その義憤を「裁き」ではなく「問題解決」に向かわせる

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2012/10/23


テラケイさんからこんなツイートを貰ったので、解説したいと思います。


義憤を抱いて正義の刃で攻撃するか

仰る通り、僕は「世の中の問題に対して勝手に義憤を抱き、問題解決のために行動する」ことを素敵だと思いますし、そういう人が増えるべきだと思っています。関与するべき客観的な理由がないのに、当事者意識、責任感を抱いてしまうような人たちです(「俺があの難病の子を救わずに、誰が救うんだ!」みたいな)。

そういう人たちと、僕が「私刑執行人」と呼ぶ人たちには明確な違いがあります。私刑執行人の方々は、抱いた義憤をもって、他者を裁くことに力を割いてしまうのです。


例えば「生活保護の不正受給」という問題で考えてみましょう。

私刑執行人たちは不正受給の報道を見聞きし、「我々の税金を使ってのうのうと生きやがって!」と当事者意識を全開にし、悪人を全力で叩きます。

一方で、僕が増やしていきたいのは、そこで「なぜ不正受給が発生するのか?不正受給を減らすいい”仕組み”はないのか?そもそも不正受給は関連する問題と比較したとき、大問題といえるのか?」と想像力を膨らませ、問題の根本的な解決に奔走できる人たちです。


蛇口が壊れて水浸しになっていたとき、「蛇口を壊したのは誰だ!早く誰か床を拭け!早く直せ!」と怒り狂うか、すぐに水道の元栓を締めにいくことができるか、という違いとも例えられるかもしれません。怒りを抱いて他罰的になるか、当事者として問題の解決にコミット、という差異です。

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photo credit: Andreas. via photopin cc


僕は「当事者でもないのに怒る人たち」ではなく、「当事者でもないのに怒り、他者を裁こうとする人たち」に辟易としているのです。ほとんどの場合、そうした行為は「社会のため」の名を借りた、ただの憂さ晴らしです。「国が悪い!」「公務員が悪い!」というのも同じでしょう。


何か問題が起きたとき、その裏にある「仕組みの問題」に着目できるか、単に「悪人」を非難し排除するのか、これは大きな違いです。社会問題が噴出するこれからの時代、他罰的な人が増えると息苦しくなるだけなので、「罪を悪んで人を悪まず」式の寛容力、問題解決志向が重要になると思います(まぁ僕自身が、人のこと言えるほど寛容ではないのですが…)。


関連本。僕が社会起業家と呼ばれる人たちを追っているのは、彼らが「義憤を問題解決に向かわせる」ことに成功しているからです。こちらは病児保育のフローレンスを始めた駒崎さんの手記。