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佐野眞一叩きに付和雷同する人権左派の盲目と観念論
週刊朝日の記事を読み、ネットのTLを見たときに、これは大丈夫かなという一抹の不安はあった。不安というのは、今回のように朝日が日和り、週刊朝日が白旗を上げる事態である。私は週刊朝日を信用していないから、バッシングに折れて最悪の顛末になる可能性も予想していた。週刊朝日を擁護しようという気は毛頭ない。廃刊でも何でもすればいい。だが、掲載された佐野眞一の文章への評価は変わらない。表現も、方法も、気迫も、橋下徹批判として正鵠を射ている。佐野真一は、これを週刊誌への連載ではなく、書き下ろしの単行本で発表するべきだったのだろう。結局、後ろから鉄砲を撃たれてしまった。記事中には、被差別部落の所在地を特定している記述があり、この点を論難されて槍玉に上げられるのはコード上やむを得ない。しかし、その瑕疵については訴訟の場で争う等の対処法があったはずで、それを選ばず、早々に橋下徹に対して謝罪するという対応は肯けない。佐野眞一がその方針を承伏したとも思えない。週刊朝日が早々に降参したことで、この問題は政治として決着がついた。連載は中止になるだろうし、最早、続けても意味と価値がない。今回の問題は、言論の自由と言葉狩りの問題でもある。今後のことを考えると、朝日の責任はきわめて重い。これは、戦前に擬えば、美濃部達吉の天皇機関説と類似の問題で、ファシズムの暗黒の扉を開く入口だ。
三宅雪子が、今回の問題について、「生まれた場所や環境など本人に帰するものでないことで責めることはあってはいけないし、差別に繋がる可能性があるものには慎重であるべき」と言っている。政治家の発言としてはこれでいいし、一般論としては悪くない。政治家ならこう優等生的に言を残すべきだ。しかし、私は敢えて反論するが、人を傷つけない批判などないのだ。この言葉も辺見庸だったか、何かのエッセイの中でそう語っていた。相手を傷つけず、自分を傷つけない批判などないし、そうでなければ、その批判の言葉は本物ではない。佐野眞一はこう書いている。「この連載で私が解明したいと思っているのは、橋下徹という人間そのものである。もし万々が一、橋下が日本の政治を左右するような存在になったとすれば、一番問題にしなければならないのは、敵対者を絶対に認めないこの男の非寛容な人格であり、その厄介な性格の根にある橋下の本性である。そのためには、橋下徹のルーツについて、できるだけ詳しく調べ上げなければならない」(P.22)。私はこの佐野眞一の立場と主張に同意する。その成果を大いに期待した。この作業は、部落問題というタブーに抵触するチャレンジでもある。したがって、リスクを伴い、きわめて勇気を必要とする行為だ。作家生命に関わる。誰でも簡単にできることではない。それに敢えて踏み込もうとする佐野眞一に共感した。
今、そういう仕事ができるのは佐野眞一しかいない。タブーの地雷原が張り巡らされたリスキーな戦場に斬り込んで、説得力のあるルポを世の中に提示し得ると使命を託せるのは、今は佐野眞一くらいしか思い浮かばない。最近、何度か佐野眞一が報ステのスタジオに出演し、時事で解説する機会があった。隣の古舘伊知郎の反応が視聴者の感想をそのまま反映していたと思われるが、一般のマスコミ論者や浅薄な三浦俊章のサラリーマン解説とは全く異次元の、人の心に届く言葉が発せられ、問題の本質を良識が抉り出す見事な至言が提供されていた。今回の佐野眞一の挑戦は、当然ながら、被差別部落論が正面に据えられた作品になっただろう。橋下徹の人格形成を論じつつ、被差別部落を論じるルポになったと思われる。部落問題はタブーである。そこには、部落出身というだけでいわれのない差別を受け、苦しんでいる大勢の人々がいる。就職や結婚で差別され、人に言えない悲嘆と憤激を抱え込まされて生きている人々がいる。その苦しみが子や孫にまで続くのかと煩悶を強いられている。血による人権侵害が歴然としてある。と同時に、いわゆる同和の利権行政の腐敗の問題が構造的にあり、同和の表象や通念が一般市民の中でネガティブにならざるを得ない現実も一方にある。特に西日本では、その社会問題の弊害が地域において甚だしい。
同和問題というのは平板ではなく複雑だ。その複雑な全体が、タブーの投網をかけられた形で不可視化され、タブー化によって差別が日常から隠され、解決ならざる解決が与えられている現状(寝た子を起こすな)がある。マスコミと行政が、タブー的処理と不可視化を言わば制度化している。このところ、部落問題を焦点にしたジャーナリズムやドキュメンタリーが消えている。おそらく佐野眞一の今回の作品は、その意味で社会に一石を投じるものになり、部落問題についてあらためて現代人が考え直す契機を与える材料となったはずだ。差別はいけないと言うだけでは、部落差別は解決せず、人権侵害もなくならない。佐野眞一に対する、「部落差別だ」と決めつけるレッテル攻撃は、橋下徹による巧妙なスリカエ工作に左翼が乗せられた結果に他ならない。佐野眞一の記事は橋下徹批判なのだが、橋下徹はそれをスリ換え、部落差別だということにし、同和タブーアレルギーの左翼が脊髄反射の如く逆上、付和雷同して佐野眞一叩きに回った。TLで「人権、人権」と騒いで佐野眞一を糾弾する左翼は、記事を実際に読んでいない。また、現時点で、部落解放同盟から週刊朝日を批判する声明は発表されておらず、日本弁護士会や大阪弁護士会から、この記事が不当差別で人権侵害であるとする見解は示されていない(自民党系の自由同和会は出した)。クリティカルな問題だが、言論の自由とのバランスで判断が微妙だからであり、政治的に影響があり、慎重な注視を必要とするからだろう。
佐野眞一に対する非難を見ると、その橋下徹への批判に品格がないとか、感情的に悪意悪口を吐きつけて溜飲を下げているだけだという言い方がある。批判は理性的にやれという主張であり、相手の土俵に下りて戦ってどうする、というような批判だ。左翼のTweetに非常に多い。例えば、中島岳志がこんなことを言っている。「『週刊朝日』問題。『ハシズム』の問題は、政治空間に『バカ』『クソ』『クズ』といった言葉のアリーナを形成し、嗜虐的愉楽を煽ることだ。結果的に橋下氏を批判しながら、橋下的なるものを強化してどうするんだ」。代表的な意見だろう。果たして、中島岳志やその亜流の脱構築系は、辺見庸の言う「橋下徹はテレビがひり出した汚物である」の言葉をどう聞くのだろう。辺見庸のこの批判は、橋下徹の人格否定そのものだ。過激で深刻だ。他に表現として適当な言語がないから、この言葉をあてがっている。それは、渾身の憤怒であり、断念ではあるけれど、単純な侮辱だとか悪罵とは違う。根本的に違う。もっと深い心からの言葉だ。もうここまで堕ちて救いのない時代になってしまったという、表現者主体の断末魔であり、この社会と政治に対する絶望だ。橋下徹という対象を言語化しようとして、語彙述語を探しようがなく、悩んだ末にこうした罵倒言語が並ぶのである。それは、橋下徹の土俵に乗る行為かもしれない。だが、現に政治の土俵はそこにあるのであり、日本社会が堕ち果てているのだ。
中島岳志や脱構築系の方が、現実と乖離した空虚な言説空間の中で、閉ざされた言説市場の言説消費者に向かって、空疎で無意味ながら高尚で「理性的」な言葉を発し合い、何か意味のある議論をしているような気になっているのである。自惚れているだけだ。言説貴族なのだ。佐野眞一の橋下徹批判を論外だと一蹴している左派は、現実の政治とは無縁な言説貴族なのであり、貴族の言語で橋下徹を語り、貴族同士で趣味的に評論して頷き合っているに過ぎない。貴族たちの言葉は、人の心に届かず、政治に影響を与えることがなく、雲上で空回りしているだけで、浮薄な論壇市場を商業的に回転させているだけである。私は、彼らの感想や寸評とは全く違って、佐野眞一の言葉の一つ一つに説得力を感じ、政治の批判として成功していると確信する。言葉の使い方と運び方に感心する。熟練した文章表現の能力に舌を巻く。中島岳志や脱構築左派は、「部落差別」の観念論で佐野眞一を全面否定する。果たして、全面否定されるべきは、佐野眞一なのか、橋下徹の政治的人格なのか。辺見庸や佐野眞一は、こんな男はそもそも大阪市長に選ばれるべきではないし、まして国会で勢力を得て首相になるなど言語道断だと言っているのだ。それが常識だと言っているのだ。こんなものは否定されて当然だという信念があるのである。拒絶しているのだ。断絶した距離上に主体があるのだ。つまり、橋下徹を許容する今の社会が異常だと断言しているのだ。
佐野眞一を否定し、橋下徹を擁護する者は、今の社会に対する拒絶や断絶の意識がない。狂っている現実への知覚や内省がない。大脳神経が麻痺している。緊張感がない。左派の連中は、二言目には橋下徹をヒトラーに擬えて警戒を言う。だが、本当にヒトラーだったら、ヒトラーになる可能性があるのだったら、その恐怖があるのであれば、絶対に政治権力を与えてはいけないのではないのか。現に、大阪ではナチス治下と同じ苛烈なファシズムの事態が起きている。佐野眞一が発しているのは、橋下徹に対する罵詈雑言ではない。橋下徹に権力を与え、英雄として崇め、独裁者橋下徹の嗜虐行動に声援を送り、涎を垂らして喜悦しているマスコミとわれわれ自身に対する痛恨の批判なのだ。私は、橋下徹に対する人格批判は必要だと思う。ストレートな人格批判の議論こそが必要だ。橋下徹を否定することで、今の日本社会をトータルに否定することが必要だ。そうでなければ、海外からの右傾化批判も耳に入らない。脱構築の無意味なくっちゃべりはウンザリだ。
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by
thessalonike5
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2012-10-19 23:30
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カプリコン
at 2012-10-19 21:26
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週刊朝日、書店やコンビニを回ったのですが、どこにもなくて残念でした。
今日の記事にある同和問題の根深さは、東北人にはピンと来ないのですが、20年くらい前、出張で大阪に行った時にいたるところに「なくそう同和問題」のような垂れ幕が大きく掲げられていて、驚きました。
帰宅後、図書館で同和問題について書かれた本をみると、今日の記事のように、「その苦しみが子や孫にまで続くのかと煩悶を強いられている。血による人権侵害が歴然としてある。と同時に、いわゆる同和の利権行政の腐敗の問題が構造的にあり、同和の表象や通念が一般市民の中でネガティブにならざるを得ない現実も一方にある」といったようなことが書かれていました。
小学生向けの本の中にもヒトラーについても書かれてます。落第、美術大学の受験失敗、「労働党」という右翼団体で巧みな演説を認められ、ベルサイユ条約に不満を持つ人達のなかの資本家、軍人、王党派の人達の支持を集めた、とあります。そして、ナチス党を率いて、「ワイマール憲法と共和制を打ち倒せ。ユダヤ人を追い出せ。軍備を整えろ」と独裁政治への道を突き進むと。
橋下徹のやっていること、ヒトラーあるいは戦前の特高そのものです。
Commented by
H.A.
at 2012-10-19 23:04
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何がセクハラか決めるのは当事者(女性)、何が反ユダヤ主義かを決めるのはユダヤ人、何が部落差別かを決めるのは部落解放同盟という印象です。そして差別だと糾弾された者は、表向きは頭を下げ、社会ではタブー視され、しかし人々の考えは深まらず、ときどき本音が漏れて騒がれるのは変わらない。
橋下氏は、「人権博物館」の補助金も廃止し、解放同盟の反発を買う一方、その団体が推す国会議員も「日本維新の会」に迎え入れました。(その議員は、佐野氏のルポに出てくる地域も選挙区です。最初は社会党から出て、その後自民党に衣替えし、今度は「会」なのです。)橋下氏は、圧力運動団体も巧みにとりこんで、そのエネルギーを利用しようとしているようにもみえます。
佐野氏のルポには、取材対象への辛辣な記述のなかに、真実をついている内容が多々あります。今回の対象は、非寛容で、論点をすりかえて攻撃をする達人で、つけいらられる一分の隙も見せてはならない者で、残念な結果になりました。
(野中広務氏が、雑誌出版社から魚住昭氏の本で書かれたときは、まだ鷹揚な対応をされていましたが。)
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