歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ

歴史学は本来、世界主義やその調和の為に存在します。一国主義に留まりその為の単なる道具としてしか歴史学を見れないようでは歴史は歴史ではなくなります。本ブログはそれを踏まえた上で、歴史家としての正しい姿勢を伝える事です。

posted by epikutetosu
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現在の歴史問題において、近代の植民地主義からくる侵略戦争による傷は根強く残っています。


全ての始まりは近代ヨーロッパから始まり、世界の普遍化すなわち近代化を目指して持ち前の巨大な政治力・経済力・軍事力を動員して世界各地に侵略し、数々の植民地を獲得してきました。


その最たる例が大英帝国こと近代主義の頂点に君臨するイギリスとそれに比肩する地位にあるフランスが当時の文明・文化の創造者・伝達者であり、他の国々はそれに追随する形で近代化を行いそれに必死に食らいつこうとしました。


ここで注意したいのが、ヨーロッパと一口に言っても各国による状況は異なっており、あたかも近代主義の誤謬に陥って全ての国々が「純粋な近代化を果たした国々」であるとか「純粋な国民国家」であったかのような話はまったくもって的を得ていないどころか、いたずらにユーロ・セントリズム(ヨーロッパ中心主義)を掻き立てるものであります。


ここで「近代主義」の言葉の定義を明かしますと、数々の意味合いを含み一元的に概括するのは難しいが、簡単に言うと英仏を頂点にしたピラミッド型の文明体系で、それがヒエラルキー的に後発国が序列化されていく理論であります。 これは文化・学術・軍事・制度その他全ての範囲を包括します。


この理論自体ヨーロッパで生まれ、その淵源は数々にのぼります、ひとつの重要な起源としてドイツ(プロイセン)の歴史家や哲学者たちが挙げられます。


その中でも特に注目されるのが、ナポレオン・フランスに対抗したプロイセンの国策として動員されたナショナリズム史観の先駆者であるヘーゲル(マルクスの師匠)であり、ランケを筆頭とするドイツのロマン主義の歴史家たちでした。(-ナショナリズム史観の淵源とその行方- )



そして今ここで考えてみたい事があります。


種々の歴史論争において特に近代の植民地戦争を批判するときに注意したいのが、個別の国々での批判(もちろんそれはそれでいいのですが)が中心となり、個々の事実認識ばかりが目立ち、本質がないがしろにされている事であります。


つまり、先ず侵略主義を否定するのならば「近代主義」という当時の列強たちのスローガンとなったいわば、植民地主義の根幹となった理論を非難すべきなのです。


あの阿呆なネトウヨhokkとの論争(パブロンさんの「なぜ戦」にて)をしたときもそうですが、日本が朝鮮を侵略した時、ロシアから守るだの未開状況からの脱却を助けるだのとか散々言い散らしましたが、無論これはネトウヨの言い訳であることは間違いなく(そもそも歴史学において「たられば論」は詭弁)、詭弁的特殊論を提示してそれをあたかも一般論にすり替えるという浅ましい行為に走ったことであります。


仮にロシアの侵略が自明の理であったとしても、日本も侵略者であることは変わりなく、結局同じ立場で論じているに過ぎないのです。


パースペクティブを変えて、有名なソークラテースとメノーンとの論争にて「徳」に関する定義として、メノーンはただ自分がたまたま知っていると思い込んでいる個別的事実(特殊論)を列挙して、あたかもそれを「徳」の一般論にすり替えてしまうという無意識的なごまかしをするソフィスト的誤謬を犯し、本質からまったく遠ざかってしまうという事であります。


勿論このメノーンはソークラテースとやり合うくらいの度量と知識の持ち主であり、ネトウヨなど足元、いや爪程におよびません。


つまり物事を論じるとき、特に歴史学においては表面的事実の真偽をただ追うよりも、より本質的に、物事がどう生成・発展し現在までに至るのかというのを見なければならないのです。


それが侵略・植民地獲得戦争ならば近代主義を批判し、イラク戦争ならば超大国アメリカやそれに追随する同盟国の思惑であります。


これが歴史学と哲学を両方学ばなければならない理由であり、今日において歴史学を学問にたらしめる条件であります。


-追記-


※歴史学に必須な歴史哲学とは


一言で言えば歴史を「上(普遍)から下(個別)へ」通り越すものであります。

スコラ哲学者のJ・マリタンが自身の著書『歴史哲学について』(On the Philosophy of History)にて歴史哲学は歴史の次元を「上(普遍)から下(個別)へ」通り抜けるところに成り立ち、アリストテレス・トマス論的に経験界の個別的事象から出発し、徐々に高次化してそれはやがて科学的次元に到達し、さらに高次の自然哲学の次元へ、最後はあらゆる世界の最頂点である形而上学的レベル(「神」と同義である)に達し、そこから演繹的に次元を下げて道徳哲学レベル、そして最後に歴史哲学のレベルに落ち着きます。


有名な例としては、ドイツ観念論歴史哲学者であるヘーゲルの「普遍精神(キリスト教・ゲルマン的理性)」があげられ、後のマルクスの唯物史観論(歴史の真理を「各階級の経済関係」と措定)にもつながります。


このような歴史哲学的思考にもとづき、時代を越えた普遍真理が追求され、ある種「神」の視点からの歴史学的批判が行われるようになり、より本質的な歴史の真理探求のために使われました。


hokk(ぽん)が自身のブログで、

>その時代になかった”正義”でも持ち出すのか?

時代、立場によって評価とは大きく違ってくるものだ。

それを明確にせよ!!!


と吠えておりましたが、その時代ごとの真理にながされているようでは、歴史の真理(法則性・一般性)など到底つかめませんし歴史学はたんなる「物語としての叙述」に終わってしまいます。

つまり学問ではなくなるというわけです。













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