デジタル上映の功罪-字幕篇-
周りから「それ位いいじゃん」的評価を頂く愚痴を頻発している自分としては、
今回遭遇した事態も、私にとっては大いなる(許しがたき)過誤であったとしても、
もしかしたら「そんなん気にする方が悪い」レベルの神経質起因性の案件かも。
一般化しつつある、というよりも移行が完了しつつある段階に入ったデジタル上映。
様々なメリットやデメリットが論じられも報告されてもいる昨今。
フィルム原理主義者だった私も、デジタル上映による可能性拡張に期待したくなるこの頃。
それでもなかなか違和感を払拭できないものの一つに(デジタル上映時の)字幕がある。
端的に言えば、デジタル上映での字幕は発光し過ぎで
テレビやPCでみる映画字幕とダブってしまうのだ。
フォントが「その手のもの」と同じだったり、太めだったりすると尚更。
デジタル・ホワイトの字幕は自己主張が激しいので、画の存在感を侵食する。
配給会社によっては、フィルムの頃の字体に近づけたフォントを採用したり、
大きさや太さに配慮して、そうした違和感が減じられる(というより劇場観賞の
醍醐味を少しでもサポートしようとする)ような計らいが感じられることもある。
しかし、今日はとんでもない字幕を見せられ、
デジタル上映の行く末が案じられてならない憤慨と失望を味わった。
それは、『マリリン 7日間の恋』をデジタル上映で観賞したときのこと。
字体は前述のような「WOWOWタイプ」(勝手に命名)で、
そのくらいはもう仕方がないと割り切れるくらいの免疫はつきつつあるのだが、
なんと今回の字幕では、「ふりがな」が不自然に離れているのだよ・・・
例えば、2行の字幕になったりすると、2行目の文字よりも離れている始末。
いや、そもそも2行の字幕になった際も、行間がなさ過ぎて読みづらい。
これは、ボランティアによる手作り映画祭上映並のお粗末仕事。
(いや、そういった映画祭ならまだ理解できるし、発展途上だと認識できる。)
当然、「ふりがな」と同様に傍点だって離れまくっているわけで、
これは明らかにデジタル上映の字幕制作時の手抜き以外の何物でもない。
ここからは推測でしかないが、
デジタル上映における字幕は当然コンピュータで制作するだろうから、
従来の字幕制作の工程とも全く異なれば、当然これまでの職人がつくってる訳じゃない。
デジタル字幕の専門職が既に存在しているのかどうか、私は知らない。
配給会社のスタッフが会社のパソコンでつくったりしてるのかもしれない。
そんなことはどうでもいい。まともな字幕で観られるのなら。
冒頭でも触れたように、
私が「気にしすぎ」なだけかもしれない。
人によっては、「離れてた方が読みやすくていいじゃん」かもしれない。
が、少なくとも私の眼には「何も考えぬ やっつけ仕事」としか映らなかった。
「ふりがな」との距離など気にしない人間が字幕を制作していたのだろう。
そんな無頓着かつ杜撰な人間が、全国でメジャー配給により公開される作品の
字幕を担当しているという絶望。いや、担当者だけの問題ではないだろう。
ああいう「欠陥商品」を平気で混入させて配給してしまう精神が哀しい。
フィルム時代だって誤字脱字とかはそりゃたまにあった。
それは「校正ミス」かもしれないし、プリント作成後ゆえの修正不可だったのかもしれない。
しかし、デジタル上映の字幕なんて(おそらく)すぐに修正できるだろうに。
データを作ったあとでも、字幕データだけ書き換えたり後送したりできるだろうに。
いやいや、そんな発想は見当違いだろう。
なぜなら、ああいう字幕に対して、
作品(の配給・公開)に関わる人々が誰も「おかしく思わなかった」のだろうから。
少なくとも「送り手の中核にいる人」たちは。
非常に非常に些細で気にする方がおかしいレベルの話かもしれない。
しかし、「見た目の美しさ」という主観的な判断に拠らずとも、
普通にパソコンで文書を作成したりしている人間なら(仕事における作成なら尚更)、
「ふりがな」の距離を調整したり、行間や字間を調整したりするのは最低限のマナー。
つまり、映画に対する思いとか文化的配慮云々以前の問題。
要は、ろくにパソコンすら使えず(ちゃんと使おうって気もなく)、
仕事における責任感すらない方々によるオシゴトが、
いよいよ映画を気軽に侵食してきたって話なわけ。
あまりに唖然としたので、
戸田奈津子大先生の翻訳に関しては気にする余裕なかったからね・・・
ってか、そのための作戦か!? いやぁ、随分と荒い手をつかってきますなぁ。
配給してる角川の仕業なのか、それともCCC(つまり、TSUTAYA)の業なのか?
CCCは『キック・アス』のときにも劣悪上映素材を平然と劇場に流してたし、
やっぱり映画業界にとっては・・・
ただ、デジタル上映によって字幕の ON / OFF なんかが楽(?というか柔軟?)
になったことで、耳が不自由な方が字幕入りで邦画を観賞しやすくなったりするだろうし、
小規模な上映会や映画祭においても未公開作の字幕入り上映のハードルが下がるしで、
「デジタル化」の功だって今後はまだまだ期待できるはず。
しかし、そのためにも「安かろう悪かろう」な手抜きの産物は、
メリット享受するまえに文化の衰退をもたらしかねないとも思ってしまう。
デジタル化は人間の仕事を「減らす」のではなく「変える」だけなのでは?
手を抜けるところができても、別のところに眼を光らせるべき。
そうしなければ、人間の能力は衰退し、文化はやがて朽ち果てる。
ちなみに、肝心の作品には終始魅了され続け、
「主人公」の青年同様に、甘酸っぱい初恋の苦さに胸いっぱいになれる幸福な逸品だった。
きっと、字幕の稚拙さも、そんな青年の「初めてのほろ苦さ」を演出していたのだろう。
と、イタい字幕に負けじとイタい無理矢理な締め方で煙に巻く・・・