昨年、日本で初めて原子力発電所が爆発した。3月12日午後3時36分、福島第一原発の1号機で起きた水素爆発だ。その瞬間を日本テレビ系列の福島中央テレビ(FCT)の無人カメラが撮影していた。一瞬にして白い煙が四方に噴き出し、建物が飛び散る。人類の歴史上、初めて「原発が爆発する瞬間」をとらえた映像だった。
福島のテレビ各社は原発を24時間監視するハイビジョン仕様のカメラを原発近くに設置していたが、いずれも大地震の揺れで使用できなくなった。福島中央テレビが原発から17キロ地点に予備で残していた旧式のカメラだけが機能した。
この映像を見た福島中央テレビ報道部の幹部やスタッフは、ただならぬことが起きたと判断。4分後にローカル放送で映像を流して「福島第一原発の1号機から大きな煙が上がった。その煙は北に向かって流れている」と伝えた。テレビで映像を見た行政関係者や住民は衝撃を受け、避難の判断にも影響を与えた。
映像は、東京キー局の日本テレビへもスルーで配信されていた。福島中央テレビのデスクは日本テレビ側に電話して、「大変なことが起きた。すぐに全国放送してほしい」と要請した。
しかし、日本テレビがこの映像を全国放送したのは、発生から1時間14分も経過した午後4時50分だった。
緊急時に住民の命に直結する貴重な映像の放映が、これほど遅れた事実。テレビ業界でもあまり知られず、議論の対象にもなっていない。当のテレビ局や系列内でも同じ状態だ。
原発事故の後、自分たちの初期報道が適切だったのかどうか。検証を行うテレビ報道がほとんどないなか、それを自問し検証した数少ない番組がある。福島中央テレビが制作した「原発水素爆発、わたしたちはどう伝えたか」(昨年9月と12月にシリーズで2回放送)だ。
それによると、福島中央テレビがキー局の日本テレビに爆発映像の全国放送を要請した後、日本テレビでは、報道局の幹部が「何が起きたかまず分析しろ。はっきりするまで放送を待つ」という指示をしていたという。「分析した上でないと放送する意味がない」と日本テレビ・ニュース編集部長が同番組内で語る。
一方で、福島中央テレビの報道部長は「原子力緊急事態宣言が出されているなかで、地元のテレビ局としてはあの原発構内で起こったことは、些細な出来事でも異常があればすぐさま報じるべき」と、ローカルでの放映を続けていた。
福島中央テレビに遅れること1時間10分、初めて東京のスタジオから爆発映像が全国放送された際、解説した東京工業大学の教授は「爆発ではなく、意図的な爆破弁の使用」という「分析」をしてみせた。アナウンサーがその情報を繰り返したが、今の時点で判定すれば、1時間以上分析した末の解説はお粗末なものでしかなかった。
爆発映像の放映が1時間以上も遅れた理由は、一般視聴者には説明されていない。朝日新聞が連載「プロメテウスの罠」で書いたのが全国メディアで報じられた唯一の事例だろう。記事の中で日本テレビ広報担当副部長は「何が起こっているのか、その分析がない中で映像を流すと、パニックが起こるのではないかと危惧した。映像を専門家に見てもらい、解説を付けて放送した」と説明している。これに対し、早稲田大学大学院の伊藤守教授は著書で「放射性物質の飛散による住民の影響を考慮するなら、一刻も早い報道が求められていたはずである」と疑問を投げかけている(平凡社新書『ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか』)。
●全国放送を1時間以上遅らせた判断は正しかったのか
筆者も伊藤教授と同じ意見だ。
「福島第一原発をとらえるカメラが、爆発のように見える異常な状況を撮影しました。何が起きたのか、現在、分析しています」と、確認中であることを断って放送すべき事案であった。結果論だが、映像をいち早く放送することで、専門的な知識を持つ人や政府関係者、あるいは住民にも事態が広く「共有」され、状況の把握や避難に関する判断がもっと早くできた可能性がある。日本のメディアは全般的に「共有」の発想に乏しい。
なぜ放送が遅れたのか。その判断は結果的に正しかったのか。間違っていたなら今後はどのような判断基準を持つのか。それはきちんと検証すべきだ。同じような事態が起きたら、と考えるともはや一企業の問題ではない。住民の命や健康を守るための報道について、テレビが対応できているのかという公共性の高い事柄だ。日本テレビは公共的な報道を担う者として説明責任を果たすべきだ。
1号機に続いて3月14日には3号機も水素爆発。15日には4号機で水素爆発が起き、2号機からも衝撃音が発生したという情報が駆け巡った。15日は濃い霧が発生していたため、福島中央テレビのカメラには何も映っていない。一方、14日の3号機の水素爆発では、火が噴き出す様子や、黒煙がかなり上空まで上がっていく様子が記録されている。つまり史上初の原発の爆発映像は1号機と3号機に関して存在する。映像の著作権者は福島中央テレビだ。
このため現在まで、爆発映像の使用は日本テレビ系列だけに限定されている。原発爆発直後には、海外の放送局から映像購入の依頼が殺到した。結果として海外のニュースでは爆発映像が溢れ、それがネットにもアップされた。逆に国内では日テレ系でしか流れなかったため、ネット上で一時、「日本のテレビは意図的に爆発映像を隠している」とのデマが流れた。
例外として日テレ系列以外で爆発映像が放映されたのが、昨年6月のNHKスペシャルだ。この時、NHKは映像使用料を払った上で、画面に福島中央テレビ撮影のクレジットを入れて使用している。このように他のメディアは購入するという形で映像使用できる可能性はあるが、値段や売るかどうかの判断は福島中央テレビ−日本テレビ側が握っている。
原発事故からすでに1年以上が経過している。そろそろ爆発映像の公共性を真剣に考えても良いのではないか。具体的にいうと、「爆発映像」を一つの系列の利用や所有にとどめずに、他のメディアにも開放するべきだ。特に福島ローカルでは、各局が原発事故に関連するニュースを連日放送している。もし福島中央テレビと日本テレビが爆発映像の著作権・独占使用権を放棄し、他系列に無償で提供する先例を作れば、この映像の利用はもっと広がるはずだ。
秋田県立大学の鶴田俊教授は、様々な爆発のメカニズムを検証する研究者の一人だ。爆発映像の解析を研究対象とする彼は「こういう貴重な映像は専門家が自由に使えるようにすべき」と語る。爆発映像を解析すれば、わかってくることは多いという。たとえば原発の建物がどのように破壊されたのかを細かく見ていけば、原発内のどこから、どんな力が働いたのかが推測できる。現在も人間の目では確認できない場所が多い原発内部を把握する手がかりになりうるというのだ。様々なレベルの事故調査委員会への提供という選択肢もあるだろう。
●社会全体のメリットを無視し「公共化」を阻むものは何か
人類の歴史上、唯一の爆発映像は、特定の会社や系列だけの「所有物」でなく「公共財」だといえる。公共化=著作権放棄すれば、国内だけでなく海外を含めた多くの専門家による映像の解析が可能になる。また、原発爆発という事態の生々しさを伝えられる映像を使うことで、国内外のテレビ局などの報道の幅も広がっていく。映像の開放によって社会全体が得られるメリットは極めて大きい。前出の伊藤教授も「その映像は、日本テレビが独占すべきものだったのだろうか。むしろ、誰でもが見ることができる公共財ではなかったか」と指摘する。
福島中央テレビは先日、報道制作局がこの映像撮影の功績を認められて日本記者クラブ特別賞を受賞するなど社会的な評価をすでに得ている。となれば映像の開放に踏み切らない理由が見当たらない。福島中央テレビの関係者から、映像を社会全体に活用してもらいたいという意向を聞いたことがあるが、キー局との間で調整がつかないのだろうか。いったい、公共化を阻むものは何なのか。
映像の公共的な利用を阻む最大の要因を、筆者はテレビ局における「公共性」意識の欠如だと考える。テレビ局にとって、独自映像は商品でもある。手放すことへの抵抗感があるのは想像に難くない。損得勘定や他社への競争意識、「他社への提供の実例を作ると歯止めが利かなくなる」恐れや保身意識などがあるのかもしれない。
ジャーナリズムの重要な一翼を担っているのに、テレビ局では「公共性」に関する議論を職場で交わすことが滅多にない、というのが筆者の乏しい経験からくる実感だ。業務が細分化され、「他社に負けない」という競争意識は強くても、全体を見渡して「公共のために」「系列を超えて共同で」などという発想には乏しい。「会社」や「社益」が強調される場面が多く、その意識は「内向き」だ。
筆者がこの春、テレビ局を退職するに至ったのも、そういう内向きの理屈が優先され、ジャーナリズムの公益性の議論が置き去りになっている現状に、限界を感じたことが大きい。
原発事故後、筆者が担当することになった事故検証のドキュメンタリーの企画会議で、番組の最高責任者はこう発言した。
「制作にあたって同じグループである系列新聞社の『社論』を逸脱しないよう……」
人事権を持つ上司から反論を許さぬ激しい口調で言われ、業務命令として受け取った。30年におよぶ民放テレビの報道記者・ドキュメンタリー制作者としての人生で、本格的な取材に入る前の段階で「結論」や「方向」をあらかじめ指示されたのは初めての経験だった。
一般的には、資本的に同じグループであっても、新聞とテレビは別個の企業だ。テレビが新聞の社論と歩調を同じにする、という経験を筆者は経験したことがない。もし同一にするなら、テレビの編集の独立性という観点から放送法上も問題だ。新聞の社説にあたるものがないテレビで、社論のような統一見解が問題になることもおよそない。むしろ多様な意見を示すのが原則だ。公共性が非常に高い原発事故の検証ドキュメンタリーを作る段階での「社論」の指示。一般の視聴者に伝えるというよりも、社内(あるいはグループ内)の視聴者を意識する、内向き姿勢が目立った。
●「爆発映像」の共有化で公共性重視のテレビ報道へ
原子力は、報道ドキュメンタリーにとって昔からデリケートなジャンルだ。せっかく公共性の高い番組を制作しても、内向きの理屈が流れを断ち切ってしまう歴史が繰り返されてきた。特に地方局ではその傾向が強い。
過去には、広島テレビ制作の「プルトニウム元年」シリーズ(1992〜93年放送)が世間の高い評価を受けながらも、電力会社からの圧力と内向きの理屈で、制作者たちが次々に異動させられる結末を招いた。もっと前には青森放送の「核まいね」シリーズが同じように終了した。ドキュメンタリーで原子力を扱った結果、電力会社やその意向に神経質な営業部門などと緊張関係が生じ、その後、問題そのものに批判的に触れるのが難しくなった事例も実際にある。
地方の民放局にとって電力会社や電事連は最大級のスポンサーだ。ローカルでレギュラー番組を提供し、数千万円の予算の特番を提供するなど、大事な客だ。番組を「降りる」と言われるのは死活問題。多くの局で番組審議会に電力会社の役員が入っていることでも、その顔色をいかに気にしているかわかる。「社益」を考え、電力会社の意向を先取りして「内向きの理屈」で報道を加減してしまう幹部も出てくる。
しかし、福島第一原発事故ではっきりしたことは、テレビ報道の不作為責任もまた重いという事実だ。電源喪失に関する指針の甘さやシビアアクシデント対策のいい加減さなど、警鐘を鳴らすべきポイントはいくつもあったのに報道してこなかった。怠慢のそしりを免れないが、テレビ報道の現場における公共的な役割意識や使命感の欠如がもたらしたものだと感じている。だから二度と間違えないように、内向きの理屈ではなく視聴者の側を向いて、公共性を重視して報道していく覚悟が必要だ。
その意味では、原発の爆発映像の著作権を放棄して、他のメディアや研究者らが映像を自由に使用できるようにする、つまり映像の公共化・共有化をはかる、という道は、放送局が社益から離れて、公共目的のために役割を果たすという先例を作る。それはテレビにかかわる人たちや外の人にも映像の公共性を意識させる絶好の機会になるはずだ。
内輪で抱え込むのではなく、社会全体のために開いて、いろいろな知恵に役立てていくテレビ報道。地味かもしれないが、そうした積み重ねが、いま閉塞し、信頼を失っているテレビ報道を変えていく。
福島中央テレビと日本テレビには、ぜひ公共性を考えた英断を望みたい。(「ジャーナリズム」12年7月号掲載)
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ジャーナリスト・法政大学社会学部教授。1957年生まれ。民放地方局、民放キー局でテレビ報道に携わり、海外特派員、ドキュメンタリー制作、解説キャスターなどを歴任。3月にテレビ局を退職して4月から現職。主な番組に「原発爆発」「行くも地獄、戻るも地獄」など。主な著書に『ネットカフェ難民と貧困ニッポン』など。
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