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神話の果てに−東北から問う原子力
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第5部・原発のまち(2)繁栄/特需で変貌、所得急増

建設中の福島第1原発。多くの労働者が集まり地元は活気づいた=1968年6月

<食材まとめ買い>
 1964〜65年ごろのことだという。福島県大熊町議会の議長や町商工会長を務め、現在、会津若松市の仮設住宅で暮らす川井利治さん(78)が「初めて原発の恩恵を感じた」と言う出来事があった。
 ある日、川井さんが経営する鮮魚店には不似合いな黒塗りの高級車がやってきた。店に入ってきた女性は、20人分の魚をまとめ買いしていった。
 女性は福島第1原発を計画していた東京電力の現地事務所で、食事の世話をしていた。黒塗りの車は商店街の青果店や食肉店にも止まり、その都度大量の食材を買い込んでいったという。
 大熊町に立地した1号機の着工は67年のこと。町にはゼネコンの作業員宿舎が続々と建ち、最大で1日数千人が工事現場で働く「原発特需」が始まった。
 町内にあった20軒ほどの飲み屋は連日、満員御礼。200メートルほどの長さの小さな商店街に酒屋が4軒並んだ。
 川井さんの店は自動三輪車を購入し、ほどなく日産ダットサンに買い替えた。「仕入れが3倍、4倍と増え、車がなければ運べなくなった」
 毎朝背中にかごを担いで常磐線に乗り、いわき市まで仕入れに行っていたのがうそのようだった。

<仕事求めて流入>
 「巨大産業」が突然出現した大熊町の変貌ぶりは、数字にくっきり表れる。
 原発建設前の65年、平均所得は年間11万1000円(県平均15万7000円)で、福島県内で下から7番目。原発稼働後の80年には県内トップの339万4000円に跳ね上がった。県平均は148万3000円だから、その2倍を超える裕福な町になった。
 減少が続いていた人口も増加に転じた。65年の7629人で底を打ち、75年に8190人、80年9296人となり、90年には1万人を超えた。
 ほぼ「通年出稼ぎ」の町だったのに、若者が定着し、仕事を求める人が流入する地域になった。
 名古屋市で事務機の営業マンをしていた志賀広三さん(75)=いわき市出身=は65年春、大野駅前で事務機器販売会社を立ち上げた。「原発や東電関連会社から仕事をもらえるだろう」と当て込んだからだ。
 初めは地元の学校に筆記具を納入する程度だったが、稼働が近づくにつれ原発から大きな注文も舞い込むようになった。
 最盛期には年間十数億円を売り上げるまでに成長した。志賀さんは「最初は苦労したが、働けば働くほど報われた。原発は金のなる木だった」と語る。

<米事故 影響せず>
 大熊町に建設されたのは福島第1原発の1〜4号機。運転開始は71年の1号機を皮切りに74、76、78年と続いた。1号機の着工(67年)から数えると、工事期間は10年以上に及ぶ。経済効果は計り知れず、小さな町が「原発依存」に染まるのも当然だった。
 4号機が運転を開始して約半年後の79年3月、米国でスリーマイル島原発事故が起きた。32年後の福島第1原発事故と同様に、炉心溶融(メルトダウン)を伴う過酷事故だった。
 世界を震撼(しんかん)させた最初の原発事故だったが、それでも町民の意識にはさして影響しなかった。
 鮮魚店から仕出し料理に商売を広げ、順調に利益を上げていた川井さんが振り返る。
 「人口も仕事も増え、町は潤った。原発反対を叫ぶ人は、町の発展の邪魔をしているとしか思えなかった」

◇福島第1原発建設と主な動き

1961年 東電が大熊、双葉両町を原発建設の最適地と判断
      大熊商工会設立
  64年 東京オリンピック開催
      東電が福島調査所を開設
  65年 大熊町商業協同組合設立
      いざなぎ景気始まる
  67年 第1原発1号機着工
  71年 第1原発1号機が営業運転開始
  72年 大野駅に初めて特急が停車
  73年 双葉駅に初めて特急が停車
  78年 大熊町の新庁舎落成
  83年 双葉町の役場庁舎落成


2012年10月17日水曜日

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