安保闘争
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安保闘争(あんぽとうそう)とは、1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり、日本で展開された日米安全保障条約(安保条約)に反対する国会議員、労働者や学生、市民が参加した日本史上で空前の規模の反政府、反米運動とそれに伴う政治闘争である。60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決されたが、岸内閣は混乱の責任を取り総辞職に追い込まれた。しかし70年安保闘争では左翼側の分裂や暴力的な闘争、抗争が激化し運動は大衆や知識人の支持を失った。
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安保条約
1951年(昭和26年)9月8日に、アメリカのサンフランシスコにおいて、アメリカやイギリス、中華民国をはじめとする第二次世界大戦の連合国49ヶ国と日本の間で、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結されたが、主席全権委員であった吉田茂は、同時に「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧日米安全保障条約)に署名した。この条約によって日本を占領していた連合国軍の1国であるアメリカ軍は、「在日米軍」となり、継続して日本に駐留する事が可能となった[1]。
なお、当時冷戦下でアメリカやイギリス、フランスなどのいわゆる「西側諸国」と対峙していたソビエト連邦は、西側諸国主導のサンフランシスコ平和条約に対立の意思を示し、49カ国の条約締結国には入らなかった上に、自国を事実上の仮想敵国とした日米安全保障条約に対しても激しく非難を行った。
60年安保
衆議院通過までの過程
1951年(昭和26年)に締結された安保条約は、1958年(昭和33年)頃から自由民主党の岸信介内閣によって改定の交渉が行われ、1960年(昭和35年)1月に岸以下全権団が訪米、大統領ドワイト・D・アイゼンハワーと会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意。1月19日に新条約が調印された。
新安保条約は、
- 内乱に関する条項の削除
- 日米共同防衛の明文化(日本を米軍が守る代わりに、在日米軍への攻撃に対しても自衛隊と在日米軍が共同で防衛行動を行う)※米軍の防衛の明文化はされていないとの反論が多数されている。
- 在日米軍の配置・装備に対する両国政府の事前協議制度の設置
など、安保条約を単にアメリカ軍に基地を提供するための条約から、日米共同防衛を義務づけたより平等な条約に改正するものであった。(※より平等でないとの意見もあり。日米共同防衛義務がないとの意見がある。日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の項目参照)
岸が帰国し、新条約の承認をめぐる国会審議が行われると、安保廃棄を掲げる日本社会党の抵抗により紛糾する。また締結前から、改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増すなど(※在日米軍裁判権放棄密約から派生する在日米兵犯罪免責特権への批判もあり。在日米軍裁判権放棄密約事件の項目参照)の懸念により、反対運動が高まっていた。スターリン批判を受けて共産党を脱党した急進派学生が結成した共産主義者同盟(ブント)が主導する全日本学生自治会総連合(全学連)は「安保を倒すか、ブントが倒れるか」を掲げて、総力を挙げて、反安保闘争に取り組んだ。
まだ第二次世界大戦終結から日が浅く、人々の「戦争」に対する拒否感が強かったことや、東條内閣の閣僚であった岸本人への反感があったことも影響し、「安保は日本をアメリカの戦争に巻き込むもの(※在日米兵犯罪免責特権への批判もあり)」として、多くの市民が反対した。これに乗じて既成革新勢力である社会党や日本共産党は組織・支持団体を挙げて全力動員することで運動の高揚を図り、総評は国鉄労働者を中心に「安保反対」を掲げた時限ストを数波にわたり貫徹したが、全学連の国会突入戦術には皮相的な立場をとり続けた。とりわけ共産党は「極左冒険主義の全学連(トロツキスト集団[2])」を批判した。一方で、全学連などは既成政党の穏健なデモを「お焼香デモ」と非難した。
なお、ソ連共産党中央委員会国際部副部長として、日本をアメリカの影響下から引き離すための工作に従事していたイワン・コワレンコは、自著『対日工作の回想』のなかで、ミハイル・スースロフ政治局員の指導のもと、ソ連共産党中央委員会国際部が社会党や共産党、総評などの「日本の民主勢力」に、「かなり大きな援助を与えて」おり、安保闘争においてもこれらの勢力がソ連共産党中央委員会国際部とその傘下組織と密接に連絡を取り合っていたと記述している[3]。
5月19日に衆議院日米安全保障条約等特別委員会で新条約案が強行採決され、続いて5月20日に衆議院本会議を通過した。委員会採決では、自民党は座り込みをする社会党議員を排除するため、右翼などから屈強な青年達を公設秘書として動員し、警官隊と共に社会党議員を追い出しての採決であった。これは、6月19日に予定されていたアイゼンハワー大統領訪日までに自然成立させようと採決を急いだものであった。本会議では社会党・民社党議員は欠席し、自民党からも強行採決への抗議として石橋湛山、河野一郎、松村謙三、三木武夫らが欠席、あるいは棄権した。
闘争の激化
その結果、「民主主義の破壊である」として一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲み、闘争も次第に激化の一途をたどる。反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。これに対して岸信介は、警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暗黒街の親分衆の会合に派遣。松葉会会長・藤田卯一郎、錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光、「新宿マーケット」のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員がデモ隊を抑えるために手を貸すことに合意した。
さらに、三つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請した。一つは岸自身が1958年に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼とヤクザで構成された全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会である。当時の「ファー・イースタン・エコノミック・レビュー」には「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8000人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。岸は創価学会にも協力を依頼したが、これは断られたという[4]。彼らは政府提供のヘリコプター、小型機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた」と書かれている。
岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には『声なき声』(サイレント・マジョリティの意)が聞こえる」と語った。しかし、東久邇、片山、石橋の3人の元首相が退陣勧告をするに及び、事態は更に深刻化する。
ハガチー事件および、樺美智子の死
6月10日には東京国際空港(羽田空港)で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日した大統領報道官(当時は新聞係秘書と報じられた)ジェイムズ・ハガティ(報道は「ハガチー」表記)が空港周辺に詰め掛けたデモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生(ハガチー事件)、6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、機動隊が国会議事堂正門前で大規模にデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死。中継をしていたラジオ関東の島碩弥も警官に警棒で殴られ負傷する。国会前でのデモ活動に参加した人は主催者発表で計33万人、警視庁発表で約13万人という規模にまで膨れ上がった[5]。
このように激しい抗議運動が続く中、岸は15日と18日に、防衛庁長官赤城宗徳に対して陸上自衛隊の治安出動を要請した。東京近辺の各駐屯地では出動準備態勢が敷かれたが、国家公安委員長石原幹市郎が反対し、赤城も出動要請を拒否したため、「自衛隊初の治安維持出動」は回避された。追い詰められた岸は、実弟佐藤栄作と共に自決を覚悟した。[要出典]。
七社共同宣言
15日の惨事を議会政治の危機(言い換えれば、社会主義革命、共産主義革命への導火線)とみた広告代理店の電通の吉田秀雄、朝日新聞社の笠信太郎らが主導となり、在京新聞社7社[6]は、6月17日に共通で「議会政治を守れ」としたスローガンを掲げた社告を掲載。国会デモ隊の暴力、社会党の国会ボイコット、民社党との過度の対立を批判した(七社共同宣言)。この七社共同宣言は、「流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった。(中略)いかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて事を運ばんとすることは断じて許されるべきではない」とあり、岸政権が批判を受けた「所以」を不問に付した。従って、安保闘争に冷や水を浴びせ、政府にとって有利な内容であった。そのため、警察側の暴力を不問にした、議論の本質を「暴力反対」にすり替えた、といった批判が当時なされ、「新聞が死んだ日」とも評された[7](→安保報道)。
自然成立後
条約は参議院の議決がないまま、6月19日に自然成立。またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となった。岸内閣は混乱を収拾するため、責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である6月23日に総辞職した。岸は辞任直前に暴漢に襲撃され重傷を負った。
「60年安保闘争」は空前の盛り上がりを見せたが、戦前の東條内閣の閣僚でありA級戦犯容疑者にもなった岸とその政治手法に対する反感により支えられた倒閣運動という性格が強くなり、安保改定そのものへの反対運動という性格は薄くなっていたため、岸内閣が退陣し池田勇人内閣が成立(7月19日)すると、運動は急激に退潮した。
池田勇人内閣は所得倍増計画を打ち出し、社会党も経済政策で対抗したため、安保闘争の影は薄くなっていった。さらに、7~8月に行われた、青森県・埼玉県・群馬県の各知事選で社会党推薦(埼玉では公認)候補は惨敗(山崎岩男、栗原浩、神田坤六が当選)。総選挙でも自民党圧勝の雰囲気さえ出てきた。10月12日、社会党の淺沼委員長暗殺事件で再び政権は揺らぎかけたが、池田首相は動揺を鎮めることに成功。11月20日の総選挙では、社会党と民社党が互いに候補を乱立させた影響もあり、自民党は追加公認込みで300議席を獲得する大勝を収めた[8]。安保条約の改定が国民の承認を得た形になり、現在(2012年)まで半世紀以上にわたり、安保条約の再改定や破棄が現実の政治日程に上ることはなくなっている。
余波
デモ隊側から見れば、安保阻止は実現できなかったものの、自らの運動によって内閣を退陣させることに成功した意義は非常に大きく、活動の主体となった大学生による反体制運動は、続くベトナム戦争反戦運動により拍車がかかり、1968年(昭和43年)に起こる一連の大学紛争へ至る。一方では、安保闘争を「敗北」と総括した共産主義者同盟(ブント)をはじめ、急進派学生には、強い挫折感が残ることになった。全学連指導者の一人だった唐牛健太郎は、安保闘争の終結直後に運動から身を引き、香山健一、森田実などは、「体制側」(保守側)に身を転じていく。新左翼党派は、ブントが四分五裂の分裂を開始し、北小路敏ら全学連指導部の一部は、ブントから革命的共産主義者同盟全国委員会に移行するなど、再編成の季節を迎えることになる。
安保闘争は、議会政治自体への反発や否定の側面があった。しかし、マスメディアが「七社共同宣言」で議会政治擁護をその根拠としたことで、主立ったマスメディアで、議会政治自体を否定する論調はほぼ無くなった。また、安保闘争は、総選挙で与党の自由民主党に対する政権交代を実現させる方向には働かず、選挙結果への影響がほとんど無かったことも注目される。
1963年(昭和38年)2月26日、東京放送(TBSラジオ)が実録インタビューで構成した番組『歪んだ青春-全学連闘士のその後』を放送する。この番組は60年安保闘争時の全学連が、戦前の日本共産党の指導者で60年当時は土建会社を経営しながら「反共右翼」としての活動を行っていた田中清玄から資金援助を受けていたことを暴露する。日本共産党は「ブント全学連の挑発者としての正体が露呈した」と指摘し、新左翼を「ニセ「左翼」暴力集団」と呼ぶ、つまり左翼とは認めない根拠としている。田中清玄自身は、「アジア主義右翼としての『反岸』と『反共産党』という立場から全学連に共感を持った」と語っているが、日本共産党と国民の分断を狙った工作活動であることは明らかである[要出典]。
また、安保闘争における過程で岸が右翼をデモ隊に対抗する行動部隊として動員させる過程で、児玉誉士夫などを使いヤクザを動員した結果、一部の右翼とヤクザなどの反社会勢力との関係が深まり、一部のヤクザが右翼団体や政治結社を名乗り活動するなど右翼活動にヤクザがおおっぴらに食い込み、両者の区別があいまいになるきっかけとなったという評価もある[9]。
ソビエト連邦は安保改定を自国への挑戦と受け止め、上記のように社会党や共産党、総評の安保反対活動に対して多大な援助を行うとともに、1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言で確約された「平和条約締結後に歯舞群島・色丹島を返還する」約束を撤回し、米軍が駐留可能となる地域が増えることは好ましくないとして、日本政府に対して一方的に不返還を通告した。日本政府は、共同宣言発効の際には既に安保条約が存在しており、双方は矛盾しないとして抗議、結局ソ連が不返還通告を撤回することで収束した。
評価
新安保条約や60年安保闘争への評価は政治的な立場により異なるが、新安保条約は現在(2010年)まで約半世紀にわたり存続しており、ソ連崩壊で冷戦が終結し、対ソ連、対東側諸国への抑止力としての安保体制の意義は消滅したものの、新たに北東アジアにおける軍事的脅威として浮上してきた中華人民共和国や北朝鮮に対峙するための日米の軍事同盟として、そしてアメリカのトルコ以東地域への軍事的存在感維持などの新たな意義づけのもとに維持されているなど、日本の政治体制・軍事体制の基礎として完全に定着しており、当時安保改定反対の理由として主張された「新安保条約により日本が戦争に巻き込まれる危険が増す」との意見は現在では余り聞かれない。
さらに、1994年7月成立の村山内閣で、日本社会党委員長である村山富市首相が国会の所信表明演説において「日米安保堅持」と発言した上、2009年に発足した民主党、社会民主党、国民新党の連立政権(鳩山由紀夫内閣、民社国連立政権)においても、日本社会党を継承した社会民主党の福島瑞穂党首(特命担当大臣)が、入閣後は安保について明確に反対の意思を示していないなど、一部の左翼陣営の中での国会内での安保条約を容認する動きも出ている。
マスメディアの状況も、「日米安保」からさらに進んで、「日米(軍事)同盟」堅持が主流になっている。民主党、社民党、国民新党は、沖縄県の在日米軍アメリカ海兵隊が配属されている普天間基地の県外移転を公約に掲げた。これは一つの基地の問題で、日米安保自体の改変ではなかったが、全国紙の『朝日』『読売』『日経』『産経』4紙は、いずれも「日米同盟」を危うくする物として、これを批判。自公連立政権で米国と合意した、沖縄県内の辺野古移設案を変えることの無いように主張し、あくまで県外移転を求める、沖縄県の地元2紙(琉球新報、沖縄タイムス)との論調の差は際立った(地方紙は沖縄以外も、石川県地方紙の北國新聞、三重県地方紙の伊勢新聞を除くと辺野古移設には慎重な論調が主流であった)。また、米国側は辺野古移設が「唯一実行可能な選択肢」という態度を取った。その結果、鳩山政権は内外の批判に屈する形で辺野古案を受け入れ、閣議での署名を拒否した福島瑞穂特命担当大臣を罷免。社民党は連立を離脱した。このことは、全国規模のマスメディアに「日米同盟」を自明とする認識が定着し、安保破棄は無論のこと、僅かな縮小に対しても、それを阻止する論調が主流になったことを示した(詳細は普天間基地代替施設移設問題参照)。
なお、小室直樹や西部邁などは「安保反対と言って騒いでいた中に安保条約の中身を読んで反対していた人間はろくにいなかった」と公言している。西部は当時全学連中央執行委員をしていた)。
60年安保闘争の経緯
- 1959年(昭和34年)
- 3月 - 日本社会党、日本労働組合総評議会(総評)、原水爆禁止国民会議(原水禁)などが安保条約改定阻止国民会議を結成。
- 10月 - 社会党の西尾末広が改定阻止国民会議に反対を表明し離党。
- 11月 - デモ隊が国会構内に乱入。
- 1960年(昭和35年)
- 1月19日 - 日米政府間で条約調印。
- 1月24日 - 西尾末広らが民主社会党結成。
- 4月 - 全学連が警官隊と衝突。
- 5月20日 - 衆議院で強行採決。以降、連日デモ隊が国会を囲む。
- 6月11日 - ハガチー事件(大統領秘書が来日するが、羽田でデモ隊に包囲されヘリコプターで脱出)。
- 6月15日 - 全学連と警察隊の衝突で、大学生樺美智子死亡。
- 6月17日 - 在京新聞7社が共同でデモ隊の暴力を批判、社会党の国会復帰を呼びかける。
- 6月19日 - 条約が自然成立(23日に発効)。
- 6月23日 - 新安保条約の批准書の交換、全手続きを終了。岸内閣総辞職を表明。
- 7月14日 - 自由民主党総裁選挙。池田勇人を自民党第4代総裁に選出。総理大臣岸信介が暴漢に襲われ重傷を負う。
- 7月15日 - 岸信介内閣が総辞職。
- 7月19日 - 池田勇人、内閣総理大臣に就任。第1次池田内閣が発足。
- 10月12日 - 日本社会党委員長の浅沼稲次郎が、山口二矢(当時17歳)に暗殺される。
- 11月20日 - 11月20日第29回衆議院議員総選挙。自民党が議席を増やす。
70年安保
10年間の期限を迎えた日米安保条約が自動延長するに当たり、これを阻止して条約破棄を通告させようとする運動。学生の間では1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて全共闘や新左翼諸派の学生運動が全国的に盛んになっており、東大闘争、日大闘争を始め、全国の主要な国公立大学や私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとして大規模なデモンストレーションが全国で継続的に展開された。街頭闘争も盛んに行われ、新左翼の各派は、1967年(昭和42年)10月、11月の羽田闘争、1968年(昭和43年)1月の佐世保エンタープライズ帰港阻止闘争、4月の沖縄デー闘争、10月の新宿騒乱事件(騒乱罪適用)、1969年(昭和44年)4月の沖縄デー闘争、10月の国際反戦デー闘争、11月の佐藤首相訪米阻止闘争などの一連の闘争を「70年安保闘争の前哨戦」と位置づけて取り組み、「ヘルメットとゲバ棒」スタイルで武装し、投石や火炎瓶を使用して機動隊と戦った。
国会前へのデモンストレーションは1970年(昭和45年)6月14日に行われ、また全国236箇所で社会党、共産党などによるデモが行われた。また、「インドシナ反戦と反安保の6・14大共同行動」と題して、市民団体と新左翼諸派は7万2千人を動員した。しかし、新左翼諸派は、機動隊を強化した佐藤政権による徹底した取り締まり、あるいは弾圧に加え、内ゲバによって既に疲弊していた。
同年6月23日、条約は自動継続となった。70年安保闘争は、ベトナム反戦運動、成田空港問題などと結び付き、一定の労働者層の支持を得たが、60年安保に比べ、全共闘を中心とした学生運動の色合いが濃くなっていた。社会党や共産党などの革新勢力は、「70年安保闘争」を沖縄返還運動とセットの「国民運動」として位置づけ、70年の「自動延長」そのものには60年安保闘争ほどの力量を割かなかった。
「安保延長反対」の世論と運動への国民の支持は少なくなかった。しかし、全共闘と共産党系の民青の衝突を始め、全共闘に属する党派同士の内ゲバが激化し、多くの国民からかけ離れた存在となっていった。70年安保期の1969年(昭和44年)12月の総選挙では、当時の佐藤栄作内閣を支える自民党は国会での議席を増やす一方、「安保延長」に反対した社会党は約50議席を減らして大敗し、佐藤長期政権は1972年(昭和47年)まで継続した。
それでも学生運動、新左翼運動を続ける者はいたが、8月4日には中核派による革マル派活動家殺害が発覚し、革マル派も報復として中核派活動家を殺害。今までの暴力沙汰から、完全に殺し合いに発展していった。また、1972年、連合赤軍によるあさま山荘事件、そして発覚した山岳ベース事件での暴挙が国民に知られると、その凄惨さから、学生運動・新左翼運動は殺人と同義と見なされ世間から見放されるようになった。それまで左翼を擁護していた知識人たちも、一斉に手の平を返して左翼運動を批判するようになり、新左翼の勢力は一気に退潮した。
また、学生運動経験者の多くは、そのまま一般企業に就職する道を選び、自民党政権を支える存在になっていった。
現在に至る影響
この一連の闘争で日本国民の間には反米意識が燻り続ける事となり、国家悪と階級闘争史観に立脚するマルクス主義が1970年代中期には広く人口に膾炙する様になった。また1975年に松下圭一が岩波新書から出版した『市民自治の憲法理論』は広く学生に読まれ、彼が提唱した「市民自治」は彼を私淑する菅直人の手で40数年後に国政の舞台で実現される事となったが、それは国家統治を逆さまにする愚衆独裁主義・共産主義以外の何物でもなかった。また、1971年から朝日新聞が全社挙げて行った「日本軍国主義復活阻止キャンペーン」では、記者の本多勝一が『中国への旅』を紙上連載した(後に書籍化)。これは中国共産党が事前に準備した「日中戦争の証言者」の言分を検証もせずに無批判に垂れ流すだけの内容で、「証言者」は、日本軍の蛮行をギャグ並に吹聴し中国共産党と文化大革命への称賛で締める内容であった。中国はこの頃からウイグルやチベットへの侵略と大虐殺を開始しており、彼らの「証言」はその侵略と大虐殺及び大躍進政策と文化大革命に於ける大虐殺を証言したに過ぎない。オウム真理教も「市民が教団をガスで襲撃せんと狙っている」と吹聴していたが実は自分達がガスで一般市民を襲撃せんとしていたのであり、この「証言者」も亦た然りである。しかし進歩的文化人と称された者達は中国のこうした動きに歩調を合せる様に、大躍進政策を称揚して「北京には蝿1匹も居ない」と喧伝し、また文化大革命に関しても「日本でも早く起こせ」と社会を突き上げた。またこの頃までに農村が毛沢東思想に完全に心酔する様になり、国家意識が忌まわしき物とされ、そこから解脱した地球市民が盛んに唱えられる様になった。現在殆どのメディアが「地球市民」を社是に掲げている。
この結果、日本における日本国民は僅少となり、代わりに多数派となった地球市民は「自分たちの生活が第一」の無宗教となり、日本史からは人間的な解釈が消滅した。1970年にそのような現状を見かねた三島由紀夫が「このままでは日本は亡くなって、その代りに、無機的で空っぽで、中間色でニュートラルな、富裕で抜目ない、或る経済大国が極東の一角に残るのだろう.それでも良いと思っている人達と私は口をきく気にも成れない」という切迫した危機感に衝き動かされて、自身の死を以て日本人に人間・日本国民としての覚醒を促そうと決起したが、豚に真珠・蛙の面に小便宜しく「自分達の晩飯が第一」となった地球市民にとって最早人間である事など無価値であり、それに絶望した三島は介錯人付きで割腹自殺を遂げた(三島事件)のだが、当時も現在(2010年末時点)も彼の憤死を理解する能力は地球市民には存在せず、彼の死は完全に犬死であった。そして地球市民はアイドルやバブルに浮かれ、国際社会の情報戦争には全くの無関心・無頓着となった。ケガレ忌避信仰とコトダマ教の下に制定された日本国憲法前文の「諸国民の公正と信義に信頼して、我等の安全と生存を保持しようと決意した」との文言及び憲法9条を金科玉条とし、非武装中立を全世界にと声高に叫び続ける様は、亡き三島が看破した「無機的で空っぽ」な人間そのものである。中国と朝鮮の例で既に判る様に、「諸国民の公正と信義」程信用できない代物はないのだが、言霊の毒に脳髄を侵されている地球市民には、それが死んでも理解出来ない様だ。またこの頃には北朝鮮による拉致事件が頻発していたが日本社会は全くの無関心で、日本社会党に到っては自ら朝鮮総連や北朝鮮の代弁者と成っていた。
1995年の阪神淡路大震災では当時の首相・村山富市が、自衛隊の発動を可能とする緊急災害対策本部を最後まで設置しようとせず、結果的に死ななくても良い人命が沢山失われた。国民の生命・財産・安全を護るという近代国家を明確に否定し、その基本的責務を自発的に放擲した形だが、地球市民及び社会主義のエリートである村山にとっては近代国家の殲滅こそが至上命題であり、その意味で彼の行動は大変道理に適った物であった。また村山は、東南アジアの近隣国家にはしなくてもよい謝罪をし、特定アジアには事実上臣従する内容の村山談話を、河野談話を踏襲する形で発表した。
2009年秋の衆院選で、経済界を中心とする地球市民の圧倒的支持を背景に鳩山政権が成立した。鳩山政権は日米中正三角形論を展開し日米同盟の形骸化に大きく貢献した。また2番目の菅直人政権では尖閣諸島中国漁船衝突事件に関し、官房長官の仙谷由人が「日本は伝統的に中国の影響下に在る」と宣言し、日本は過去・現在・未来永劫に中華臣民であると云う認識を国際社会に向けて発信した。また中国大使の丹羽宇一郎が「日本は中国の属国に成る事で初めて、安全と平和と生存を保持できる」と極秘裏に表明し、民主党が実際は中国共産党日本支部であった事が明らかとなった。またこの頃保守系雑誌にて日本社会党(現・社民党)が挙党体制で北朝鮮を支援し、朝鮮労働党のプロパガンダ機関となっていた事が漸く明らかと成り、朝鮮労働党日本支部と保守派から揶揄されている。中国が近年唱えている「大中華圏」とは即ち冊封体制であり、日本社会は既に取り込まれてしまった様である。その証拠に現在地球市民は「中国が攻めてきたらサッサと降伏して中国人として生きればよい.同じ人間なのだから虐殺は有得ない」と本気で大真面目に主張している。これが言霊・植民地主義そして家畜根性の発露であるのは明白である。日本国が滅んだら我々に待っているのはウイグルやチベットと同じ惨状、即ち民族浄化である事は過去の歴史が証明している。
脚注
- ^ 以上は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」より
- ^ トロツキー支持者とは限らず、共産党と敵対する左翼全般への非難用語として使われた。ニセ「左翼」暴力集団も参照
- ^ 『対日工作の回想』P.136 イワン・コワレンコ著文藝春秋刊 1996年
- ^ 『潮』2008年1月号「池田大作の軌跡」編纂委員会『平和と文化の大城 池田大作の軌跡』「公明党を創立(下)」
- ^ 主催側 警視庁 食い違うデモ人数なぜ 2012年8月4日 東京新聞朝刊
- ^ 『朝日新聞』、『毎日新聞』、『讀賣新聞』、『日本経済新聞』、『産業経済新聞』、『東京新聞』、『東京タイムズ』。地方紙にも、日本新聞協会加盟社に配信され、最終的に48紙に掲載された(掲載しなかったのは『愛媛新聞』、『北海道新聞』など少数)。
- ^ 新聞社内からも批判があり、新聞労連などが抗議活動を行った。
- ^ 前回比2議席増ながら、議席率64.2%は2012年現在も自民党の最高記録である。
- ^ 『田中角栄研究 全記録(上・下)』 立花隆著 1982年 講談社文庫
参考文献
- 西部邁『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』洋泉社MC新書、2007年 ISBN 9784862481498 - 元版は文藝春秋刊(1986年)。
- 佐伯啓思『「市民」とは誰か 戦後民主主義を問いなおす』PHP新書・1999年
- 石平『なぜ、日本人は日本をおとしめ中国に媚びるのか』WAC、2009年