(2007/06/17) (3)サッカー王国ドン≠フ誘いに集結 故郷救った三人組頂点に立った島根国体から25年。「ヴィッセル神戸を優勝争いのできるチームに」と誓うチーム統括本部長の和田昌裕さん(右)とU―21GKコーチの石末龍治さん=神戸市西区櫨谷町寺谷、いぶきの森球技場(撮影・辰巳直之)
それは、兵庫サッカー界の「ドン」と呼ばれた人物からの電話だった。 「ほかの二人は決まった。あとはお前だけや」 有無を言わさぬ語り口に、サッカーJリーグ、横浜フリューゲルス(当時)のゴールキーパー石末(いしずえ)龍治(りゅうじ)(42)は「分かりました」と伝えた。今から十三年前のことだ。 一九九三年に発足したJリーグ。神戸に本拠を置くヴィッセル神戸は翌年十一月に準加盟が認められた。下部リーグ(JFL)で2位以内を確保することが、J昇格の絶対条件だ。大幅な選手補強を迫られた「ドン」すなわち、ヴィッセル神戸顧問で兵庫県サッカー協会会長の高砂(たかさご)嘉之(よしゆき)(故人)は、地元ゆかりのJリーガー獲得に動いていた。 ターゲットは「兵庫・高校三羽がらす」。八二年の島根国体で兵庫・高校選抜を初優勝に導いた伊丹北の石末、御影の和田昌裕(まさひろ)(42)、御影工(現神戸市立科学技術高)の永島昭浩(あきひろ)(43)だった。 移籍を快諾し、九五年のチーム始動に合わせて里帰りした石末だが、「ほかの二人」はいなかった。「“高砂マジック”にやられましたよ。でも、もともと生まれ故郷に骨を埋める覚悟でしたから」 J発足三年目。レギュラークラスの移籍が珍しい時代だった。ガンバ大阪に在籍していた和田は「(前身の)松下電器からの生え抜きだったので、ガンバには大事にしてもらっていた。家族には下部リーグへの不安もあった」と打ち明ける。だが、ここでも高砂の言葉が背中を押した。 「お前には島根国体での貸しがある。帰ってこい」 その「貸し」とは―。国体優勝メンバーは当時、高砂の計らいで英国に遠征した。和田らが「優勝したらぜひ遠征に」と懇願したからだ。しかし、全国高校選手権で優秀選手に選出され、高校代表メンバーに抜てきされた和田は同行できなかった。高砂は「全員そろわないと行かない!」と激怒したが、渋々、和田抜きで渡英したのだった。 和田は腹を固めた。五月に清水エスパルスから神戸に移った永島に続き、七月にようやくレンタル移籍が決定した。十三年ぶりに「三羽がらす」がそろったヴィッセルは翌年のJFLで2位に入り、念願のJ昇格を勝ち取った。 サッカー発祥の地・兵庫。「王国復権」に強くこだわった高砂は、神戸への会場誘致に尽力した日韓共催のワールドカップ開幕が迫った二〇〇二年四月、七十四歳で他界した。 現在、和田はチーム統括本部長としてフロントを束ね、石末はコーチとして後進育成に当たる。引退後もチームに残った二人には、共通の夢がある。「魅力あるサッカーを目指し、優勝争いのできるチームをつくりたい」。それが、「ドン」の遺志でもある。(敬称略) 復権目指すピッチのイレブンたち「発祥の地」誇りと、決意と母校の白い時計台をバックにサッカー談議で盛り上がるヴィッセル神戸社長兼GMの安達貞至さん(左)と関西学院大サッカー部監督の加茂周さん=西宮市上ケ原一番町(撮影・大森 武)
白い時計台に、緑鮮やかな芝生が映える関西学院大上ケ原キャンパス(西宮市)。二人の卒業生がサッカー談議に花を咲かせる。 「好きなサッカーを仕事にしてしまったので、逃げ場にできる趣味がないんですよ」 「そうそう。テレビを見ていても、『あの選手が来てくれないかな』なんて思ってしまうもんな」 母校サッカー部を率いる元日本代表監督の加茂(かも)周(しゅう)(67)と、Jリーグ1部(J1)ヴィッセル神戸社長兼ゼネラルマネジャー(GM)の安達貞至(さだゆき)(69)。かつては早稲田大などと日本サッカー界の頂点を競った関学大で、二人はサッカーの基礎を学んだ。「監督や先輩に殴られこそしなかったが、厳しい練習で死にそうになった」。非凡な才覚は、卒業後に開花する。 県立芦屋高卒業後、二浪して入学した加茂が、サッカー部に入ったのは二年から。入れ替わるように卒業し、関西の新興勢力ヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪)に入社した安達は、体格に優れシュート力のある加茂を誘った。ヤンマーは一九六五年に発足した日本リーグに関西から唯一参戦。二年後には日本代表のエース、早稲田大の釜本邦茂(くにしげ)(63)の入社を機に、安達はマネジャー、加茂はコーチに転身し、リーグ優勝や天皇杯などのタイトルをものにした。 寮にサウナを整備し、練習場に芝生を張った安達は後に二クラブでGMに就任、チーム編成で手腕を発揮した。一方、ヤンマー退社後、日産自動車(現横浜F・マリノス)や横浜フリューゲルスで指揮を執った加茂は、日本初のプロ指導者としてタイトルを数々手にする。「関学サッカーは人生そのもの」と振り返る安達。現場主義を貫く加茂は「再び関学を大学日本一に」と誓う。 兵庫県サッカー協会の前身、大日本蹴球(しゅうきゅう)協会兵庫支部が産声を上げたのは一九二七(昭和二)年。だが神戸では、その半世紀以上も前からサッカーが存在した。 一八七〇(明治三)年、居留地に住む外国人が日本最古の総合型スポーツクラブ「神戸レガッタ&アスレチッククラブ(KR&AC)」を設立。翌年には居留地で試合が行われた。八八年に開かれたKR&ACと「横浜カントリー&アスレチッククラブ」の試合は日本サッカーのルーツであり、神戸と横浜は「発祥の地」とされる。 サッカーは外国人から御影師範(現神戸大発達科学部)や神戸一中(現神戸高)などに普及。一九一八年度に始まった全国中等学校蹴球大会(現全国高校サッカー選手権)で御影師範が第一回から七連覇し、神戸一中が続いた。 こうした歴史を背景に、兵庫は「人材の宝庫」となった。 五六年の豪メルボルン五輪代表には、後に代表監督や日本協会会長などを歴任した長沼健(けん)(76)や名古屋グランパスエイト初代監督平木隆三(りゅうぞう)(75)ら多数の関学大OBが加入した。関学高等部からマネジャー一筋の佐々木一樹(かずき)(55)は、加茂に請われて日産に入り、現在はJリーグ常務理事だ。日本協会副会長の大仁(だいに)邦弥(くにや)(62)は神戸高出身。六甲学院高OBの鈴木昌(まさる)(71)は鹿島アントラーズ社長の後、昨年までJリーグ二代目チェアマンだった。 「発祥の地」としての伝統を受け継ぐヴィッセル神戸。昨季終盤から指揮を執る監督の松田浩(ひろし)(46)は「プロ野球もある大都市型のクラブは、強くないと地域に認められない」と覚悟を決める。 ヴィッセル旗揚げに伴い、監督のスチュアート・バクスター(53)とともにサンフレッチェ広島から移籍。チームの始動予定日だった九五年一月十七日、阪神・淡路大震災に見舞われた。神戸市西区の旧練習場は仮設住宅のすぐそば。「こんなときにサッカーなんて…と後ろめたい気持ちがあった」 しかし、それは間違いだった。翌年、J昇格を決め、「スポーツが地域に勇気や感動を与えられることが分かった」。昨年夏、三年半ぶりに古巣へ戻ったが、「帰ってきた」との感慨が胸を熱くした。「ヴィッセルは復興のシンボル。こんな歴史を背負っているチームはほかにはない」 次代を担う兵庫の注目選手は、九七年の大阪国体に出場した平成版「兵庫・高校三羽がらす」だ。 昨年のW杯ドイツ大会に出場した南あわじ市出身の加地(かじ)亮(あきら)(27)=ガンバ大阪=は御原(みはら)中の卒業文集に「決めたことはやりとげる」と記した通りに夢をかなえた。「自分が信じた道を全うするのが成功の秘けつ」と説く。その加地と滝川第二高でチームメートだったヴィッセル神戸の朴(パク)康造(カンジョ)(27)は、尼崎市出身の在日韓国人三世だ。Kリーグでプレーし、韓国代表としてシドニー五輪にも出場した。 姫路市立琴丘(ことがおか)高時代に朴とのエース対決で脚光を浴びたガンバ大阪の播戸(ばんど)竜二(りゅうじ)(27)。「メンバーに選ばれるかどうかが自分には大きかった」大阪国体が、プロ入りのきっかけだった。昨年の国際親善試合で初の日本代表に。気迫あふれるプレーで観客を魅了した。 「サッカー王国」の復権を目指し、“兵庫発”の若い力は着実に成長しつつある。(敬称略) (社会部・大原篤也) |