ジャーナリズムの基本原則が日本でも徹底されるために (上杉 隆)
「人間は間違いを犯す動物だ。しかも繰り返し犯す。我々の働く新聞とはしょせんその人間によって作られているものだ。だから新聞は絶対的に間違いから逃れられない。よって、重要なことは、間違いを犯さないことではなく、犯した間違いを率直に認めることだ。そしてそのミスを隠そうとする誘惑に負けてはならない。それは嘘をつくことになる。その瞬間、キミのキャリアは終わりだ」
ニューヨークタイムズで働き始めたばかりの頃、当時のハワード・フレンチ東京支局長にこう言われたことは、いまだ私の脳裏にはっきりと残っている。そしてそれはいまなお私がジャーナリズムについて考える時の重要な指針になっている。
だからというわけではないが、私はミスに関しては、努めて寛容な姿勢を貫いてきた。それは自他を問わない。自分に対してもそうだが、他人を間違いで責め続けるということはまずない。
そうした思考は、ゴルフというほとんどがミスで成立するといっていいストイックなスポーツを30年近く続けてきたことも影響していようが、やはり、フレンチ氏の当時の言葉が大きかった。
実際、私は日本のメディアで働きだしてからも、ミスを恐れず、多様な情報をどんどん発信すべきだ、と同業の仲間たちに丁寧に叱咤激励してきたという自負がある。
実際、日本の臆病な大手メディアの社員に対しては、何も報じないでミスを犯さないよりも、どんどん報じて訂正していった方がいいと訴え続けてきた(もちろん、間違えろと言っているわけではない。本当はこんなことは断らずともわかるはずだが、幼稚な言論空間しか持たない日本では、いちいちこう書かないと読解力のない評論家やジャーナリストが挙げ足をとるためにあえて記した)。
さて、私のそうした姿勢については、過去の私の担当編集者たちや友人たちならば納得するところであろう。
だが、3.11以降、そうした雰囲気は変わった。
社会の避けられぬ事象であるはずの「ミス」や「訂正」を容認する空気が消え、窮屈さを感じざるを得ない雰囲気に包まれ始めたのだ。
12年間のジャーナリズム活動において、私は多くの編集者に恵まれた。
それは新聞、雑誌、本、ネットなどの媒体を問わない。どこの世界にでも素晴らしい人物はいるものなのだ。
私自身、多くの事柄をそうした編集者たちから学んだものだった。
もちろん、反面教師もいる。だが、それはそれで、「教師」というだけあって学ぶことも少なくなかった。
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加泰龍
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加泰龍