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社会学者の研究メモ このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2012-10-21

社会学方法論と社会調査論の関係

(長文かつ専門家向けであり、一部の人以外にとってはあまりおもしろくない記事なので、あらかじめご了承ください。)

教科書的な社会学方法論

教科書的な社会学方法論においては、主観主義的立場と客観主義的立場の分断について論じられることが多い。いくつかのテキストブックには、主観主義的立場の元祖はウェーバーであると書いてあり、それはウェーバーが「理解社会学」の方法として「行為の行為者にとっての意味を理解することが必要だ」と説いたことに根拠付けられている。これに対して客観主義的立場の元祖はデュルケムであり、それはデュルケムが個人の外に存在する社会的事実に注目せよ、と説いたことに由来する。

他方で、社会学の実証研究に従事している人たちは、多くの場合こういった区分をそもそも参照していないように思える。つまり社会学のテキストブックに書かれているような方法論と、現在実践されている、特に社会調査論に依拠した経験社会学とをきちんと結びつけて理解している人はあまりいないと思う。これはある意味で非常に奇妙なことだ。

この点は執筆中の社会学のテキストにおいて整理しておきたいところなので、以下、メモを書いておく。

まず社会学方法論における「主観主義的立場と客観主義的立場」というのは、要するにこういうことだ。たとえば自殺の要因を説明するとき、ウェーバーの(ものとされる)「主観主義的」方法に従うのならば、当人の遺書や生前親しかった人から、自殺者の自殺の動機や理由について理解することを試みることになる。そこでは、「生活が苦しかったからだ」「孤独感に苛まれていたからだ」などの理由が聞かれるかもしれない。

これに対して、デュルケムの「客観主義的」方法に従うのならば、自殺の意図や動機はスキップされ、自殺者の属性や社会全体の状態が問われることになる。自殺率が高いのは未婚者か既婚者か、カトリックかプロテスタントか、女か男か、不況期か好況期か。これらは、なるほど行為者が行為に込めた主観的な意味ではない。ある人の自殺の理由を「結婚してなかったからだ」「男だからだ」のように記述することは、多かれ少なかれ特殊な文脈においてであろう。

こういった異なったタイプの説明方法は、それらに先立って私たちが学問的文脈でなくとも行なっている複数の説明的行為と基本的には同じものである。社会科学における説明は、これらをより体系的に、独特の仕方で行なっているものにすぎない。そして行為の意図や動機は、行為者の社会的特性(その行為者が何者であるのか)や経歴といった、意図や動機を尋ねた時には返答に含まれないような知識・情報と結び付けられて語られることがある。

こういった説明の接続の例をかんがえてみよう。ある自殺について、「自殺者の生活が苦しかったから(そうした苦しみから死によって抜け出したかったから)」という理由が指摘されたとしよう。それを受けて、「そういった理由で自殺する人が増えるのは不況期においてなのかもしれない」と指摘してみせることはそれほど不自然なことではあるまい(場面によっては「不適切」になるかもしれないが)。社会科学における観察と分析(の理解可能性)は、こういった言明の延長線上にある。

ここで、「あの人、生活苦で自殺したんだよ」と語ることも、「不況だからそういう人も多くなるよね」と語ることも、どちらもそれら自体では特段に学術的な分析ではない。ではある説明が学術的研究とみなされるとき、それはどのようなものなのか。

もちろんこれらの説明が、すでに存在する先行研究を参照するかたちで位置づけされているかどうかなどがひとつの基準となっている。この上で、まず行為の意図や動機については、又聞き(いい加減な情報)ではないとか、通常ではなかなかアクセスできないグループ(暴走族など)からの聴取であるとか、そういった場合に学術的に価値があるとみなされるだろう。

次に社会的属性(性別、職業など)や社会的背景(都市化、不況など)については、それを指摘する人の直感などではなく、統計的データに基づいた記述であるかどうかが、学術的な説明であることの基準となる。

行為の説明における統計学的情報の意味

社会学方法論(主観主義的アプローチと客観主義的アプローチ)と社会調査論の対応について検討することを難しくしている一つの理由はいろいろありそうだが、以下のように考えると問題を整理しやすくなる。

ある人が大学に進学した理由を尋ねられた際に「将来の職業的安定を考えるとやっぱりね」と答えた。このとき、それを聞いた人(研究者でも誰でもよい)はたぶん「ああなるほど」と考えるだろう。行為の意味の理解とはひとまずこういうことだろう。その人がどのように考えて大学進学を決めたのかについては、この情報はさしあたり十分なものといえる。

他方で、このやりとりを聞いた第三者が、「いや、大学進学したからといって将来が安定するとは限らないんじゃない?」と返したとしよう。このような疑問を共有する人が増えていくと、何らかの統計的なデータを参照したくなる人が増えてもおかしくはない。ここでかりに「大学進学は将来の職業安定とは関係がない」という調査結果が広まるとすれば、「職業的安定を考えて大学進学をする」という説明の理解可能性が減じていくことになる。つまり、そのように行為の説明をすると、「え?」という反応が返ってくるようになり、最終的にはそのような説明はなされなくなるだろう。このように、私たちが行為の説明をする際には「実際には(全体的な傾向としては)どうなのだろうか」という問いに対する見通しを示しながら行なっていることがある。

このような例を出すと、「一般人が行為の説明の際に参照する情報は客観的情報に比べて常にいい加減なのだから、研究者が前者を参照することには意味がない」と即断したくなるかもしれない。しかしそうとは限らない。「ごはんを食べるのはお腹が減ったから」という行為の説明の理解可能性に対して、統計学的な情報は何も貢献しない。お腹を満たすためには、ごはんを食べるという行為は統計学的に適切かどうか、という問いは成り立たない。また、EM(エスノメソドロジー)研究者が指摘するように、ある行為を「自殺」と呼べるかどうかについても、統計学的に決着をつけることはできない。

要するに、統計学的に行為を説明することは、通常の行為の説明の際にそういった情報が参照されることに意味がある限りで、意味を持つ。したがって、概念の定義について明確にしようとしたり、行為の意図や動機を問うような場合にはそもそも参照されないようなものである。したがって学術的なやりとりにおいても、概念の定義、行為の意図や動機が何だったのかが問題となるような場面では、統計学的データが参照されることはない

そして仮にだが、人びとが行為する上で常に適正なデータや分析結果を参照できるような環境があるとすれば、そういった世界では行為の説明における「主観的」なアプローチと「客観的」なアプローチを分ける必要がない。そういった極端な世界はありえないだろうが、少なくとも非常に多くの人にとって疑問の余地のない統計学的結果が共有されているのなら、同じことである。

説明の方法と調査観察方法との対応関係

これでいわゆる量的調査分析がどういう意味を持つのかが理解できたと思う。では「質的」な分析はどうだろうか。

しばしば「質的調査研究は量的調査分析の残余概念である」と言われる。一定の歴史的経緯もあるかもしれないが、おそらくそれだけではない。量的調査研究が比較的明確な問い(集計データの分析から何らかの答えを導くことが期待できるような問い)から出発しているのに対して、質的研究がその他の非常に多様な日常生活の「問い」を引き受けているから、というのが、質的研究の捉えづらさ問題についてのここでの答えである。そして社会学自体の捉えづらさも、ここに理由があると私は考えている。

たとえば「なぜ家事分担の多くを妻が引き受けているのか」という問いは、日常的にも学術的にもさしあたり意味が通る問いである。日常場面でのやりとりでは、夫が「そりゃオレの方がたくさん働いているもの、配慮してくれないと(世の中そういうものだ)」といって説得にかかるかもしれない。もし妻が「私だって(パートで)結構キツい思いしてんのよ、◯◯さん家の旦那さんは同じような条件だけどもっと手伝ってくれてるよ」と言い返すかもしれない。ここにおいて統計学的なデータ分析結果が参照されるとして、もしかすればこの争いは収まるかもしれない。たとえば夫が「ふーん、これくらいの夫婦労働時間差だと平均的には夫はもっと手伝ってるんだなあ」と、考えを改めるかもしれない。

もちろんそのようにいかないケースも大いに考えられる。まず考えられるのは、計量データとして観察しにくいような情報が問題になっている場合である。家事には、日常的に行う必要があるものと、週末にまとめてできるものがある。単純な家事分担の統計では、こういった込み入った情報は採取・分析されていないこともある。また、妻の就業状態によって、妻の負担を大きく減らすやり方とそうではないやり方があるだろう。もしこういった要因が大きいのだとすれば、少なくとも単純なかたちでの統計分析結果の参照は、妻の不満を減らすという目的に対してあまり役に立たないことになる。(観察しにくい要因が人々の行為において重要な意味を持つというのは、よくあることだろう。)

そして、問いは「そもそも家事(育児)って何よ?」というところまで立ち戻る可能性がある。「家事・育児」という概念を使った相互行為において、実際にどのようなことが行われているのか。「子どもの世話をする」ことが、いかにして「遊び」ではなく「育児」として認識されているのか。こういった問いについては、私たちは統計学的分析の結果を参照して答えを出すことはしないだろう。

とりあえず今回は以上。

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