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この巨大なアメリカという鏡
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橋下徹による「部落」の政治利用 - タブーと人権の混同
週刊朝日の最新号(11/2号)の冒頭に、編集長の川畠大四による「おわびします」と題した2頁の謝罪文が載っている。予想に反してきわめて短い。形式的な告知以上のものではなく、事務的な言葉が並んでいる。誠実さが感じられず、大企業のジャーナリズムの限界と病弊が滲み出た作文だ。山口一臣は、私が10/17に「『ハシシタ』のタイトリングは、渾身の怒りの表現と選択だ」と擁護したのに対して、「ご理解いただき恐縮です」とRTしていたが、昨日(10/23)のツイートでは、「私の見解もこの文章(謝罪文)のとおりです」と一転している。見苦しく、お粗末と言うほかない。一方、昨日の東京新聞に、東京都部落解放研究所の浦本誉至史とノンフィクション作家の上原善広の発言が載っていて、今回の事件についての見方が示されている。ネットで情報を拾うしかないが、二人とも週刊朝日の連載打ち切りの対応を強く批判している。上原善広は、「各メディアは今回の問題に懲りず、どんどん部落問題を取り上げるべきだ。部落問題を書けば傷つく人はいるが、それを気にしていると前に進まない。橋下氏のような権力者の人物研究をする際は、ルーツを辿ることは欠かせない。そこに部落問題があれば書けばいい」と言っている。同感だ。私の認識と全く同じだ。上原善広は被差別部落出身を公言している作家で、佐野眞一に先んじて橋下徹の出自を暴くルポを書いている。


新潮45の昨年11月号に掲載された上原善広の特集記事が、今回の週刊朝日の企画の下敷きになっていることは瞭然だ。今後、先駆たる上原善広による橋下徹批判が注目され、広く論議を呼び起こす展開を期待したい。もう一人の浦本誉至史の方は、佐野眞一の記事に対して「重大な部落差別行為」だと言い、上原善広とは姿勢と立場を異にしている。ただし、「連載をやめたのは表現の自由の抹殺だ」と言い、連載を続けるべきだったと言う。第1回だけを読めば、あの記事を「部落差別」だと早合点する者も出るのはやむを得ないが、連載の全体を通して、そうした第一印象が払拭される作品に仕上がっていただろう。第1回には、証言者(父親の親戚)の生々しい大阪弁(河内弁)の言葉が並んでいる。インパクトのあるイントロが作為されたわけで、作品の初めと終わりで感想が異なるということは、長編の小説やノンフィクションではよくあることだ。週刊朝日が2回目以降も連載を続ければ、橋下徹によるレッテル攻撃の威力も時間と共に衰え、多様な意見が広がり、この記事が「部落差別」のものだという評価が固まる事態には至らなかったはずだ。新潮45の上原善広の作品も、やはり父親の出身地である同和地区が特定されている。にもかかわらず、特に大きな問題にされなかった。佐野眞一が固有名詞の地名を出したのは、新潮45の記事が波風立てず素通りされていて、前例があるという安心感があったからに違いない。

浦本誉至史の発言は矛盾している。もし佐野眞一が連載を続けたなら、それは(浦本誉至史によれば)部落差別行為なのだから、記事が市中に広まれば広まるほど、人権侵害の被害が拡大することになる。被害を最小限に食い止めるためには、連載中止が最も適当な対策だ。浦本誉至史の主張は論理矛盾で、表現の自由と生まれながらの平等の二つの人権のバッティングについて、問題解決の脈絡に整合性が図られていない。上原善広の方は、二つの権利の問題が論理的に矛盾なく解を与えられ、ブレイクスルーの説得力になっている。二人とも、部落問題をタブーとして隠蔽しアンタッチャブル化することの弊害を説く結論は同じだが、浦本誉至史のように、佐野眞一の記事を「部落差別だ」と簡単に斬り捨てていては、タブーのセメントを剥がして議論の題材にするのは困難だ。結局のところ、マスコミや論者には、見て見ぬフリをする態度のみが無難な方向として動機づけられる。言論機関のコードとして自粛がマニュアル化されてしまう。部落問題で深刻なのは、陰湿な差別の人権侵害と同じほどに、それを問題提起しようとする者への圧力と脅迫であり、今回のような非合理でヒステリックな糾弾行動である。言論や思考を阻むタブーのアレルギーだ。今回の佐野眞一の筆誅は、まさにそのリスクをテイクした勇気あるチャレンジだった。佐野眞一の表現を「部落差別だ」と短絡して論難するようでは、この社会問題のタブー化と不可視化をさらに甚だしくする結果にしか導かない。

被差別部落の問題というのは、常に他の社会問題と複合的に絡んだ形で実在している。貧困や教育の問題として、中上健次的な底辺と暴力団の問題として、行政における同和事業の特権と腐敗の問題として。佐野眞一のルポは、橋下徹の出自を観察し、そこに暴力団の影が色濃くまとわりついている事実を認め、その真相を精確に描き出そうと試みたものだ。橋下徹の経歴や手法の暴力団的体質の原因を探索したときに、スコープの中に河内の被差別部落が入ってきたということだ。それは問題を構成する事実であり、無理に欠落させれば、ノンフィクション作品は半端なものになる。パズルのピースを欠いた不完全なものになる。橋下徹の人間性を描く上で重要な要素だと判断したから、佐野眞一は無視することをしなかった。しかし、題名を「ハシシタ」と銘打ち、挑発的なリスクテイクに及んだ結果、センセーショナリズムの刺激性が強くなり、「部落差別を助長するもの」という反発を正当化させた。そこには、週刊朝日編集部と佐野眞一の計算違いがある。週刊文春や新潮45のときは、あれだけプライバシーの暴露がされながら、橋下徹はこうした強烈な反撃に出ていない。橋下徹は、相手が朝日だから、ここまで徹底抗戦に出たのであり、朝日叩きをやったのだ。朝日叩きをやり、朝日本社との政治戦の駆け引きに出たのである。本人が言うとおり喧嘩をしたのだ。著者が佐野眞一であり、影響力が大きいから、見逃せなかったのだ。

朝日本社なら、部落問題と人権問題で攻めまくれば退いて折れるだろうという勝算があり、その通りになった。人権とは無縁な池田信夫のような右翼が、ここぞとばかり部落差別だと騒いだのは、目的が朝日潰しにあったからだ。朝日を叩いて右に寄せる。朝日を攻撃して黙らせる。このことを日本の右翼は半世紀以上続けてきた。新潮45がどれほど露骨に橋下徹の出自を暴いても、右翼は何も言わずに素通りするのである。ネット上に週刊女性の記事が出ていて、10/18当日の週刊朝日の編集部内の様子が伝えられている。10/18は当該号の発売翌日で、この日の午後の「ミヤネ屋」で橋下徹の会見がライブ中継され、視聴者から怒りの電話が殺到した。橋下徹と右翼はテレビを利用して集中攻撃を仕掛けるのであり、こうした怒濤の事態を編集部は予想していなかったようだ。テレビでは、橋下徹は改革の英雄の存在だ。テレ朝も、NHKも、橋下徹を持ち上げるだけで、批判する場面を見たことがない。大越健介のNW9では、橋下徹が映像に登場するときは、必ずナレーションで「この人は、」という幕間の演出が入る。橋下徹が国民の意見を代弁するご意見番で、橋下徹の永田町批判や「八策」が国民的正論であるとするポジショニングを際立たせる。その演出効果が1年間積もった挙げ句、橋下徹がテレビで朝日叩きをまくしたてると、橋下徹の扇動に視聴者が付和雷同するという世論基盤が出来上がってしまっている。まさに、「テレビがひり出した汚物」そのもの。

今回の事件はとても関心が高い。関心が高くて当然で、きわめて重大な政治問題である。私のような無名のブログにもアクセスが集まるのは、佐野眞一の記事を擁護する議論が少なく、言わば異色異端の主張として際立っているからだろうし、右翼がコメント欄に唾を吐きかけて炎上させてやろうという悪意からだろう。テレビ朝日の中で心ある者がいれば、上原善広を報ステかモーニングバードに出演させ、今回の事件についてコメントさせるべきだ。今回の事件で何が問題かと言うと、橋下徹と巧みに取引して「人権」を名目に連載を中止した朝日であり、サラリーマン根性剥き出しで卑屈に上の命令に従い、前言を翻して読者を裏切った週刊朝日の幹部たちだ。右翼たちは、朝日は橋下徹に借りができたなどと言っているが、そうではなく、両者が借りと貸しを作り合い、橋下徹と朝日とのダーティな信頼関係が深まったというのが実情だろう。しかし、それ以上に問題なのは、橋下徹や右翼の巧妙な罠に嵌り、釣られ、踊らされて、ネット上で「人権」を吠え喚いて橋下徹に与した連中だ。右翼に迎合した愚かな左翼たちだ。当該被差別部落の地名は、すでに新潮45の誌上で特定されている。橋下徹から大きな抗議はない。そうした事実も検証せず、また上原善広的な主張も考慮せず、単に生理的な脊髄反射で佐野眞一をバッシングする流れに乗った。この者たちの人権感覚や人権認識とは、一体どのようなものだろうかと訝り疑う。大阪の市職や教職員が、どれほど苛烈な不当弾圧と人権侵害を受けているか。

口元チェックがどれほど人格を破壊する虐待行為か。付和雷同して世論の流れを固めるのを手助けした左翼は、権利や人権の意味を何も理解していない。権利間の衝突と調整という法理構造の所在も念頭にない。そもそも、佐野眞一の記事が重大な人権侵害なら、なぜ部落解放同盟が非難声明を出さず、また現在の日本の政治家の中で最も人権問題に神経質な福島瑞穂が、この問題で佐野眞一を批判するTweetを発信しないのか。橋下徹に与して騒いだネットの左翼の頭の中では、大阪府市での非道な人権侵害は人権侵害ではなく、佐野眞一の筆誅こそが人権侵害なのだ。現に目の前で行われている人権侵害には目もくれず、問題にせず、権力者が言論機関を圧殺するために口実にした「人権侵害」には一瞬で頷いて靡く。佐野眞一の記事も読まずに反応して右翼に加勢する。今回見られた、蜂の巣をつついたような左翼の「部落差別」アパシーの狂躁と盲目的な佐野眞一叩きは、人権についての冷静な思考と基準から出来したものではなく、タブーである「部落」の記号への条件反射行動に他ならない。思考停止に媒介された短絡的な善悪判断だ。真に人権問題だから批判したのではなく、タブーに抵触する刺激反応で鳴動している。それが橋下徹と右翼による「部落」の政治利用であり、狡猾な扇動である点を見抜いていない。タブーと人権を混同している。左翼たちが人権の神聖性と思い込んでいるのはタブーの禁断性なのだ。人権の不可侵性と混同し錯誤しているのはタブーの不可触性なのである。

橋下徹や右翼や翼賛マスコミの「部落差別」や「人権侵害」の語が、朝日を撃って取り込む政治のプロパガンダとして発せられている本質を完全に見落としている。


by thessalonike5 | 2012-10-24 23:30 | Trackback | Comments(0)
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