上杉隆「読売新聞“盗用”疑惑」に見る言論空間の幼稚性(上杉 隆)
また、始まった。
いったい彼らや彼女らが自らの幼稚な言動に気付くのはいつのことか。もしかして、数年間、いや場合によっては永遠に気づかないのかもしれない。
3.11は日本社会を大きく分断させることになった。それは私が当初から予測していた通りだし、1年半が経過した今、まさにそうした状況になっている。
とりわけそれは原発事故、それにともなう放射能と被曝の問題で顕著だ。
また、そうした状況はしばらくの間、おそらく4年から5年か、あるいはもっと長く続くだろうと当時、私が予測をしていたことは本コラムの読者ならばご存じだろう。
さらにそうした状況を引き起こすのは他でもない、本来ならば多様な価値観を担保すべきメディア、もしくはそこで仕事をしている者だとも指摘したのだが、残念ながらその通りになっている。
というのも日本の場合、言論界にいるそうした人々こそ、記者クラブシステムに洗脳され、単純な一元化された情報こそ正しいと盲信、崇める傾向にあるからだ。
先週の本コラムでいえば、朝日新聞、毎日新聞の二人の記者や江川紹子氏などがその代表例だろう。
もちろん彼らが間違いだということを言っているわけではないし、私が正しいと主張しているわけでもない。
問題はそうした人々の発言が、多様性の芽を摘んで、異論を排除し、なかば狂信的な言論空間を形作っていることに多くの日本人が気づかないことにある。
いや、気づかないどころではない。そうした過度に単純化され、飼い慣らされた言論社会を好む日本人の習性と相まって、極めて幼稚で感情的な言動が独り歩きし、あの戦前の危険な独裁の風潮さえ生み出そうとしているのだ。
言論のキャッチボールを 封印していた理由
たとえば、ここ数日、私自身に起きた予想通りの情況をみてもそうだ。
10月、私は半年間、封印していたそうした人々への論争の「ボール投げ」を再開した。
言論のキャッチボールを封印していた理由は、あまりに感情的な人々と論争しても、将来の健全化への生産性に乏しいこと、さらには、3.11からの約一年間、そうした人々に気付かせようとラジオやテレビ、あるいは講演では必ず語ってきた次のようなことが、私自身にとっては皮肉なことだが、かなり実現の目を見たと感じてきたからだ。
-
石田清美
-
Kawasykawasy
-
加泰龍
-
http://twitter.com/IKOJIMA11 小嶋祝夫
-
なんなんだ?
-
http://twitter.com/yugenodoukyou yugenodoukyou