2000/4/17 第75号
「お棺の中を撮影させてくれますか」

モラル、自浄力を失ったメディア

—京都・児童殺害事件の報道—

 

 去年一二月、京都・伏見区で小学校の校庭で遊んでいた児童が刃物で刺され死亡する事件がありました。現地では大量の取材陣が詰めかけ、住民は事件そのものへの対応よりも、凄まじい報道被害に対して時間を割かざるを得ない状況でした。

 事務局では地元の人たちと連絡を取り、三月、京都の現地を訪ね、深刻な報道被害の実状をお聞きしました。現地調査に参加した中谷氏の報告です。


参加者の報告

 三月八日、人権と報道関西の会メンバーで日野小事件の取材・報道について聞き取り調査を行った。京都市立日野小学校内の「ふれあいサロン」には、上野修氏(日野学区社会福祉協議会会長)、岸本英孝氏(日野小学校PTA会長)に、メディアの取材に対応した数名が加わり、およそ十名の方から話を聞くことができた。ニュースや記事からはうかがい知ることのできない「現場」の問題が次々と語られた。

 小学校で事件が起き、子供や地域の人と協力しなければならない中、十ある力の八をマスコミ対策に費やした。以前に報道機関の取材に対応したPTAからのアドバイスは「マスコミ対策が一番大切。名簿はすぐに流れ、写真も流れる。これを何とかしなさい」というものであった。

 亡くなった児童のお通夜に約百人の記者が集まった。住民とPTAの関係者が三十分以上頭を下げ続け、やっと何人か下がった。また、あるインタビュアーが「お棺の中を撮影させてもらってもよろしいか」と聞く。「今日クリスマスでしょう。クリスマスプレゼントを入れはるのを撮影したい」と言う。警察官が「お前ら阿呆か」と叱りつけた。

 告別式でも、記者が集まってきた。四九日の法要にも記者が集まった。何をしに来たか聞くと、「他社が来ていないか心配で来ました」という答えが返ってきた。

 メディアにはメディアのルールがある。撮影場所を一番に取ったら、後から来た人が前で放映するということは絶対にない。見事なルールだが、取材相手にはこういう配慮は全くなかった。

 現場検証の際、警察が青いシートを張り巡らす中、新聞もテレビもシートの隙間からカメラを突っ込み、塀より高い脚立を立てた。子どもたちが撮影されると思い、「やめて下さい」と頭を下げると、今度はカメラマンが乗るためのクレーン車が来た。

 夜中でも家の呼び鈴を何十回と鳴らす。同じ事を聞くために、六十人の記者が六十回取材を求める。

 「各社が相談して一人だけが聞くことにして、それを回し読みすることはできないのか」と記者会見で要望した。

 日野学区は冬休みというのに外で遊ぶ子供が一人もいない、という記事があった。「犯人がまだ見つからない中、みんなが怯えて家に籠もっていたのは確か。でも、犯人よりも記者が恐い。カメラを背負った三人ずつのグループが何十人とうろうろする。誰も外に出ないのは当たり前です」。

 

 地域住民が日野小事件で取材・報道してほしいことは「この二ヶ月の間にあったこと、その対応を報道してもらうこと」である。 

 その報道がなされてこそ、社会全体の教訓になるのではないか。「彼らがやったのは探偵ごっことしか受け取れまへんな」—地域の人が望むのは探偵ごっこの成果でないことだけは確かである。  

(中谷)


 以上の報告にあるように、大規模かつ集中豪雨的な取材・報道が繰り広げられ、またも深刻な報道被害が起きたことがわかりました。現在までの調査で判明したメディア取材の問題点について指摘しておきたいと思います。

 

1 地域の人々の生活を不当に脅かし、同時に恐怖心を与えた問題

 

2 子供の心の傷を更に広げたという問題

 

3 取材が適正な捜査をさまたげたのではないか、という問題

 

 どれも深刻な報道被害であり、取材の方法、報道姿勢に問題があると言わざるを得ません。

 本来は国民の知る権利に奉仕すべき言論・報道の自由が、結果的に力のない一般市民イジメに使われたことは問題です。

 またこのような状況下で、数多くの誤報、デマが流されましたが、メディアは訂正、謝罪の報道は行わず、さらには児童や住民らの報道被害はほとんど伝えていません。

 

4 報道被害の多様化

○ 容疑者に対する取材

・高校時代の写真が出る。友人のインタビューも流される・・・など

・実名報道の問題(「犯人だから何を報道しても許される」という態度。無罪推定の原則に対する配慮もない)

      

○ 被害者の問題

・被害者のプライバシーもさらされた。

・メディアの中には「被害者と加害者とされる側とを対立」させる論調が目立った。今回の場合、被疑者が死亡してしまったため、遺族の「無念さをはらす」ために、必要以上に被疑者のプライバシーをさらし、糾弾する姿勢が顕著だった。果たしてそれが被害者のためと言えるのだろうか。

 

○ 地域の報道被害

・報道被害の問題がこれまでの被害者・加害者と言った直接の当事者だけでなく、地域全体に広がってきています。阪神淡路大震災、神戸・須磨の少年殺害事件、さらには和歌山カレー事件に見られるように地域全体に報道被害が及んでいることが近年の特徴です。

 

 事務局としてはこれらの報道被害に対して、今回の日野小地域での住民の体験をもとに事件が発生したら「どんな報道被害が起きるのか」「現実に報道被害が起きたら、どうすればいいのか」などの点で報道被害マニュアルを作るなど、現実的・具体的な方法、行動を提起したいと考えています。皆さんのご協力をお願いします。(関屋)


◇事件の経過◇

99/12/21  日野小学校で児童が殺害される。(京都市伏見区)当初は「男は小学生から中学生ぐらいで、身長160センチ前後。」(朝日新聞12/22)の情報が流れる。

12/22  「犯行声明」と見られるメモが紙面に掲載される。

12/23  児童の通夜

12/24  葬儀

12/29  児童立会いのもとで警察の実況見分

12/30  「防犯ビデオに不審な男、10−20歳前後」(朝日記事)

00/01/11  日野小、始業式

02/05  公園で事情聴取を受けていた男性が捜査員を振り切って逃げ、その後、高層階から転落死する。

03/18  被害者の父親が「このような犯罪が二度と起きないように」などと心情を吐露したファクスをメディアに送る。

03/22  京都府警が容疑者死亡で書類送検。


 最近、マスコミ志望の大学生たちと話す機会が相次いだ。就職戦線もたけなわ、試験の時のよもやま体験を聞きながら、犯罪報道の在り方についても意見交換した。

 「事件報道でも人を傷つけないように取材するべき」「社会性のない事件に力を入れすぎだ。もっと力点を置くべきテーマが他にあるはず」。こうした趣旨を彼らは繰り返していた。素直な感受性だと思った。 

 私は今春、記者生活十年目を迎えた。就職活動をしていたころ、私も事件報道の問題点を明確に指摘できる歯切れのよさを持っていた。問題と感じる気持ちは今もある。

 しかし事件取材を重ねるうち、現在のシステムが簡単に変わらないであろうこと。同僚には問題だと感じない人も多いことを知った。「今のままでいいんだよ」と言うようになってしまうのではとの危険性を自分に感じている。記者を志した時の動機、原点を自分は忘れかけているのでは?彼らと話しながらそう思うと共に、問題意識を持続させる大切さと困難さを改めて感じた。

 マスコミ志望の皆さん!就職活動を頑張って下さい。

 志望を実現させた時には、一番最初に感じたままを大切にして私たちと一緒に厳しい道のりを頑張りましょうよ。

(佐々木修一)


メディア時評 �

 議論を呼ぶ少年の刑事事件報道

  メディアのアンケートに答える!

 

■昨年四月、山口県光市で起きた一八歳の少年による行きずりの母子殺人事件について、三月二二日、山口地方裁判所で無期懲役の判決が出た。各メディアは、コメンテーターを使ってこの判決の当否を批評した。少年法のあり方について厳しい意見があいついだが、依然として、被害者の人権よりも加害者の人権が尊重されているという、まさに加害者か被害者のどちらを保護すべきというような議論がまだまだ根強い。   

 この判決に先だって、日本テレビ「ザ・ワイド」から、取材として左記のようなアンケートを受けた。きちんと意見を述べなければいけないと思い、回答した。先般、堺の少年の刑事事件で大阪高裁が、少年法六一条を無力化するような判決を出したこともあり、ここに掲載させていただいてみなさんの議論の材料としたい。(前回のこの欄で、名誉毀損、プライバシー侵害記事を掲載した出版社の取締役の個人責任について分析すると予告しましたが、急遽内容を変更しましたのでご了承ください。)

 

質問1

 現在、多くの犯罪被害者(遺族を含む)から声があがっている、「加害者保護が優先されて被害者側の権利が希薄である」という意見。そう思われますが?

� 思う �思わない �どちらともいえない

 

質問2

 �・�・� いずれの回答もその理由をお教えください。

 

質問3

 今回の山口母子殺人事件では「刑事裁判として法廷が公開されたにもかかわらず、被告が少年であることから匿名が原則とされているのは矛盾している。」との意見が遺族からあがっています。この意見をどう思いますか?

 

回答

■質問1について

 �どちらとも言えない。

 正確には、「被害者側の権利が希薄である」という指摘は正しいですが、「加害者保護が優先されてきた」というのは誤解です。

 

■質問2について

 これまで、犯罪被害者がないがしろにされてきたことは確かだと思います。しかし、同時に、加害者保護が優先されてきたというのも誤っています。この問題を考える際に忘れてならないことは、加害者が加害者であることをもって保護されるというシステムは存在しないということです。

 憲法や刑事訴訟法などには、被疑者、被告人(加害者と決まっているわけではない)を法的に保護する規定があります。少年法六一条の規定もその範疇にはいるでしょう。それにもかかわらず、被疑者・被告人という立場の人たちが、刑事手続において十分な手続保障を与えられず、また、えん罪に苦しむ人たちも多数いました。質問のような声が大きいとすれば、犯罪被害者が社会から疎外されてきたことの不満が、加害者が保護されているという非難の形でしかはけ口が見いだせない結果ではないでしょうか。犯罪被害に対しては、社会全体がその被害を受けとめ、被害者になった人の犠牲をいくらかでも社会全体で軽減していくことが大事だと思います。そのような施策が足らなかったことは事実です。

 いずれにしても、加害者と被害者のどちらを保護すべきかというような対立構造で問題をとらえ、被害者を実質的に守ることをせずに、加害者あるいは加害者であるとされる人の最低限度の人権すら守らない社会がいいとは決して思いません。

 

■質問3について

 遺族の人が、犯人に対する憎しみから、法的な面だけでなく、あらゆる面で、厳しい処置を望む気持ちはよくわかります。自分がその立場だったらと想像すれば心情は理解できます。自分も同様の気持ちになるでしょう。

 けれども、そのような個別の事件の遺族の気持ちをそのまま実現することは報道の真の役割ではないと思います。

 この議論をはじめると、とかく、実名を出す、出さないで加害者を保護するか被害者を保護するかという薄っぺらな議論になってしまいます。仮に、加害者であることが明確な場合でも、氏名を公表したところで、被害者にとっては、なんらの補償にも、慰謝にもなりません。社会全体がその被害を受けとめ、被害者になった人の犠牲をいくらかでも社会全体で軽減していくことが大事だと思います。そのような社会にしていくのが報道の役割のひとつではないでしょうか。犯人の実名を載せて社会的制裁を加えるのは、それを望む被害者がいるからといっても、なんら被害者救済システムにはなりえません。

 刑事法廷が公開されているのは、裁判を受ける人のために、きちんとした審理が行われているかをチェックするためにあります。また、市民として、何が行われているかを知るためでもあります。しかし、そのことと、全国にそのまま報道することとは質的、量的違いがあります。裁判を受ける人が望めば別ですが、そうでない限りむやみに実名が報道されるべきではないと考えます。

 また、被疑者、被告人イコール「加害者」であるとは限りません。 加害者であるか否かを確認する手続が刑事訴訟なのです。この局面を、加害者と被害者の対立構造と考えるのは正確ではありません。報道による悪影響が甚だしいことは明らかで、少年以外の刑事被告人についても、実名で報道されない権利があると考えるべきです。そして、それは被告人だけに与えられた特権ではく、被害者も同様にむやみに実名で報道されない権利があると考えられます。少年については、特に社会復帰への配慮という精神から、少年法に明示されていますが、それはそれで大切なことです。矛盾を感じるとすれば、被害者が当然のごとく実名で報道されることとのアンバランスにあるのではないでしょうか。(木村)


編集後記

 四月一八日(火)に世話人会を開きます。(午後七時、木村事務所) 

テーマは次回例会の内容、報道被害マニュアル作成について、などです。どなたでも参加できます。なお四月一日の例会で上野氏、岸本氏の報告を受けましたが、四月末発行の七六号会報でお伝えします。一般投稿、募集しています。メールでも結構です。

お待ちしています。(事務局)


 このページは人権と報道関西の会の御好意により当ホームページに掲載されていますが、本来会費を頂いている会員に送付している会報です。その性格上2ヶ月毎にこのページは更新されますが、継続して御覧になりたい方は是非上記連絡先に所定の入会の手続きを行ってください。

その他何か御質問がある方はメールフォームからどうぞ 

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