2012年10月23日

橋下徹との非和解的闘争

目下のところ、言論に対する橋下市長のおぞましい弾圧が奏功したように見える。

 このような場合、いかなる立場をとるかに関しては、己れの政治的経験のすべてがかかる重大な決断を強いられる。どのような立場をとろうとも、それぞれ理屈をつけることはできようが、問題は政治的決断であるから、それを理性的説得によって共有することは容易ではないかもしれない。それでも少なくとも態度表明は、すべての言論人の義務であると感じるので、あえて書き記しておくことにする。


 我が国の憲法的原理は、憲法の初めの8カ条を除けば、大雑把に言って自由主義的原理と民主主義的原理に基づいていると言ってよいであろう。政治的主張がどのようなものであれ、それを基盤にして始めなければならない。

 しかし、ここで注意すべきは、この二原理が常に調和的とは限らないということである。たとえは、ヒトラー政権はワイマール民主主義の手続きに従って、民主主義のただ中から出現したが、それがあらゆる意味で自由主義の原理に反するものであったことは明らかである。大衆民主主義において、扇動家がチンピラ群衆を率いて一定の政治権力を手にするとき、民主主義の原理だけでファシズムを阻止することができないことは、歴史が証明している。必要なのは、自由主義原理を己れの精神の、魂の砦として堅持するガッツある市民の英雄的抵抗なのである。

 今般の事件の背景として、このような自由主義原理とチンピラ民主主義との血みどろの闘いを見ておかねばならない。教職員に対する大阪市の思想信教の自由の侵犯をかわきりに、選挙の多数の獲得によってすべてが正当化されるかのように、橋下市長は自由主義を踏みにじってファシズム体制を志向した。今なお、現場で必死に抵抗している多くの英雄的教職員が存在するのだ。

 これを、政策論争の問題だとするのは、事態をまったく誤認するものでしかない。敵は、思想表現の自由を侵害し、個人のよって立つ自由権という基盤を掘り崩すことによって、既に政策論争の舞台をひっくり返してきているのであり、そのままチンピラ・モッブを率いて国政に打って出ようとしているのである。ちょうどヒトラーが、国会の少数党でありながら、首相に任命される前夜の状況と酷似している。敵は既に、権力を行使して、憲法の自由主義的原理を攻撃しているのだ。そもそもチンピラたちが掲げるスローガンなど、いつでも翻せる床屋政談の戯言である。いちいち取り合って反論する必要もないものである。

 「差別批判」に訴えて、橋下氏は反撃を開始したが、そもそもこの「差別批判」こそ、大衆民主主義が常に金科玉条のものとして掲げる原理であり、その信奉者たちの情熱を惹きつけやすいスローガンであることを銘記しておこう。だが、この原理にそもそもいかなる大義があるのか? それは、「大衆」のルサンチマン(怨恨)的視点からでっち上げられた価値にすぎず、嫉妬心の裏返しでしかないのかもしれない。人々の共感を得やすいものが本物であることはまれである。

 今日、「下層民衆」が「上流エリート」と同程度の判断力を保持していること、女性が男性にまさるとも劣らない力量を発揮し得ることを私は否定するものではない。しかし、それは事実上そうだということが歴史上実証されているということにすぎない。原理上民主主義の権威を支えるものは、歴史上の事実しかないのだ。このことはトクヴィルが認める所だ。

 もちろん、「平等」も規範である以上、単なる事実とは違うとも言われよう。しかし、それが「対等者を対等に扱うべし」という規範であるとすれば、誰が対等であるかを決するものは何であろうか? 誰が対等で有り得るかは、歴史的に推移したのであり、事実上すでに対等である者の対等性を(権利上)認めないことから生じる、あまりの不都合を制御し得なくなったことから、対等者の範囲を拡大してきたのである。

 これに対し、自由権という価値はまったく異なる起源を有している。それは、所有権に典型的に見られるように、土地所有に命をかける(一所懸命)武装集団の特権に由来している。つまり、自由権の起源となったものは、権利のための闘争なのである。

 今日の憲法体制では、諸個人の自由権の平等という形で自由と平等が結合しているため、両者は一体のものと見なされがちだが、二つの価値理念の起源の違いは残っている。両者が対立拮抗する場面においては、この起源の違いに留意しなければならない。

 両原理が対立するとき、自由権が優先されねばならない。自由という個人の拠点が失われた所での平等(奴隷の平等)などには、何の価値もないからである。ことに大衆民主主義が個人の人権を圧倒し、すべてを平坦に引き均していく全体主義的傾向と対決するに際して、嫉妬心を煽りたてる平等の大合唱に対しては、警戒を怠るべきではない。被差別部落に言及しただけでその言説を忌避するなどという神経過敏症的反応は、部落解放運動や基本的人権の擁護とは何の関係もない。そのような過敏症的短絡こそ、部落解放闘争の歴史そのものを愚弄することである。

 我が国の最下層貧民の生活に、深く暴力団が食い込み、彼らの便宜をはかるという口実で、吸血鬼のように彼らを収奪するという構図が続いてきた。アメリカでのイタリア移民たちにマフィアが食い込んできたようなものである。暴力団は、一見すると反権力であるように見えるが、県警の本部長と暴力団が裏でつながっている場合があることはよく知られている。したがって、下層民衆の生活の中に、暴力団と警察が、むき出しの暴力として影を落としていることは常識と言ってよいだろう。その点に関しては、以前ここで、金嬉老事件を扱った鈴木道彦氏の『越境の時―1960年代と在日』を紹介したとき触れておいた(2007年6月29日の記事参照)。現実の闘争は、敵味方がはっきりと紅白に分かれて戦うような戦いではないのだ。味方の中にも敵がおり、敵の中にも味方がいる。

 はたせるかな、暴力団とのつながりという自らの出自を暴かれた橋下氏が、大衆のルサンチマンを総動員する政治手法で自らの危機を乗り越えようとしているのは、いかにも有りそうなことである。これまで彼がテレビを使ってまんまと権力を手にしてきたのが、もっぱらこの戦略だったからである。彼は再び、「差別」に敏感な大衆にルサンチマンの金切り声をあげさせることで、事態を有利に切り開こうとしているのだ。

 だからこそ、「差別主義者」と言っただけで何ごとか批判したつもりになる白痴的思考停止を、打破せねばならない。それは、ファシストと闘う上で不可避である。

 そのさい「人格批判」にまで踏み込むことが必要なことは、これまで私自身繰り返し強調してきたことだ(たとえば、2006年6月21日付「左翼の言語戦略(1)」の記事参照)。ファシスト・チンピラを相手にする場合、共通のアリーナも共通ルールもあるはずがない。もちろん場合によっては暴力を含むあらゆる闘い方が必要である。「どっちもどっち」などという無責任な逃げ口上は、暇人のたわごとである。すでに敵は権力を手にしているのだ。言論しか闘う手段を持たない者たちが、警察と暴力団を合わせたような途方もない暴力と闘っているのだということを、ゆめゆめ忘れてはならない。
参考までにhttp://twitpic.com/photos/jarinko_tetsu

Posted by easter1916 at 15:51│Comments(0)TrackBack(0)

この記事へのトラックバックURL

http://trackback.blogsys.jp/livedoor/easter1916/52284442