「君が代は外国人が作曲した」という神話 (2004.07.12 Monday) [セコい神話] |
●日の丸と君が代は、最近まで国歌・国旗ではなかった
日の丸の旗と君が代は日本の歴史とも相まって非常に微妙な歴史を持っています。
まず、この二つに関して有名なのが1999年に施行された「国旗及び国歌に関する法律(国歌国旗法)」です。
この法律勘違いしている人が多いのですが、別にこれは「学校で国旗を掲げて国歌を歌いなさい」という法律ではありません。
条文を見れば分かりますが、ここに書いてあるのは大まかに言って、
1:国旗は、日章旗(日の丸)とする。
2:国歌は、君が代とする。
これだけです。あとは歌詞と日の丸の形状が書かれているだけ。
じゃあ、一体何のために施行したんだ?と思われるかもしれませんが、実は1999年以前は日の丸と君が代は正式な国旗・国歌ではありませんでした。
この二つは「慣習」の観点から便宜上の国歌・国旗として扱われていただけだったのです。
●君が代の歴史
君が代と言えば数年前に歌う歌わないの大論争が起こったわけですが、別にこれ大した歴史がある代物ではありません。現在の君が代が出来たのは明治13年(西暦1880年)の話で、きんさんぎんさんとちょっとしか変わらない程度です(日の丸は701年には既に存在はしていましたが、国旗として制定されたのは1870年のことです)。
なんで明治にできたのかというと話は簡単で、文明開化をしてみると西洋文明には国歌や国旗があるのは当たり前。日本も負けてはいられないという理由で作ったのです。それまで日本には国歌も国旗もありませんでした。
なので、江戸時代とかに日の丸を国旗として出すとバカに見えるのでやめましょう。
●第1の君が代
君が代の作曲者はややこしい歴史を辿っているせいか非常に誤解が多いです。
まず、一番最初の君が代は外国人に作曲されました。
1862年、イギリス公使間護衛隊歩兵大隊の軍楽隊隊長のジョン=ウィリアム・フェントンが日本の国歌が存在しないことを知り、「おいおい、今の時代に国歌が無いなんて時代遅れも甚だしいぜ。イギリス仕込みの俺っちがいっちょ作ってやるよ。ヨーソロー」と進言。そして、当時薩摩藩兵の将校だった大山巌がそれを受け入れました。
「国歌を作る?オッケー。じゃあ、俺っちは『君が代』って曲が一番好きだからこれ使おう」
国家の大事ごとを自分の趣味で選ぶとはやるな巌(本当です)。
『君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで』
世界一短い歌と言われていた「君が代」の歌詞です。出展は古今和歌集ですが作者は不詳。この歌、江戸時代では結婚賛美歌として歌われていたらしいです。
さて、翌年にこの歌詞を手渡されたフェントンさんいきなり手詰まります。
「だってさ、俺っちクールでファンキーなエゲレス人だぜ?日本のわびさびなんかわかんねーよ」
だったら最初から作曲なんかすると言わなければよかったのに・・・。
全く曲を作らないフェントンにいらだった関係者は、「2週間後に天皇に聞かせるからとっとと作れよ」とせかします。そんなのは無理だとクレームをつけるフェントンさん。
「そんな、無理だって2週間で曲作るなんて。俺っちクールでファンキ(以下略)」
しかし刻限は刻一刻と迫ります。苦し紛れにフェントンさんは君が代を作曲しましたが、これがとんでもない駄作。楽曲隊にも大不評だったのですが、他に代替がないという理由で6年間も歌われました。これが「第一の君が代」です。
その後、歌のあまりのへぼさに辟易した海軍軍楽隊隊長・中村祐庸がフェントン作曲の「君が代」について、「泣けるけど、威厳ってもんがねーよ」と真っ向から批判
要するに「お前の君が代は演歌」だろと。ついでに「音が意味不明で何言ってるのかわかんね」だそうです。今の君が代だって何言ってるのかよく分かりませんけど。
作り直しを要求されたフェントンですが、彼に作曲の才能はありません。そこでどうしたのかというと。
「ごめ。俺っちそろそろエゲレス帰んねーと母ちゃんにしかられんだよ。お前ら適当に作って」
任期が解けて帰国が迫ってるのを理由に、けつまくることにしました。
●第2の君が代
明治12年、フェントンが帰った後にドイツから音楽教師フランツ・エッケルトが来日しました。彼は音楽に非常に堪能で(音楽教師だから当たり前ですが)、日本の音楽関係者の信頼をゲット。13年に行われた第2次君が代作成大会に参加しました。
君が代の作曲は雅楽奏者の林廣守が行い、それに対してエッケルトが西洋風和声をつけピアノ用の伴奏譜と吹奏楽譜を作りました。これが現在の「君が代」です。
ただ、このあとドイツに帰国したエッケルト君「日本の君が代は俺様が作ったんだぜ、ふっふーん」と吹聴。これがそのまま伝わって、一部で「君が代の作曲者は外国人」といういんちきが一部で広まってしまいました。
●第3の君が代
第2の君が代は非常に評判がよく、このまま正式な国歌として採択されるはずだったのですが、ここで横槍が入りました。それが「第3の君が代」です。
「おいおい、お前ら軍部だけで勝手に国歌決めんなよ。国歌ってのは文部省の管轄なんだよ!君たちアウト!」
こうして第3の君が代が作られました。
しかし、この曲は音楽にあまり詳しくない人間が作ったせいもあってか結局不評。しかし、あっさり否定するのも対面上の問題があるのか、第2の君が代が正式な国歌ではない「事実上の国歌」といういい加減な地位のまま100年間も歌われることになりましたとさ。
日の丸の旗と君が代は日本の歴史とも相まって非常に微妙な歴史を持っています。
まず、この二つに関して有名なのが1999年に施行された「国旗及び国歌に関する法律(国歌国旗法)」です。
この法律勘違いしている人が多いのですが、別にこれは「学校で国旗を掲げて国歌を歌いなさい」という法律ではありません。
条文を見れば分かりますが、ここに書いてあるのは大まかに言って、
1:国旗は、日章旗(日の丸)とする。
2:国歌は、君が代とする。
これだけです。あとは歌詞と日の丸の形状が書かれているだけ。
じゃあ、一体何のために施行したんだ?と思われるかもしれませんが、実は1999年以前は日の丸と君が代は正式な国旗・国歌ではありませんでした。
この二つは「慣習」の観点から便宜上の国歌・国旗として扱われていただけだったのです。
●君が代の歴史
君が代と言えば数年前に歌う歌わないの大論争が起こったわけですが、別にこれ大した歴史がある代物ではありません。現在の君が代が出来たのは明治13年(西暦1880年)の話で、きんさんぎんさんとちょっとしか変わらない程度です(日の丸は701年には既に存在はしていましたが、国旗として制定されたのは1870年のことです)。
なんで明治にできたのかというと話は簡単で、文明開化をしてみると西洋文明には国歌や国旗があるのは当たり前。日本も負けてはいられないという理由で作ったのです。それまで日本には国歌も国旗もありませんでした。
なので、江戸時代とかに日の丸を国旗として出すとバカに見えるのでやめましょう。
●第1の君が代
君が代の作曲者はややこしい歴史を辿っているせいか非常に誤解が多いです。
まず、一番最初の君が代は外国人に作曲されました。
1862年、イギリス公使間護衛隊歩兵大隊の軍楽隊隊長のジョン=ウィリアム・フェントンが日本の国歌が存在しないことを知り、「おいおい、今の時代に国歌が無いなんて時代遅れも甚だしいぜ。イギリス仕込みの俺っちがいっちょ作ってやるよ。ヨーソロー」と進言。そして、当時薩摩藩兵の将校だった大山巌がそれを受け入れました。
「国歌を作る?オッケー。じゃあ、俺っちは『君が代』って曲が一番好きだからこれ使おう」
国家の大事ごとを自分の趣味で選ぶとはやるな巌(本当です)。
『君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで』
世界一短い歌と言われていた「君が代」の歌詞です。出展は古今和歌集ですが作者は不詳。この歌、江戸時代では結婚賛美歌として歌われていたらしいです。
さて、翌年にこの歌詞を手渡されたフェントンさんいきなり手詰まります。
「だってさ、俺っちクールでファンキーなエゲレス人だぜ?日本のわびさびなんかわかんねーよ」
だったら最初から作曲なんかすると言わなければよかったのに・・・。
全く曲を作らないフェントンにいらだった関係者は、「2週間後に天皇に聞かせるからとっとと作れよ」とせかします。そんなのは無理だとクレームをつけるフェントンさん。
「そんな、無理だって2週間で曲作るなんて。俺っちクールでファンキ(以下略)」
しかし刻限は刻一刻と迫ります。苦し紛れにフェントンさんは君が代を作曲しましたが、これがとんでもない駄作。楽曲隊にも大不評だったのですが、他に代替がないという理由で6年間も歌われました。これが「第一の君が代」です。
その後、歌のあまりのへぼさに辟易した海軍軍楽隊隊長・中村祐庸がフェントン作曲の「君が代」について、「泣けるけど、威厳ってもんがねーよ」と真っ向から批判
要するに「お前の君が代は演歌」だろと。ついでに「音が意味不明で何言ってるのかわかんね」だそうです。今の君が代だって何言ってるのかよく分かりませんけど。
作り直しを要求されたフェントンですが、彼に作曲の才能はありません。そこでどうしたのかというと。
「ごめ。俺っちそろそろエゲレス帰んねーと母ちゃんにしかられんだよ。お前ら適当に作って」
任期が解けて帰国が迫ってるのを理由に、けつまくることにしました。
●第2の君が代
明治12年、フェントンが帰った後にドイツから音楽教師フランツ・エッケルトが来日しました。彼は音楽に非常に堪能で(音楽教師だから当たり前ですが)、日本の音楽関係者の信頼をゲット。13年に行われた第2次君が代作成大会に参加しました。
君が代の作曲は雅楽奏者の林廣守が行い、それに対してエッケルトが西洋風和声をつけピアノ用の伴奏譜と吹奏楽譜を作りました。これが現在の「君が代」です。
ただ、このあとドイツに帰国したエッケルト君「日本の君が代は俺様が作ったんだぜ、ふっふーん」と吹聴。これがそのまま伝わって、一部で「君が代の作曲者は外国人」といういんちきが一部で広まってしまいました。
●第3の君が代
第2の君が代は非常に評判がよく、このまま正式な国歌として採択されるはずだったのですが、ここで横槍が入りました。それが「第3の君が代」です。
「おいおい、お前ら軍部だけで勝手に国歌決めんなよ。国歌ってのは文部省の管轄なんだよ!君たちアウト!」
こうして第3の君が代が作られました。
しかし、この曲は音楽にあまり詳しくない人間が作ったせいもあってか結局不評。しかし、あっさり否定するのも対面上の問題があるのか、第2の君が代が正式な国歌ではない「事実上の国歌」といういい加減な地位のまま100年間も歌われることになりましたとさ。
・元々国歌と国旗は歴史のある由緒正しいものではありませんでした。 ・君が代の大元はおっさんの趣味です。 ・一番最初の君が代はファンキーなエゲレス人に作られました。 ・二番目の君が代は日本人が作曲しましたが、ドイツ人が作ったことに(一部で)されました。 ・三番目の君が代は文部省の虚栄心で作られたが駄作でした。 ・まとめると、君が代の歴史はろくでもないってことです。 |