初回公開日:2012年10月08日
最終更新日:2012年10月14日
1.「ニセ科学批判批判」という言葉
「ニセ科学批判批判」という言葉は、文字通りに取れば「ニセ科学批判に対する批判」です。ですからその中には「不毛な議論を呼ぶダメな批判」も「耳を傾けるべき提言」も含まれている筈です。しかしながら、私自身と私の知る何人かの方々は、この言葉を否定的なニュアンスで使う事が多い様です。おそらくその原因は、ダメな批判批判に悩まされてきた経験が多いからでしょう。その為、批判批判という言葉を色付きで見てしまいがちなのです。
もっとも、色付きで見られるといえば「ニセ科学批判」という言葉自体がそうだとも思えます。
改めて簡単に書きますと
ニセ科学批判:ニセ科学を批判する事。個別の批判行為の総体。「スポーツ」という名前のスポーツが存在しないのと同じ意味で「ニセ科学批判」という名前の行為は存在しない。
ニセ科学批判批判:ニセ科学批判を批判する事。ダメなものも良いものもある。
となります。
そこでここでは、ダメな批判批判と良い批判批判を選り分ける試みをしてみたいと思います(勿論「選り分ける」と言っても、グレーゾーンを挟んだグラデーションで繋がっている・・・と考えるのは、いつもの事ですが)。
2.ダメな「ニセ科学批判批判」の例と、ダメな理由
ダメな「ニセ科学批判批判」の例に関しては「ニセ科学批判まとめWiki」の中の、このページにまとめてあります。詳しくはそちらを見て頂くとして、ここでは「なぜダメなのか」についてもう少し考えてみたいと思います。
手始めに、ニセ科学批判批判に限らず、もっと日常的にみられる「ダメな批判の例」を幾つか示してみましょう(上のWikiに書かれた内容とも共通する部分はあります)。
例えば、
「わざわざそんな事に手を出さなくても、放っとけばいいんじゃないの?」
「そんなやり方じゃダメだよ」
「くだらない事やってるね」
「そんなの信じる人いないし」
「どうでもいいじゃん、俺は引っ掛からないよ」
こういうのは、ダメな批判ですよね。もはや批判というより、単なる悪口と言った方が良いかもしれません。
では、何故「ダメ」なのでしょうか。
幾つか原因はあるとは思いますが、私が最も重視したいのは「実践しない立場からの意見だから」という点です。自分で実践している人、完全に同じ目的ではなくても、共通する部分のある内容を実行している人は、あんまりこういうダメな批判をしません。たとえ「そんなやり方じゃダメだよ」と言ったとしても、その後には「こうすればいいかも。自分はそうしているから」という具体的な話が続いたりします。
この様に述べてくると「じゃあ、自分でやらない人は何も意見しちゃいけないのか」という反論が出てくるかもしれません。しかし、そうではありません。「自ら実践していなくても意見を言って構わない、むしろ言うべき場合」もあります。
どういう時かと言いますと、それは「利害関係者である場合」です。つまり、ニセ科学により被害を蒙った人の言葉であれば、たとえ自分では何もしていなかったとしても、その言い分には拝聴する価値があります。また逆説的ではありますが、ニセ科学により利益を得る人の意見からも、何かしら得るもの(例えば反面教師であるとか、批判側が自らを改善するヒントとか)はある筈です。
以上をまとめると「当事者性の欠如した批判はダメである」という事になります。その点を頭に置いたうえで、再度、先程示したダメなニセ科学批判批判の例を見て頂くと、何となく腑に落ちるかもしれません。
3.当事者とは誰か
前項の後半で述べた「当事者性」について、もう少し詳しく述べます。
大雑把に言って、ニセ科学批判の当事者には3種類あると考えます。即ち、
1)ニセ科学を広める人(提唱者、信奉者)
2)ニセ科学の被害者(予備軍を含む)
3)ニセ科学の批判者
の3つです。
ひとつ注意すべきなのは、時に1)と2)の境界が不明瞭である事です。ニセ科学を信じ込んでしまった人は、第一義的には被害者ですが、他者を巻き込む事によって、同時に加害者になる可能性を秘めています。これはニセ科学問題の重要な側面であり、悪徳商法やカルト宗教、そして放射線関連デマの拡散などにも共通して見られる現象です。
ですから、ここは考え方次第なのですが、1)と2)の重なりを強く意識するのであれば、1)を更に「提唱者及びそれに近い人々」と「信奉者」に分けるべきかもしれません(但しその場合でも、やはりその2者の境界が不明瞭であるという問題は生じる訳です)。
さて、ここで当事者性を最大限に見積もるには「誰でもニセ科学の被害者になり得る」と考えれば良いでしょう。そうすれば、殆どの人が2)(の予備軍)に含まれる事になります。
その場合、2)(の予備軍)としての意見、即ち「自分もいつ被害者になるか解らない」という立場からの意見には当事者性が有ると言えます。その一方で「自分が被害者になる筈が無い」という立場からの意見(例えば「騙される奴がバカなんだよ」という意見など)には、当事者性が欠如していると言えるでしょう。
4.ニセ科学批判者の当事者性について
(10月14日追記:当事者性については、コメント欄での議論も是非お読みください)
ところで、ここまで読まれた方の中には「そんな事を言うなら、一番当事者性に欠けているのは、当のニセ科学批判者なんじゃない?だって、所詮、他人事でしょう?」という意見があるかもしれません。
確かに、一理あります。
しかし、この意見には3つの点から反論が可能です。
1つ目は「ニセ科学の批判者の多くは、かつてニセ科学の被害者であった(一部は、加害者でもあった)」という点です。
これには様々なレベルがありますし、個々人によって事情も違うでしょう。私自身の例を簡潔に述べれば(既に御存知の方もいらっしゃいますが)、私もかつては超能力やオカルトに傾倒していた時期がありました。
2点目は「批判行為それ自体が、当事者性を帯びる可能性を持つ」です。言い換えれば「批判する事によって、自ら当事者である事を選び取る」とも言えます。
そして3つ目は「ニセ科学の(広義の)被害者は、社会全体である」という考え方です。ニセ科学が蔓延すると社会全体のコストが増加し、社会の構成員全体がそれを負担しなければならなくなります。実は、こうした例は枚挙に暇がありません。
例えば「EM菌で放射能除染」というのが広まると、無駄なお金を使うだけに留まらず、本来必要な除染が遅れるという事態にもなりかねません。また「悪性腫瘍などの重い病気をホメオパシーでしのぐ」という人が増えると、手遅れになってから病院に来る例が増えます。本人や周囲の人々が酷く苦しむだけでなく、最初から病院に行った場合に比べ、より多くの医療リソースを消費してしまうという問題に繋がります。
我々はどうしても自分の目の届かない所で起こっている事態は軽視しがちですので、こういう「目に留まりにくい部分」にも気を付けた方が良いと考えます。
勿論、世の中には、上記の様な立場を取らずに「所詮、他人事」としてニセ科学に対する批判を行う人も居る事でしょう。しかし、それはやはり「ダメな批判」なのです。ニセ科学批判であれ、ニセ科学批判批判であれ、当事者性を欠如した批判行為は、ダメな批判である確率が非常に高くなると言えましょう。
これを一言で(格好良く)述べるならば「空疎な理念しか述べない評論は、実践の役には立たない」とでもなりましょうか。
但し、あくまで学問(あるいはディベート、もしくは頭の体操)として行うのであれば、その限りではありません。
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当事者性、と云うか、当事者意識みたいな話はわりとややこしくて。
返信削除ニセ科学に対する批判的な言説は、おおむね個別のニセ科学に対して、その社会との関わり合いにおける問題点に向けられます(その「社会」がある限定的なコミュニティであれ、よりグローバルなものであれ、また当事者性の濃淡はあれ)。なので、批判的な言説を発するものがその社会における当事者であり、したがってその社会において基盤とされている「科学」と云うものに対しても当事者である、と云うのが前提となります。もちろんそこから出発してよりメタな方向に議論が展開することはありますが、立脚点はそこです。
ただし、いわゆる「批判批判」をおこなう側は、かならずしもそうではない。論者によっては、勝ち負けを競うための単なるディベートの材料としか捉えていないケースもある。そうすると、「批判批判」を受ける側は、結局なにが目的なんだこのひとは、みたいになってしまって、致命的な齟齬が生じたり。
このへんの話は、うちではこのあたりで書きました(例によって、コメント欄の議論のほうが充実しています)。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-01-29
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-01-31
>Poohさん
削除有り難うございます(3つの意味で)
1つめは勿論、お越し頂いてコメントまで頂いた事に対して。
2つめはコメントの内容に対して(後述します)。
3つめはPoohさんの過去記事を御紹介頂いた事に対して。そうなんです。Poohさんの所では色々な話を沢山致しました。何処で何を話したのか記憶は曖昧になっていましたが、それでも何となく頭の中に残っていたのが今回の記事にも繋がったのだと思っています。
とは言え、はっきり申し上げれば、今回の私の記事は「説明不足」でした。
本来であればニセ科学批判の「動機ないし理由」及び「意義ないし目的」についてキチンと述べた上で、その先にある議論として論ずるべきだったのだろうな、と思います。しかしながら、そういった話はこれまでにPoohさんの所やkikulogやTAKESANさんの所でそれなりにしてきた上で、ある程度まとまった文章を「ニセ科学批判まとめWiki%作成中」に書きましたので、自ブログでは後回しにしてしまった部分でもあります。
その意味では、Poohさんが御紹介くださった過去記事(とコメント欄)をお読み頂ければ、私が今回の記事で示した様な考えに至った経路も多少は御理解頂けるかも、と期待しています。まぁ本当はそんな横着をせず、さっさと自分でニセ科学批判の「動機」「理由」「意義」「目的」について書けば良いんですけど、折角ですから、ここはちょっと集合知に甘えさせてください。
それにしても、どちらの記事にも私が最初にコメントしていたのですね。懐かしいです。
さて、では改めて、頂いたコメント自体について述べます。
>ニセ科学に対する批判的な言説は、おおむね個別のニセ科学に対して、その社会との関わり合いにおける問題点に向けられます(その「社会」がある限定的なコミュニティであれ、よりグローバルなものであれ、また当事者性の濃淡はあれ)<
これは重要な指摘です。その御指摘の対偶(に近いもの)を取るならば「社会との関わり合いが全く存在しない場合には、ニセ科学に対する批判は(ほぼ)成立し得ない」と述べる事も出来るでしょう。そしてそれは、単なる「科学的な間違いの指摘」にすら、当て嵌まります。
この事は、例えば、全く社会と隔絶して生きている世捨て人ないし仙人の如き科学者を考えてみれば解るでしょう。完全に社会と隔絶しており「自分だけが真実に到達出来れば良いのだ」と考えている人は、たとえ他人がどれほど愚かな間違いを犯している(事をたまたま知った)としても、別に訂正する必要性を感じないでしょう。
もしも敢えて事実関係を訂正するのであれば、それはおそらく「全く自分に関係の無い他者であっても、間違えたままであるよりは真実に近付いた方が良い」という価値観の発露でしょう。あるいは単に「尊敬されたい」という俗な気持ちかもしれません。
いずれにしても、その様な考え方自体が、社会との関わりを生むのです。一旦その様に考え、かつ、行動してしまった以上、もはや社会との関わりが無いとは言わせません。
>なので、批判的な言説を発するものがその社会における当事者であり、したがってその社会において基盤とされている「科学」と云うものに対しても当事者である、と云うのが前提となります。もちろんそこから出発してよりメタな方向に議論が展開することはありますが、立脚点はそこです<
そうですね。特にその部分が、今回の私の記事が言い足りない点だと考えます。今回は、比較的個々人に近いレベルから出発して当事者性を論じた為に、それを社会全体に広げていく過程で論理の飛躍が生じてしまい、一部の読者に詭弁じみた印象を与えてしまったのではないかという反省はあります。仰る様に、最初から社会全体の話として(も)ニセ科学批判の当事者性を論じるべきでした。その様にして、個人レベルと社会全体の話の双方から当事者性の大切さを論じれば、より説得力が高まったかもしれない、と感じています。
>ただし、いわゆる「批判批判」をおこなう側は、かならずしもそうではない。論者によっては、勝ち負けを競うための単なるディベートの材料としか捉えていないケースもある。そうすると、「批判批判」を受ける側は、結局なにが目的なんだこのひとは、みたいになってしまって、致命的な齟齬が生じたり<
はい。これはおそらく、継続的に批判的な言説を成している論者であれば、多かれ少なかれ経験のあるところだと思います。
ここで少し注意した方が良いと思うのは「ニセ科学批判の形式を取ってディベートを仕掛ける事も出来る」という点です(あるいはもしかしたら、私の事をその様に思っている方も、何処かにいらっしゃるかもしれません)。つまり、社会との関わり合いの要素を完全に無視して、単なる知的遊戯としてニセ科学批判を行うのも可能であるという事です。
ただ、実際には、知的遊戯としてニセ科学批判を行っている人は少ないと考えます。何故なら、あまり面白くないからです。ニセ科学が科学的に間違っている事は自明であり決着していますから、ディベートにはなり難いのですね。その意味ではやはり「批判批判」の方がディベートのテーマとしては遥かに魅力的でしょう。
tonmanaanglerさんに言及頂きました。
返信削除http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20121010/1349872737
反応すべきかどうか少し迷いました。と言いますのは、全体的に主旨が掴み難かったからです。
まず「ニセ科学」という用語について。定義の問題に深入りし過ぎるのは不毛なので「疑似科学」でも良いのですが、それでも私が「ニセ科学」という言葉を使うのは、菊池誠さんのお考えと同様に、それが「価値判断を含む言葉」だからです。つまり「ニセ科学」という言葉を使った時点で、既に「批判すべきもの」というニュアンスが込められているのです。少なくとも私はその様に使用しています。
で、tonmanaanglerさんは、その点を御理解頂いている様子。何故なら
>否定的な意味が含まれていることになります<
とお書きになっているからです。
ところが一方では
>「ニセ科学」を批判するのは当然だという前提で語られることには違和感があります<
ともお書きになっておられます。これでは御本人が「ニセ科学」をどの様な意味に捉えておられるのかが不明です。
まさか私が菊池さんの定義とは違う意味で「ニセ科学」という言葉を使っていると思われているのではないでしょうね。いや、案外そうなのかもしれません。何故なら
>「ニセ科学」という言葉は菊池誠教授が使う前から使用されていたものであり菊池教授の「定義」に従わない「ニセ科学」の使用法もあります。したがって定義が明言されていない場合、どういう意味で使っているのかわからないという、かなりグダグダな状況になっていますが<
と書かれているからです。
しかしながら私は寡聞にして、明示的に菊池さんの定義とは異なる定義を採用している論者を存じ上げません。一般的に用語というものは人口に膾炙していくにつれて意味合いが拡散していくものであり、御他聞に漏れず「ニセ科学」にもそういう傾向があります。しかしそういう話をなさっているのではないですよね?あるいは、こちら
http://togetter.com/li/5517
で述べられている様な、歴史的な話をしているのでしょうか。しかしそれでは「グダグダな状況」という表現に合致しません。
結局ここでも、何が仰りたいのか不明なままです。
引用が前後しますが
>「ニセ科学を批判する」という行為そのものが科学の範疇を超えたもの<
これは当然です。余りにも当たり前過ぎて、意識すらしていませんでした。
ですから、
>だからといって「ニセ科学」を批判してはいけないということにはなりません<
これも当然です。何で今更わざわざこんな事を仰るのか、ちょっと理解に苦しみました。
>それは現代日本においてはそうであるということです。もちろんアメリカその他の先進諸国においてもそうなのでしょうが、絶対的普遍的なものではありませんし、科学的に正しさが証明されるような性質のものでもないでしょう<
はい、これも当然です。私がわざわざ不慣れな法律論まで持ち出して説明したのは「現代社会においてはそうなっている」という説明をする為です。もしも「ニセ科学を批判する事が科学的真理」なのであれば、こんな楽な話はありません(これは当ブログの1つ前の記事にも繋がる話ですが)。
もしかしたら、tonmanaanglerさんは「どこかに『ニセ科学批判の正当性を科学的に証明する事が出来る』と主張している人が居るので、それに反論すべきだ」とお考えなのでしょうか。いやぁ、そんな人は居ないと思いますよ(もし居たら教えてください)。
>俺が考える疑似科学が否定されなければならない理由は「現代社会では科学が有益なものとして大多数に支持されているから」というものであります。現代社会はそういう社会なのだから、それにたとえ同意できなくても従わざるをえません<
えぇ、それで良いと思いますよ。それが理由の全てだとは私は思いませんが、それを主たる理由になさっている人も当然いらっしゃると思いますので。
>ただ、この記事を読んでそれを読み取れる人がどれだけいるだろうかということに疑問を感じる<
ニセ科学を批判する理由は「人それぞれ」です。その意味で、tonmanaanglerさんと同様の理解に達しない人の事を御心配なさる必要性は薄いと考えます。
あるいは「今回の記事では説明不足だ」という御指摘でしょうか。もしそうであれば、上のPoohさんへのお返事にも書きましたとおり、それは至極ご尤もな御指摘ですので、謹んで精進致します。
ところで「tonmanaanglerさん」って何処かで聞いたお名前だな、と思ったら、Poohさんが何度か言及なさってた方でした。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=tonmanaangler
また、ブログ名とかも含めて、別のところでも聞いた様な気がしていますが、ちょっと何処かは思い出せません。
一時期、わりあい積極的に「ニセ科学批判批判」の議論に対してコミットしようとしていた時期がぼくにはありました(そう云うレイヤーの議論が、わりとぼくの任だろう、と思って)。そのとき感じたのは、相手の論者が「観客席からの議論」をしている場合がけっこう多い、と云うことだったりしたんですよね。
返信削除「要は、あなたはどう思ってるの?」と投げかけても、返事が返ってこない。「おまえらの問題について議論してるんだから、おれ自身がどう考えているかなんて関係ない。でも客観的にはこうだ」みたいなスタンスですね。あらかじめ、議論の当事者から自分を外しておく。
これって、議論において自分自身が負けないようにするために、あるいは自分の云いたいことを極力責任を負わずに云いっぱなしにするためには上手な方法なのかもしれませんが、話の進めようがなくて正直困惑するんですよ。あなた、いまこの場でぼくと議論をしてるんじゃないの? どこにいるの? みたいに。
これは「魂のありかた」みたいな話じゃなくて、いまそこで自分が展開している議論に対する姿勢、って話なんですよね。
たぶん「当事者性」と云うのはこう云う水準の話でもあって。この社会に暮らしていて、日常のなかで科学に生活を支えられているはずの「あなた」はどこにいるの? みたいな感じですかね。
>Poohさん
削除おぉ、今度は「個」レベルの話ですね。何だか催促しちゃったみたいになって済みません、有り難うございます。
お話を伺っていると、どうも「自らの当事者性を外す」事と「論の客観性を保つ」という事の区別が付いていない方がいらっしゃる様に思えてきます。
最近は学会発表などでも「利益相反の有無」の開示を求められる事が増えてきました。これは企業からの援助を受けて研究する事が増えてきているからであり、まぁ国が研究費を削り続けているのが一因なのですが、それはそれとして。
そこで求められているのは「利益相反を明示する」事です。言い換えれば、「利害関係がある」事が悪いのではなく「利害関係があるのに隠す」事が悪いのだと言う判断です。それと同じ事だと思うのですね。
つまり、本来は社会の一員である以上当事者性を免れないし、増してやコミットした時点で当事者性は更に強くなっている訳です。にも関わらず、敢えて当事者性を無視する。それはおそらくPoohさんの仰る様に「負けない議論」もしくは「言いたい事を言いっ放しにする」為なのでしょうが、もしかしたら本人は「客観性の担保である」という言い訳を用意しているのかもしれません。
しかし、その言い訳は通らないと思います。
何故なら、私は「自らの当事者性にキチンと向き合った上で、その分を差っ引いた議論をした方が、むしろ客観性は高まる筈」と考えているからです。
その様に考えてくると、改めて「観客席からの議論」という比喩は上手いと思います。本当は自分もプレイヤーの一員である筈なのに、スタジアムのフィールドに立っている筈なのに、何とか観客席に座ったままで居ようとしている。そんな感じを受けます。
まぁそんな訳で、レッテル貼りになりそうな危険を冒しつつ敢えて言うならば「象牙の塔に篭ったまま世俗とは無関係に生きていけると信じている人」ですとか「そうした学問のみで生きていける立場に対する憧れを捨てきれないでいる人」とかが批判批判に手を染めた場合に、ダメな論を展開する確率が高まるのだろうな、と感じています。
後、これは完全に余談なのですが「当事者性」の話になるとどうしても私が心穏やかでは居られなくなる理由の1つに「過激で極端な反原発原理主義者」を思い出してしまうから、というのがあります。彼らは二重の意味で「当事者性を拒否している」と考えます。
1つめは「震災被害や被災者は所詮他人事」と思いたがっている点、そして2つめは「原発停止による電力不足を自分達の問題として考える事を拒否している」点です。つまり、元々他人事として考えていたのみならず、自分達の問題として考える事を積極的に拒否している、そう思えてならないのです。
「自分達の問題と考えるからこその反原発運動だ」という考え方もあるでしょうが、私はその意見は採りません。何故なら「過激で極端な反原発原理主義者」がやっている事は「原発の拒絶、及び、極微量の放射線の拒絶」であって、とにかくひたすら自分達に累が及ぶのだけは避けようという態度にしか見えないからです。
何度もしつこくてごめんなさい。
削除この「観客席からの議論をしない」と云うのは、批判者側も肝に銘じておく必要があることではあるんですよね。まず言説をおこなう自分があり、社会があり、科学があって、そのうえで(それらの間にある相互の関係性を意識しながら)語らなければいけないし、議論しなければいけない。「科学の代弁者」に自分を擬してしまってはいけないんです(これは、ある論者とのそこそこ長いもめごとを通じて学んだことです。その論者は女性らしくて、さまざまな「女性がこうむる被害」を論じることが多いかたなんですが、そこでまず「みずからが女性であること」を立脚点にする。そのうえで、まず彼女に対する反論は女性差別的であり、セクシュアルハラスメントである、と云うことを前提にしばしば論戦を展開しようとするんですね。つきあわされる方はうんざりします)。
そこに正義はあるかもしれないけど、それはどの陣営に属しているかで決まるわけではない、と云うのは意識しておかないと、通じるはずの話も通じなくなってしまいます。
「過激で極端な反原発原理主義者」には、ふたつのケースがあるように思いながら見ています。ひとつは自分の善意に対してなんらかの理由でひっこみがつかなくなってしまったひと、ひとつは別の目的があるひと(一部のアカデミシャンに見られるように思います)。前者については当事者性がなかった、と云うより、どこかで失ってしまった、ってことのように見えます。
いえいえ、しつこいなんてとんでもないです。
削除>「観客席からの議論をしない」と云うのは、批判者側も肝に銘じておく必要があること<
そうですね。これは本当にそう思います。と言いますのも、科学者や科学に詳しい人の方がむしろ「観客席からの議論」をしがちな傾向にある様に思ったりもするからです。
何故なら、完全に科学の土俵に乗ったうえでの議論であれば、その場合には価値観を差し挟まずに事実関係のみの議論をする事も可能だからです。その様な議論が行われている際には、観客席から意見を述べても良いでしょう(まぁ、科学の議論であっても、必ずしもそれが出来るとは限らないのですが、それはまた別の話です)。
ですから、科学の議論に慣れていればいるほど、観客席からの議論に馴染み深くなる傾向があると考えます。
しかし、ニセ科学批判の文脈は、科学の議論とは大きく状況が異なります。単なる事実関係の議論を行おうとしても、仰るように、常に自己と社会との関わりを意識していくべきでしょう。
そうした違いを認識出来るかどうか、それがポイントだと思います。
また、Poohさんの御経験の部分を伺って、改めて感じたのは(常日頃から感じている事ではありますが)「目的は手段を正当化しない」「敵の敵は味方とは限らない」という事です。確かにニセ科学批判の大きな目的の1つに「社会正義の実現」というものがあります(但し、それは全てではない。いや、全てではないどころか、もっと身近で小さな理由の為にニセ科学批判をしている方は沢山いらっしゃる筈です)。
しかし、だからと言って「あらゆる社会的正義の実現の為にニセ科学批判を援用して良い」訳ではありません。それは言うなればニセ科学批判の「目的外使用」に当たります。
話を戻しますと、今回のお話は紛れも無く批判者側が心しておくべき点の指摘です。即ち、良い「ニセ科学批判批判」の実例であると言う事が出来ます。その様な例をお示し頂いた事に、感謝申し上げます。
この記事に対するはてブコメ
返信削除http://b.hatena.ne.jp/entry?mode=more&url=http%3A%2F%2Fpseudoctor-science-and-hobby.blogspot.com%2F2012%2F10%2Fp02-07.html
のうち、幾つかにお返事致します。
>id: ROYGB さん
>“ダメなものも良いものもある。”と書いたあとにダメな例しか出さないのはバランスが悪いような。<
うーん、そうですね。理由は2つありまして。1つは、やはりダメな例に悩まされている、というのが大きいです。そしてもう1つは、下手に良い例を出しても「仲間内の馴れ合い」と取られかねないと危惧したからです。
・・・などと言っているうちにコメント欄でも議論が進みまして。上の方にあるPoohさんの御意見などは「良い例」ではないかと思います。Poohさんはどちらかというとニセ科学批判者として認識される事の方が多いとは思いますが、にも関わらず(だからこそ)ニセ科学批判に対しても批判的な意見をくださっています。
>id: houyhnhm さん
>うーん、いつの間にか魂の在り方問題になってる。そりゃダメだよ。<
「そりゃダメだよ」という言い方を故意にお選びになったかどうかはともかくとして、御意見が成り立つ為には、厳密には
1)「魂の在り方問題とは何か」(定義)
2)私の論が「魂の在り方問題」に該当するかどうか(前提)
3)「魂の在り方問題」であれば「ダメである」が真かどうか(導出)
の3点が必要です。
まず1)に関しては、何となく解る様な気もします。「問題の倫理的側面」もしくは「心構え」という様な意味でしょうか。しかし、失礼ながら「魂の在り方問題」という用語は一般的なものとは思えませんので、あるいは思わぬ理解の齟齬があるかもしれません。その点が明らかになったうえで改めて、2)と3)を満たしているかどうかが問題になると考えます。
ちなみに、10/12付けのコメントでPoohさんが「これは「魂のありかた」みたいな話じゃなくて」と仰っています。これがhouyhnhmさんの仰る「魂の在り方問題」と同一のものを指しておられるのかどうかは不明ですが、仮に同一のものだとすると、Poohさんの仰るのは2)の部分に対しての反論という事になります。
>id: settu-jp さん
>乱暴な論考に見える。事実関係への批判批判は当事者性は不要だし米国アフリカ等の創世科学系の批判には日本人は殆ど当事者性はない。論理と倫理の説得力の在り方の違いを混同しているのでは?<
まず「乱暴な論考」に関しては、少なくとも「説明不足である」という点はは既に認めております。それ以外の点については、以下に記します。
次に「事実関係への批判批判は当事者性は不要」についてです。「事実関係への批判批判」とは「批判者の事実認識が誤っている場合に、それを指摘する」という意味だと思われます。その様な「単なる事実の指摘」が批判批判に含まれるかどうかについても議論があるかとは思いますが、ここでは批判批判を広く捉えたいと思いますので、含まれるとしましょう。
そうすると、果たしてその場合に「当事者性は不要」なのかどうかが問題となります。上のPoohさんとの議論でも出ておりますが、たとえ単なる事実の指摘であっても、それを敢えて行った時点で、もはや当事者性とは無縁では居られないと考えます。
この事は「ニセ科学に対する批判行為を継続的に行っている論者」のうち、少なくとも一部の方は実感として感じておられると思います。客観的な事実の指摘を行っただけで、個人情報を晒されたり職場に電凸されたり、果ては訴訟恫喝までされる様な状態で「事実関係の指摘なら当事者性は不要」と言われましても、首を傾げざるを得ません。
確かに、純粋な学術の世界であれば「事実の指摘には当事者性は不要」な場合もあるでしょう。しかしニセ科学を純粋な学術問題として捉えるのであれば、ニセ科学がニセである事は(ほぼ例外なく)学術的には決着が付いています。ですからニセ科学そのものを純粋に学術的な問題として論ずるのは極めて困難です。
それから「米国アフリカ等の創世科学系の批判には日本人は殆ど当事者性はない」について。本当にそうでしょうか?例えば米国で創造科学を理論的後ろ盾にしたキリスト教原理主義者が政治力を持ち大統領を輩出する可能性については如何でしょうか。これは決して有り得ない話ではありません。それでも「日本人は殆ど当事者性はない」と言っていられますか?あるいは(創世科学とはズレますが)アフリカで子供達が「魔法使い」呼ばわりされて虐殺されている事例はどうでしょうか。遠い国の出来事だから日本人に当事者性は無いですか?例えば原発事故への反応(の一部)を見ていると、日本人の中にも「迷信等の非合理的なものに過度に振り回されてしまう心性」が存在すると思えてきます。間接的ではあれ、そういったものに対する批判であると捉える事も可能ではないかと思うのです。
どうか、私が本文中で「ニセ科学の(広義の)被害者は、社会全体である」と書いた事の意味をお汲み取り頂ければ、と思います。
最後に「論理と倫理の説得力の在り方の違い」について。これははっきり申し上げて、仰る意味が良く解りませんでした。理想的なニセ科学批判においては、論理的な説得と倫理的な説得の両方が必要です。しかしその双方を実用レベルで実践するのはとても難しい事です。ですから「混同している」というよりは「何とか両方とも手に入れようとしてもがいている」と理解して頂ければ幸いです。