日曜夜の定番
大河ドラマ
1963(昭和38)年4月7日、
その後“大河ドラマ”といわれるようになる大型時代劇『花の生涯』がはじまった。
この番組は、テレビの放送開始10周年を記念してNHKが総力をあげて取り組んだものだった。
'87(昭和62)年に放送した『独眼竜政宗』は、歴代最高の人気をはくし、
大河ドラマに一時代を記した。『独眼竜政宗』('87年)20代の渡辺謙
幼少時代の梵天丸の口ぐせ「かくありたい」は、流行語にもなった。国民的美少女、後藤久美子も出演。

page 1 2

テレビ進化論10
テレビの意地を見せた

放送開始10周年記念

1963年はテレビ放送開始10周年の年だった。前年'62年、NHKテレビの受信契約が1000万件を突破し、テレビは、日の出の勢いだった。

当時のNHK芸能局長の長澤泰治が「映画に負けない日本一の大型娯楽時代劇を作りたい。日本中の大スターを集めて来い!」と大号令を出した。映画界は50年代に黄金期を迎えていたが、テレビを将来の敵とみなして、東宝、松竹、大映、東映、新東宝が、「テレビに映画を売らない、専属俳優はテレビに出演させない」という項目を含む「五社協定」(その後日活も参加)を結んでいた。だから大物の俳優は、みな許可なくテレビに出演できなかった。そんなわけで、「いくら局長がいっても、無理だ」とスタッフたちも、まず思ったそうだ。

映画界の壁を崩した豪華キャスト

選ばれた第1作『花の生涯』は、幕末の大老井伊直弼を主人公にした舟橋聖一原作の作品だった。そんないきさつがあるから、制作担当の合川明、大原誠らは、まず歌舞伎の世界に活路を求めた。松竹の中でも、歌舞伎は映画部ではなく、演劇部に所属していた。まず、尾上松緑が「舞台は休めないが、やってみよう」とOKをくれた。次は、松竹の当時の大スター佐田啓二にねらいを定めて、アタックした。佐田は、いろいろな事情をのみ込み、ロサンゼルスの友人に手紙を書いて、アメリカのテレビ事情を尋ねたそうだ。アメリカの映画界も、当初はテレビに非協力的であったが、このころにはすでに映画会社がテレビ映画の制作を開始していた。その友人は「今後はテレビは、娯楽の頂点に立つだろう。協力してみたら」と返事をした。結局、佐田が承諾して、五社の専属俳優も、次々出演を承諾し、夢のキャストができあがった。

日曜夜8時の定番に

第1作は、'63年4月7日の日曜夜8時45分からの45分番組として放送された。また番組が年明け早々1月開始になるのは、第2作『赤穂浪士』からで、これ以降、「暦年で年1作」の周期になった。放送時間は、いろいろその後試行錯誤したが、夜8時開始となるのは'70年の『樅ノ木は残った』からであった。

吉良邸討ち入りの回は53%の史上最高記録

第2作の『赤穂浪士』は、映画、歌舞伎、新劇界などからスターを集め、第1作以上の豪華なキャストを組んだ。平均視聴率は31.9%と大成功を収め、特に吉良邸討ち入りの回は53.0%に跳ね上がった。この最高記録はいまも破られていない。

page 1 2
前へ次へ