今日は娘の誕生日です。思えば今年の5月23日の長女の誕生日に贈るものがなく、「中村家の歴史」を示したのが私の狭山茶や狭山地区の歴史研究の始まりでした。
明治22年に私の曽祖父は初代の元狭山村村長になり、その後入間郡会議員を四期務め、郡会議長としても活躍してきた「名家」であり、あなた方はそのDNAを受け継ぐ者である、という内容を、美辞麗句を用いずに事実に基づき文章で伝えました。
その後、私は一つの大きな疑問を抱くようになりました。それは、なぜ中村家12代の曽祖父は31歳の若さで初代村長になれたのだろうかという疑問でした。このことが出発点になり、曽祖父の父である中村家11代は、相当な政治力を有していたのではないかという推論に結びつきました。その後のことは、このブログに記してきた通りです。
以前にこのように記しました。
<転用開始>
入間市博物館ホームページが示す狭山茶の歴史はこういうことです。
◇茶祖栄西禅師が鎌倉時代初期に茶を仕入れた。
(それから約150年後)
◇南北朝時代の書物に河越茶が登場する
(それから約450年後)
◇戦乱によって荒廃した茶産地を吉川氏などが努力して復興した。
これだけです。さらにいけないのは、茶が何の目的で栽培されてきたのかが、全く記されていません。
その理由は、すべてこの本を「丸飲み」しており、歴史を研究していないからです
<中略>
必然性とは
◇禅の修行には茶が欠かせない。
◇鶴見の総持寺など禅寺用の茶を京都でつくり運ぶ理由が無い。
◇鎌倉を中心とした東の国で茶や梅干しなど、禅寺必需品を生産する必要がある。
◇禅寺が存在する以上「茶禅一味」は必然である。
<中略>
連続性とは
◇鎌倉幕府は、茶祖栄西禅師などが育てた茶を狭山の地で生産させた。
◇禅寺が衰退する理由がないし、戦禍に巻き込まれる理由もない。衰退したという史実を記したものを見受けることはできない。
◇禅寺必需品の「狭山茶」の生産は続けられた。
◇茶場碑がある出雲祝神社には、北条家や徳川家が神社に対し社領や朱印十石を与えた由緒がある。時の政権の天領地の禅寺用の茶の生産が「復興」を必要とするほど衰退していたとは到底考えられない。
◇よって1800年代の「復興」とは、禅寺用以外の茶の復興の可能性を否定できない。
◇元狭山村は天領地(幕府領)であり、同じ天領地である青梅の梅干しや秩父の桑(火薬も作っていたと地元の方から教えていただいた)同様に、茶を作り続ける使命があった。それは、鎌倉時代から連続する使命であった。
<転用終了>
2012年08月10日
「狭山茶の歴史」間違いのもとを発見
http://dream333.seesaa.net/article/285892660.html
これらの事実から現在狭山茶の起源とされている「川越茶」と禅寺用の「いにしえの狭山茶」は、ルーツが異なるものであるという結論を私は導き出しました。
鎌倉時代以降、禅寺用の茶の生産や青梅の梅干しと秩父の桑の物流の「要所」であった入間市の二本木「宿」に今でも製茶業を営む「中村家」は存在します。
時は中世にさかのぼります。誇りある「平家」の名を捨て「中村」を名乗り源頼朝や北条家に忠誠を尽くした「中村家」が確かに存在しました。北条家が陣を構えた現在の小田原に「中村原」を与えられ、「土屋家」「二宮家」「土肥家」などを輩出しました。
「キセル」ではないですが、連続性の見地から考えると最初(中村家誕生)と最後(茶師中村の近代から現代)の部分の間が必ず存在しなくてはなりません。
中世から近世、近代の間の「いにしえの狭山茶」はどのようなものだったのでしょうか。私の見方を披露したいと思います。
最初に行わなくてはいけないことは、固定観念の打破です。私たちの頭脳には、整然と列をなすかのように栽培されている茶の木原があります。それをまず消してください。
次に考えることは茶の木とは「ツバキ科ツバキ属」に属する植物ということです。よく、狭山茶は北限と言われますが、入間市博物館も「産地としては北限」と表しています。ツバキはどうでしょう。言うまでもなく北海道を除く本州全土に植生しています。
これらのことから思考を進めていくと、「間違いなくこうだ」という確信を得ることができました。それは、中世から近世にかけての茶園は、私たちが目にする茶園とは全く異なった茶園であったということです。
生産地としての北限論には理由があります。それは主に寒波襲来により茶の木の茶葉収穫部が枯れることと、遅霜です。
私は、約30年前にスリランカを訪れ、セイロンティーの産地ヌワラエリヤの茶園の様子を見ることができました。
それは、日本の「バリカン」方式とは異なり、女性たちが籠を背負い手つみで茶葉を収穫するというものです。
私は、日本の中世から近世にかけての茶園は、現在のような茶の木原ではなく、そう、ツバキの木の集合体のような茶園であったに違いないと思うようになりました。そうすれば、寒さや遅霜で大きなダメージを与えられなくて済むからです。
もう一つ、現在の狭山茶の収穫は、5月と7月の二回です。その間に伸びた茶葉は切り落とされます。
中世から近世にかけて狭山地域で生産された茶は、禅寺用のものでした。私は、春から秋口まで、毎日のように村人総出で伸びた茶葉を摘み取り、一葉も無駄にせずに茶に仕上げていたものと信じて疑いません。
私が子供のころには「お茶休み」といって学校が休校になりました。総出でお茶つみを支援するためです。
中世鎌倉時代から、近世、近代へとこのような風習は続いたのでしょう。
ヌワラエリヤの人々同様に笑顔のなかでお茶つみを行う、いにしえの人々の姿が目に浮かんできます。
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