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徳島の保守

2010-08-16

通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)   日本人皆殺しの地獄絵・其の二

政治blog「徳島保守」 8月16日日担当 吉川


通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)

日本人皆殺しの地獄絵・其の二


前回、7月30日の更新より長く間が開きましたが、通州の惨劇を体験されたSさんのお話の続きを掲載致します。お待たせいたしました。


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Sさんの体験談

(続き)

こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人

だけになりました。日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。

行商に歩いていると日本人に出会います。私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。私はあまり心配だからあるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。私はTさんには悪かったけれど、紙一杯に委しくこうした支那人達の動き、朝鮮人達の動きがあることを書きました。そして最後に用心して下さいということを書いておきました。この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。でも何も変わったことはありません。これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。そして上海日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。その当時のよく言われた言葉に「日本時は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。私はびっくりしました。それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いや支那という国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。しかし日本に帰るべくT山河にほんの状況をいろいろ調べてみると、日本では支那撃つべし、支那人は敵だという声が充満していたそうです。そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

日本人の居住区にもよく行きました。この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。でもTさんはそれを許しません。それで日本人の居留区日本人と話すときも支那語で話さなくてはならないのです。支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。このときはとても悲しかったのです。それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人に対して優越感を持っているのです。ということは支那人に対して侮蔑感を持っていたということです。相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。このことが大変悲しかったのです。私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。

Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。それだけにこの通州の支那人の日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、「困った、困った、こんなに日本人と支那人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」と言うのです。そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。

しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。そして「危ない」「危ない」と申すのです。それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、支那人が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。だからといって逃げ出すわけにもまいりません。そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。それが七月になると「日本人皆殺し」「日本時は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。支那人達が大騒ぎをしているのです。何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍支那軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したので支那人達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。私はびっくりしました。そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。この頃でした。上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。突然私はTさんに烈しく起こされました。大変なことが起こったようだ。早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。町には一杯人が出ておりました。そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。でもまだ辺りは薄暗いのです。何がどうなっているやらさっぱりわかりません。只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。私はTさんと一緒に逃げながら「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。それが八時を過ぎる頃になると、支那人達が「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。そして「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」と私を抱きしめるのです。それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。私はTさんと結婚して支那人になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。それは日本人の血といか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。

(次回に続く)


通州事件の惨劇 −日本人皆殺しの地獄絵−は、財団法人慧燈財団、前理事長であられた、調 寛雅(しらべ かんが)氏著作『天皇さまが泣いてござった』より、氏のご子息様のご許可を頂き、引用掲載させて頂いております。

参考書籍、「天皇さまが泣いてござった」では、証言者であるSさんのお名前が掲載されていますが、当ブログではイニシャル表記とさせていただきました。

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参考書籍

天皇さまが泣いてござった」

著者:しらべ かんが

教育社発行 定価1800円


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通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)−日本人皆殺しの地獄絵−』URL一覧

其の一 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1

其の二 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100816/p1

其の三 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100901/p1

其の四 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100915/p1

其の五 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100929/p1

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▽以下、告知コーナー




北朝鮮人権侵害を考える市民集会(全3回)

「HRネットワーク徳島」が主催で標記催事が開催されます。仔細は下記のとおりです。

平成22年度阿南市人権教育・啓発に係る調査研究活動補助事業

北朝鮮人権侵害を考える市民集会(全3回)」

● 第一回 

テーマ : 「総合犯罪国家」北朝鮮拉致問題

講 師 : 黒坂 真氏(大阪経済大学教授)

日 時 : 平成22年09月19日(日)

時 間 : 13:30〜15:30(13:00開場)

会 場 : 那賀川図書館研修室

● 第二回 

テーマ : 「よど号グループと拉致」

講 師 : 岡田 和則氏(特定失踪者問題調査会副代表)

     上野 一彦氏(救う会高知副代表)

日 時 : 平成22年10月24日(日)

時 間 : 13:30〜15:30(13:00開場)

会 場 : 那賀川図書館研修室

よど号グループとは、1970年によど号日本航空351便・ボーイング727-89型機、愛称「よど号」)ハイジャック事件を起こし、北朝鮮亡命した共産主義者同盟赤軍派グループ。

● 第三回 

テーマ : 「帰国事業の真実」

講 師 : 萩原 遼氏(高知県出身ジャーナリスト

日 時 : 平成22年11月21日(日)

時 間 : 13:30〜15:30(13:00開場)

会 場 : 那賀川図書館研修室

*帰国事業(在日朝鮮人の帰還事業)とは、1950年代から1984年にかけて行なわれた在日朝鮮人とその家族による日本から朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)への集団的な永住帰国あるいは移住のこと。

*上記3集会での参加費は無料です!

転載元

http://plaza.rakuten.co.jp/19951207/diary/201006290000/



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田母神俊雄 第29代航空幕僚長 高知講演会

『今の情勢を鑑み将来の日本を考える』

日時:平成22年9月20日(月祝)

講演14:00〜16:00

会場:高知県須崎市立市民文化会館

住所:高知県須崎市新町2-7-15

参加費:一般市民2,000円

定員:964名

主催: 高知県須崎市立市民文化会館

問い合わせ先:0889-43-2911


田母神俊雄 第29代航空幕僚長 公式ホームページ

http://www.toshio-tamogami.jp/



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■各政党の連絡先

http://gameandpolitic.que.jp/wiki.cgi?page=%B3%C6%C0%AF%C5%DE%A4%CE%CF%A2%CD%ED%C0%E8



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■政治ブログ「徳島保守」お問い合わせ用 Eメールアドレス

awahosyu@gmail.com

※投稿文も受け付けております。


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徳島県関係の特定失踪者」

戸島金芳  1955年1月14日 貞光駅で失踪(ご家族は県外に居住)

正木冽子 1961年9月24日 眉山公園で失踪(ご家族は県外に居住)

山本正樹  1966年7月11日 大阪で失踪(徳島県出身・ご家族が徳島に居住)

A(男性) 県外で失踪(徳島県出身・ご家族が徳島に居住)

七條 一 1970年2月10日 金沢で失踪(徳島県出身・ご家族が徳島に居住)

B(女性) 県内で失踪(徳島県出身・ご家族は県外に居住)

至極 透 1978年7月13日 和歌山で失踪(徳島県出身・ご家族が徳島に居住)

秋田美輪 1985年12月4日 神戸で失踪(ご家族が徳島に居住)

松岡伸矢 1989年3月7日  貞光町で失踪(ご家族は県外に居住)

賀上大助 2001年12月22日大阪で失踪(ご家族が徳島に居住)


救う会徳島(らちねっと徳島HP

http://www.geocities.jp/sansyoukai223/index1.html


【動画紹介】

短波放送で拉致被害者救出のメッセージを北朝鮮に発信し続けています

拉致被害者の方々へのメッセージ

http://www.youtube.com/watch?v=QeN6w0u5WUc

D

北朝鮮に拉致された方々へ向けたラジオ放送「しおかぜ」をご存じですか。

ご家族からのお手紙を短波放送を使って毎日読みあげています。拉致被害者の方々が一刻も早く救出され、ご家族のもとへ戻られることを願っています。

しおかぜ通信HP : http://www.senryaku-jouhou.jp/shiotsuu.html



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日韓併合は、日韓併合は、 2010/08/17 10:29 日韓併合は、当時の欧米型の植民地政策ではなく、
日本による朝鮮半島の吸収合併であり膨大な資本投資を伴う近代化と同化政策だった。

ところが、韓国人と韓国人のお仲間によれば、日本は朝鮮から、
「国を奪い、文化を奪い、言語を奪い、名前すら奪った」ことになっているらしい。

・国を奪い?
韓国の国旗の李氏朝鮮の時代の正式名称は、大清国属高麗国旗だった。
日本が日清戦争に勝利し下関条約を締結するまで、朝鮮は清国の隷属国だった。
日本が、李氏朝鮮を清国から独立させた。
つまり、国を奪ったのではなく国を与えたのだ。

・文化を奪い?
朝鮮総督府は、奴隷制、試し腹、病身舞、呪術的な民間療法、拷問、不衛生な料理を禁止した。
民族固有の文化なり風習は、35年間ほどの近代化政策で失われるものではない。
今の韓国と北朝鮮に脈々と生き残っているではないか!

・言語を奪い?
漢文で読み書きしていた貴族階級以外のほとんどの朝鮮人が文盲だったので、
同化政策の前に学校を作りハングル文字と朝鮮語の教育から始めなければならなかった。
日本が、文盲の朝鮮人にハングル文字と標準的な朝鮮語を与えたのだ。

・名前を奪い?
創氏改名の創氏は、戸籍制度のために、夫婦別姓の朝鮮人の一家に、家族で一つの氏を決めさせたこと。
改名は、任意。
日本は朝鮮人から名前を奪っていない。

民主・鳩山代表 2009年7月26日民主・鳩山代表 2009年7月26日 2010/08/26 10:29 首相経験者は退任後引退を…民主・鳩山代表

民主党の鳩山代表は26日、新潟県新発田市での衆院選立候補予定者の集会で、「首相を退任後、政界に残ってはいけない。影響力を残したいという人が結構いるが、首相まで極めた人がその後、影響力を行使することが政治の混乱を招いている」と述べ、自民党の森元首相らを批判した。

 鳩山氏は集会後、記者団に、自身が首相に就任した場合でも、首相退任後は衆院選に立候補しない意向を示した。

(2009年7月26日21時55分 読売新聞)

http://bit.ly/y8VT6
相変わらずのクズっすなぁ

在日特権在日特権 2010/08/27 00:21 ■生活保護だけじゃない在日特権  

   <丶`∀´> 在日貴族 うはうは〜

地方税→ 固定資産税の減免
特別区→ 民税・都民税の非課税
特別区→ 軽自動車税の減免
年  金→ 国民年金保険料の免除  心身障害者扶養年金掛金の減免
都営住宅→ 共益費の免除住宅   入居保証金の減免または徴収猶予
水  道→ 基本料金の免除
下水道→ 基本料金の免除     → 水洗便所設備助成金の交付
放  送→ 放送受信料の免除
交  通→ 都営交通無料乗車券の交付  JR通勤定期券の割引
清  掃→ ごみ容器の無料貸与   →  廃棄物処理手数料の免除
衛  生→ 保健所使用料・手数料の滅免
教  育→ 都立高等学校     高等専門学校の授業料の免除
通 名→ なんと、公式書類にまで使える。( 会社登記、免許証、健康保険証など )
     → 民族系の金融機関に偽名で口座設立→犯罪、脱税し放題。
     → 職業不定の在日タレントも無敵。
     → 凶悪犯罪者の1/3は在日なのに実名では報道されない。
生活保護→ 家族の人数 × 4万円 + 家賃5万円 在日コリアンは、ほぼ無条件で貰えます。
      →日本人は孤児だろうと病気だろうと、絶対に貰えない。
      →予算枠の大半を、人口比率1%未満に過ぎない在日が独占。
      →ニートは問題になっても、この特例は問題視されない。
住民票→ 外国人登録原票」は通常、一般人では閲覧できない。
       (日本人の場合、債権関係の係争で住民票を閲覧される)
さらに…→ 生活保護予算の大半は在日だけの特権保護費

★ほとんどの日本人が、このような特権の存在を知らない

◇民主代表選の仕組み◇民主代表選の仕組み 2010/08/27 19:54 ◇民主代表選の仕組み
 民主党代表選は2年の任期満了時に行われる場合、地方議員や党員・サポーターも投票して「ポイント」を争う。412人の国会議員には1人2ポイントを配分。地方議員には全国の党所属議員全体に100ポイントが割り当てられ、得票割合に応じてドント式で各候補に振り分ける。党員・サポーター票は300ポイントで、衆院300小選挙区ごとに投票して最多得票の候補が1ポイントを得る。今回は計1224ポイント。

蓮舫大臣(笑)蓮舫大臣(笑) 2010/08/29 00:10 徳田たけしのブログ貼っとくか

9月に行われる民主党代表選挙を巡り、民主党内での動きが活発になっている。
18日、蓮舫行政刷新担当大臣は神奈川での研修会にて、
「9月の代表選で首相が変わるなら、(解散)総選挙が筋だ」と述べ、
菅総理の再選阻止を目指す党内の動きをけん制したとの報道があった。
解散してくれるのは大歓迎だが、
民主党内だけで行われる代表選挙で代表が変わるならば選挙をするのが筋と言うのは、どういう了見なのだろうか。
野党の私たちが言うのなら分かりますが、
菅内閣の閣僚である蓮舫大臣が言われることには、とても違和感を感じる。
地盤の弱い一年生議員はすぐに解散になると困るのでそんな事を言っているのだろうが、
民主党の一年生議員もそんな脅しを真に受けて、
我が身可愛さの判断基準で民主党代表イコール我が国の総理大臣を選ぼうと言うのなら、馬鹿な話だ。
代表が変わる度に解散選挙するというのなら、
鳩山総理が辞任された際に解散をするべきだったのではないか。
その時は何一つ異議を唱えることなく、菅内閣が発足すると大臣の座に座り、
今度は菅総理が変われば解散を主張されるのは余りにも利己主義であり、それこそ筋が通らないのでは。
ちなみに衆議院の選挙では約700〜800億円くらいの費用が掛かるそうです。
事業仕分けで名を上げた蓮舫大臣が、民主党の都合次第でそれだけの国費を使おうというのだから、
呆れて笑うしかない(笑)

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