WEB特集
“戦う映画監督”若松孝二さん
10月18日 19時10分
社会性に富んだ映画で、国内外から高い評価を受けていた映画監督の若松孝二さんが、12日、東京都内でタクシーにはねられ病院で治療を受けていましたが、5日後の17日夜、亡くなりました。76歳でした。
半世紀におよぶ若松監督の映画人生。「戦う映画監督」として社会に強いメッセージを送り続けました。
交通事故突然の死
若松監督が交通事故にあったのは10月12日の夜。
東京・新宿区で道路を歩いて渡ろうとしたところタクシーにはねられ、近くの病院に搬送されました。若松監督は、頭や腰などを強く打ち重傷でしたが、容体が悪化し、17日午後11時過ぎ、搬送先の病院で亡くなりました。
“ピンク映画の巨匠”
若松監督は宮城県出身。高校を中退したあと上京し、さまざまな職業を経て、昭和38年、みずから脚本を手がけた成人向けの映画「甘い罠」で映画監督としてデビューしました。
当時は成人向け映画の人気が急上昇した時期で、若松監督は前衛的な作品を次々と発表し、ヒットさせました。鮮烈なエロティシズムと暴力、権力への反抗を描く作風は、学生運動の盛り上がりと相まって若者を中心に人気を集め、“ピンク映画の巨匠”と呼ばれました。
昭和40年、「壁の中の秘事」が日本からの推薦作品を押しのけて、ベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品されたものの、「国辱」と評され話題になりました。
このあと、若松監督は映画製作の独立プロ「若松プロダクション」を立ち上げ、「胎児が密猟する時」や「犯された白衣」「天使の恍惚」などを製作。精力的にスキャンダラスな作品を撮り続けました。また、宿願だったプロデューサー業にも乗り出し、高橋伴明監督ら多くの映画人を輩出しました。
昭和57年には、内田裕也さんが主演した「水のないプール」を監督し、一般映画に進出。ハードボイルド作家としての評価も高めた「われに撃つ用意あり」や、つかこうへいさんの戯曲が原作の「寝盗られ宗介」などの話題作でも知られました。
“時代”を撮り後世へ
近年の若松監督は、日本で起きた大きな事件の記憶を映像として残し、反戦のメッセージも映画に盛り込みました。
平成20年、ベルリン国際映画祭で最優秀アジア映画賞を受賞した「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」。昭和47年に起きた「あさま山荘事件」に至る連合赤軍内部の人間関係やリンチの実態を克明に描いた作品で、若松監督は受賞当時、「日本の戦後最大の事件を映像に残したいという思いで撮った」と語っていました。
また、おととしは、戦地で手足を失って帰国した男性とその妻を描いた作品「キャタピラー」をベルリン国際映画祭に出品。主演した寺島しのぶさんが最優秀女優賞を受賞しました。
若松監督は小学校3年生のときに敗戦を迎えました。この映画に込めた思いについて、若松監督は「戦争っていうものの悲惨さを、戦地だけじゃないところを描くことによって、反対に戦地が見えて来るんじゃないかっていうことで『キャタピラー』を作ったんです。今だからこそ、あの戦争は何だったんだろうということを、ずっと問わないと、また同じことを繰り返すんじゃないかという危機感がぼくの中にある。戦争は見も知らない人を殺すことだと、もしかしたら自分も死ぬんですよと、若い人たちも考えて欲しい」と語っていました。
“最後の戦う映画監督”
映画界からは若松監督の突然の死を悼む声が相次ぎました。
若松監督のことを「若ちゃん」と呼び、親交の深かった映画監督の山本晋也さんは「私が監督になる前のまだ無名だったころ、すでに“ピンク映画の巨匠”となっていた若ちゃんが、映画関係者に私のことを『あいつは人をまとめることができる。修羅場も一緒に体験しているから、あいつなら大丈夫だ』と助言してくれました。私が監督になれたのはその助言のおかげで、本当に感謝しています。若ちゃんは映画人でもあり、『戦う人』でもありました。映画人は娯楽人ではないとしみじみ教えてくれ、あれほど映画を熱く語ってくれた人はいません。見事な戦う人生だったと思います。『死してなお戦ってください』と言いたいです。本当にことばにならないくらい残念です」と話していました。
また、映画監督の園子温さんは「先日、韓国のプサンの映画祭で会ったときは、とても元気そうだったので驚いています。自分の映画に出演したもらったこともありますし、とても親近感のある監督だったのでショックです。若い監督たちよりも常に前にいて、前線に立ち続け、誰も立ち入ることができないような作品を撮り続けてきた監督でした。若松監督は『最後の戦う監督』だったと思います」と話していました。
遺作は来年公開
国内外で高い評価を受けてきた若松監督は、今月も韓国の釜山国際映画祭に参加。「今年のアジア映画人賞」を受賞したばかりでした。
最後の作品となったのは、ことしのベネチア国際映画祭の出品作で、来年公開予定の「千年の愉楽」。さらに、原発事故をテーマにした次の作品作りの構想もすでに頭の中にはありました。
若松監督は、「戦う映画監督」として社会に強いメッセージを送り続けながら、半世紀におよぶ映画人生を終えました。