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神話の果てに−東北から問う原子力
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第5部・原発のまち(3)転向/限界痛感、反対と決別

町長選に初当選し、登庁する岩本さん=1985年12月、福島県双葉町

<水素爆発に怒り>
 「何やってんだ東電、バカヤロー」
 東京電力福島第1原発の水素爆発を伝えるテレビに向かって、前福島県双葉町長の岩本忠夫さんが怒りをぶちまけた。
 昨年3月、原発事故で双葉町の自宅から南相馬市の小学校に避難していた時だった。「裏切られた」という無念さだったのだろうか。
 避難中に体調を崩した岩本さんは、4カ月後の昨年7月に福島市の病院で亡くなった。82歳だった。
 原発反対運動の先頭に立ち、やがて推進に転じた。原発立地地帯で反対を貫くことがいかに困難か、身をもって示したかのような人生だった。
 岩本さんは双葉町に生まれ、地元で酒店を営む傍ら青年団活動を経て社会党員になった。当時を知る人は「地域活動に積極的に関わり、弁も立った」と言う。
 第1原発1号機が営業運転を始めた直後の71年4月、県議選双葉郡選挙区で初当選。原発労働者の被ばく問題や、使用済み核燃料の無断運び出し疑惑などを追及した。
 岩本さんが質問に立つ日は、東電社員らで県議会の傍聴席がいっぱいになるほどだった。72年には「双葉地方原発反対同盟」を結成し、勉強会や街宣活動を繰り広げた。
 だが、原発マネーで潤い始めた地元で、岩本さんらの評判がよくなるわけがなかった。「町が原発景気で盛り上がる中、父の存在は異端だった」と長男の久人さん(55)は話す。75、79、83年の県議選では立て続けに落選した。

<選挙前に米事故>
 79年の選挙直前、米国でスリーマイル島原発事故が起きた。岩本さんの陣営は「神風が吹いた」と沸き立ったが、結果は自民党が双葉郡の2議席を独占した。
 「選挙で負ける度に家族全員で声を上げて泣いた。父は沈んだ声で『済まない、済まない』と言っていた」と久人さんは振り返る。
 岩本さんは反対運動から距離を置き始める。反対同盟の代表を辞め、社会党も離党した。
 当時、社会党の地元組織役員だった古市三久県議(63)は、岩本さんが書いたという手記を持っている。タイトルは「反原発のたたかいを省みて」。
 <東電に文句をつけられない雰囲気が地域を支配している中で…原発が止まったら生活ができなくなる、こんな話が(反対)同盟に寄せられ、このような人たちを相手に運動を理解させることは難しいことだった>

<増設の実現推進>
 反原発と決別した岩本さんに85年、突然の転機が訪れる。
 不正支出問題で当時の双葉町長が辞職し、クリーンな町政を求める声に押されて岩本さんが初当選した。以後5期20年間、町長を務めた。
 91年には町長として第1原発の7、8号機増設を要望した。「ポスト原発を模索したが、やはり原発しかない。増設の実現を図る」と岩本さんは説明した。
 岩本さんの政治遍歴を久人さんはこう話す。「地域のために原発に反対し、地域のために原発を受け入れた。地域への愛着を何より大事にする視点は一貫していた」
 原発に依存してしまえば、「地域のため」はもはや原発存続と同義。「ポスト原発は原発」という言葉には、脱原発は見果てぬ夢になってしまったという、岩本さんの思いが込められていたのかもしれない。

◇岩本前双葉町長の経歴と原発をめぐる動き

1967年 県議選。岩本氏が社会党から立候補し、落選
  71年 第1原発1号機営業運転開始
      県議選で岩本氏初当選
  72年 双葉地方原発反対同盟結成
  75年 県議選。岩本氏、脱原発を掲げ大敗
  79年 米国スリーマイル島原発事故
      県議選で岩本氏大敗
  83年 県議選。反原発の主張を封印するも岩本氏大敗
  85年 岩本氏、双葉町長選で初当選
  91年 双葉町議会が原発増設を全会一致で可決
2005年 岩本氏が双葉町長引退


2012年10月18日木曜日

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