それは当然だが(8) 家が火事なのに「子どもを助けるべきか」を論じる愚かさが主流?? (10/15)
先日、ある有名な雑誌を見ていましたら、なんと原発事故から1年以上も経っているのに、「どのぐらい被曝しても大丈夫か?」という特集をやっていました。
2011年3月に原発事故が起こった時、ある雑誌の編集長から「武田さんはダイオキシンが安全と言っているのに、被曝は法律を守れというのは矛盾しているのではないか」と聞かれたことがあります。それについて、私は次のような見解をいいました。
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1)火事が起きている時には家の中から子どもを救うことが第一で、やけどと命の関係や、家を建て替える議論はしてはいけない(福島原発が爆発したときには、とにかく子どもを逃がすのが第一)、
2)道路標識が60キロで運転中の時で先を急いでいるときに、助手席に交通の専門家がいても「この道路は80キロまで大丈夫だ」と言ってはいけない(いくら専門家でも、被曝している時には、まず法令を確認し、知らせるべき)、
3)酔っ払い運転をしようとしている人に「日本は0.15だけれど、諸外国は0.25だから、大丈夫」と言ってはいけない(法令の数値に不満があっても、それは別の場所で)、
4)しかし、火事、運転中などでなければ、法令の改定などの議論は大いにやるべきだ、
5)従って、まずは「1年1ミリ」の被曝限度を守り、住民を避難させる努力が必要だ。みんなが安全な所に避難し、その後、帰れるかどうかというなら、限度の見直しはあるだろう、ただ法令で決まっていることを国が委員会も開かず勝手に変えることができない、
6)1年1ミリは国が決めたことで、これを「反対派に強要されたから」というような理屈は成り立たない、
7)1年1ミリを守ると「お金がもったいない」というなら、それを正面から言うべきで「安全だ」と言うことはできない。
しかし、未だに議論が混乱していて、しかもそれを支持する人の方が多いのは実に不思議です。上に書いたことはそれほど特殊な考えでもなく、今までは日本の標準的な順法精神だったように思います。それを指導層や大手の新聞や雑誌が「普通」としない理由があるのでしょう。
(平成24年10月15日)
--------ここから音声内容--------
先日ある非常に売れている雑誌を見ておりましたらね、なんと原発事故から一年以上もたっているのに、「どのぐらい被曝しても大丈夫か」という特集をやっていたんですね。いやまぁ実は非常に不思議な感じがします。2011年3月に原発事故が起こった時にですね、ある雑誌の編集長から「武田さんはダイオキシンが安全だと言っているのに、被曝は法律を守れと言っているのは矛盾してるんではないか」と聞かれたことがあるんですが、それについては私はですね、その時にある見解を述べました。
それはですね、「物事が起こってる時と、起こってない時の差がある」ということなんですね。例えば火事が起きている時には、家の中から子供を救うことが第一でですね、その時に「どのぐらい火傷したら命を落とすだろうか」とかですね、まして「家を建て替えるにはどうしたらいいだろうか」という議論をしてはいけないと私は思うんですね。
全力をあげてまず子どもを救ってから、まずは考えるというのが順序ではないかというふうに思うわけですね。それからこれは法令という…この1番は法令と関係ありませんね。とにかく危険から救ってから物を喋ると…議論をするという、そういう順序ですね。これはまあおそらく人類共通の倫理でないかと思うんですね。
それから交通事故を…法令との関係では、交通標識が60キロになっている時に、非常に急ぐ用事があるという時でもですね、助手席に交通の専門家がいてですね、「この道路は80キロまで大丈夫だ」と、「急ぐんだから80キロで走ったらいいか」というふうに言うのはですね、やっぱこれは控えなきゃいけない。
少なくともですね、天下の雑誌なんかにですね、こういったことを書くというのは非常に不見識ですね。それからこれは酔っ払い運転なんかはもっとそうですね。例えば日本の酔っ払い運転の基準はですね、実は博多の事件があって非常に厳しくなって0,15になったわけですね。これには異論があるんですよ。「そんな、諸外国と違う」とかですね、異論があるんですが、しかしある人が酔っ払い運転をしようとしてる時ですね、酒場を出てですね、そういう時に「お前これでいい、大丈夫だよ」と言ってはいけないんではないかと。
で、しかしですね、火事だとか運転中でなければ、私は法令の改正の議論は大いにやるべきであると思いますね。事実私もこのブログに書いたように、私は原発事故が起こる前はですね、3ミリぐらいまでは大丈夫じゃないかとか、それから被曝とですね…今でもそれは同じこと言ってるんですが、被曝と…被曝量と病気の関係はあまりハッキリしないんだからっていうことで言ってるんですね、私自身が。それはもういつも認めてるんですよ。
しかしですね、まずこう…事故が起こったら、そういう議論をですね、のんびりとやってることは絶対不適切だと私は思うんですね。とにかくまずは法令で定められた一年1ミリを守り、住民を避難させる努力をすることが大切だと思うんですね。今度事故の最初からですね、一年100ミリでいいんだとか、被曝大丈夫だと言ったことによってですね、ずいぶん避難が遅れましたですよ。SPEEDIを隠したっていうのはどういう根拠によるかよくわかりませんけどね。
まずとにかく安全な所に避難して、その後ですね、変え(ら)れるかどうかっていうんなら、ある程度ちゃんとした議論をすればですね、限度の見直しはあり得るだろうと思うんですよね。10ミリまで一応帰すとか、その時に医療被曝をできるだけ下げるとか、帰った人に対しては健康診断するとか、色んな方法ありますからね。
だけども避難させないっていうのはどうなんですかね。それで私が「避難した方がいいじゃないか」って言うと、そっちを非難するっていうのは…なんか罵倒するってなんか変ですね。それで、こういう話があるんですよ。「一年1ミリっていうのは、だいたい反対派に強要されたからしょうがなくやったんだ」っていう、そういう説を言ってる人がいるんですが、僕は、これもまたですね、国としては見識のないことですよね。反対派が強かったから国が一年1ミリにしたんだと。ほんとはそう思ってなかったんだっていう、そういうやつですね。
それからもう一つは、お金がもったいないって、これは口に出して言わないんですが、聞いてみるとどうもお金がもったいないと。福島の人が少し病気してもいいじゃないかと。これはフォード・ピント事件をこのブログでも言いましたけど、もう既に1970年代にこっちに…最近ではですね、被害が予想されてるのに、被害が出たら補償すればいいっていう考え方はダメだっていうことになってるんですよね。なってるものをくつがえすんであれば、それはそれでハッキリ言ったらいいんですね。「そういうふうになってたけども、この際くつがえしたい」と。
しかしまあ私もちょっとですね、反省してみようかなと思って、明日まぁちょっと立派な人にお会いすんで聞いてみたいと思ってるんですけども、実は一年1ミリを無視して、火事場から逃げさせなくていいと言ってる人が多いんですよ、割合と、有識者で。この人たちが本当に御用学者だけなのかという点じゃ、ちょっと疑問があるんですね。何か右翼の人たちがそういう意見が多いとこ見ると、右翼の人たちはなんか国を守るために、法律を守らなくていいというふうに思っておられるのかもしれないですね。
そうしますと私ね、ちょっとね、再軍備今まで賛成してきましたけどね、「本当?」っていう感じになりますね、ええ。やっぱり法律は守るっていうですね、一つのこう…決まりですね。悪法も法だという一つのですね、覚悟がいるんではないかというふうに思います。