京で荼毘に付され、
葬儀は石ノ森先生の実家の宮城県で執り行われました。
ちなみにお姉さんが亡くなった4月4日は
奇しくもトキワ荘記念碑の除幕式があった日と
同じ日です。
もっと結びつければ
除幕式は2009年でしたので、
「009」の年といえなくもありません。
漫画家ではありませんでしたが、
献身的に弟をささえた姉・小野寺由恵は
間接的に漫画界に大きく貢献しました。
トキワ荘を語る時に、
忘れてはならない存在だと思います。
この名前を聞いて誰だかすぐわかる方は
よっぽどの石ノ森ファンか、トキワ荘ファンかのどちらかでしょう。
小野寺由恵という人は、
石ノ森章太郎先生(本名・小野寺章太郎)の実のお姉さんです。
石ノ森先生の良き理解者として、トキワ荘に同居して支援していました。
しかし、彼女は喘息の持病があり、
1958年(昭和33年)4月4日に還らぬ人となっています。
享年24歳の若さでした。
この石ノ森先生のお姉さんの死については、
いくつかのトキワ荘関連書籍に書かれていますが、
一番詳しく書かれているのは、当日トキワ荘にいた(住んでいた)
水野英子先生の書いた「トキワ荘日記」(私家版)でしょう。
しかし、一番詳しい「トキワ荘日記」にも書かれていない話を
29日のトキワ荘のトークショーで
水野先生が詳しく話していらっしゃったので、
補足・・・というのはおこがましいですが、ちょっとこのブログで
「石ノ森章太郎の姉が亡くなった日」のコトを
詳しく書いてみたいと思います。
1958年4月4日。
小野寺由恵さん(以下「お姉さん」と表記させていただきます)は、
午前中に(何時かは不明)突然石ノ森先生の部屋で喘息の発作をおこしました。
そして石ノ森先生は赤塚先生の部屋に行き、
「姉貴の調子が悪い!」
と、訴えます。
この時、水野先生も赤塚先生の部屋にいたので、
赤塚先生と水野先生の二人が石ノ森先生の部屋に向かいます。
すると、そこにはいつもより重い症状のお姉さんが
布団に横になって、吸入をしていました。
そこで、すぐタクシーを呼んで
いきつけの病院に搬送し、
石ノ森先生だけでなく、赤塚先生と水野先生も付き添って、
午前中はバタバタと過ぎて行きました。
やがて状態が落ち着いたとの事なので、
お姉さんはそのまま入院させて、
三人はトキワ荘へいったん戻ります。
そこで一息ついたので、
石ノ森先生のほうから、
近所の目白映画で「マダムと泥棒」が上映するので、
観に行こうと言い出します。
この日の映画館のプログラムは2本立てか3本立てだったのですが、
「マダムと泥棒」を一本だけ観て3人は帰ります。
そして、トキワ荘に着いたら、
深刻な表情の赤塚先生のお母さんが出迎え、
(当時トキワ荘で赤塚先生と同居していました)
病院からお姉さんが亡くなったという知らせが来た事を
3人に伝えました・・・
この時の事を
石ノ森先生のドキュネンタリー番組とかでは
お姉さんの容態が心配で、
不安な気持ちのまま現実逃避するように
映画を観ていた・・・
と、いったふうに演出される事が多いのですが
(「知ってるつもり」ではまさしくそういった演出でした)
実際の石ノ森先生は、お姉さんは完全に助かるだろうと信じていたので、
いつものようにリラックスして映画を楽しんでいたと、
29日のトークショーで水野先生が証言しています。
お姉さんの死因は心臓発作でした。
発作を抑える為のモルヒネの打ち過ぎだったとの事で、
詳しくはわかりませんが、
今なら医療ミスだったといっていいのではないか?と、思います。
その後、お姉さんは東京で荼毘に付され、
葬儀は石ノ森先生の実家の宮城県で執り行われました。
ちなみにお姉さんが亡くなった4月4日は
奇しくもトキワ荘記念碑の除幕式があった日と
同じ日です。
もっと結びつければ
除幕式は2009年でしたので、
「009」の年といえなくもありません。
漫画家ではありませんでしたが、
献身的に弟をささえた姉・小野寺由恵は
間接的に漫画界に大きく貢献しました。
トキワ荘を語る時に、
忘れてはならない存在だと思います。