映画監督 若松孝二さん死去10月18日 7時7分
今月、東京都内でタクシーにはねられ、重傷を負った映画監督の若松孝二さんが、17日夜、搬送先の病院で亡くなりました。
76歳でした。
警視庁によりますと、若松さんは今月12日夜、東京・新宿区で道路を歩いて渡ろうとしたところ、タクシーにはねられ、近くの病院に搬送されていました。
若松さんは、頭や腰などを強く打って重傷だったということで、17日午後11時すぎ、搬送先の病院で亡くなりました。
若松孝二さんは宮城県出身で、高校を中退後、さまざまな職業を経て、昭和38年、成人向けの映画の「甘い罠(わな)」で映画監督としてデビューしました。
昭和40年には映画製作の独立プロ「若松プロダクション」を立ち上げ、暴力や性、政治など、社会性に富んだテーマで作品を作り続けたほか、プロダクションからは高橋伴明監督ら多くの映画人を輩出しました。
また、昭和40年、「壁の中の秘事」が、日本からの推薦作品を押しのけて、ベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品されるなど、作品は海外から特に高い評価を受け続けてきました。
近年では、平成20年に「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」がベルリン国際映画祭で最優秀アジア映画賞を受賞したほか、おととし、同じベルリン国際映画祭に出品した「キャタピラー」で、主演した寺島しのぶさんが最優秀女優賞を受賞しました。
若松監督の作品は、ことしのベネチア国際映画祭に出品した「千年の愉楽」が、来年の上映を控えていますが、この作品が最後の映画となりました。
こうした功績が評価され、若松監督は今月、釜山国際映画祭で「ことしのアジア映画人賞」を受賞したばかりでした。
“最後の戦う監督”
若松孝二監督が亡くなったことについて、生前に親交のあった映画監督の園子温さんは、「先日、釜山の映画祭で会ったときはとても元気そうだったので驚いています。自分の映画に出演したもらったこともありますし、とても親近感のある監督だったのでショックです。若い監督たちよりも常に前にいて、前線に立ち続け、誰も立ち入ることができないような作品を撮り続けてきた監督でした。若松監督は『最後の戦う監督』だったと思います」と話しています。
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