コンピュータソフトウェア著作権協会(ACCS)専務理事 久保田 裕
 
10月1日から、改正著作権法の一部が施行されました。今回の法改正については、マスコミや専門家のみならず一般の方からも、さまざまな議論や批判が巻き起こりました。著作権制度について耳目を集めること自体は大いに歓迎したいところです。そして、いっときの議論で終わることなく、常に著作権について真摯に向き合う人が増えるきっかけになればと考えています。

しかし、これらの議論の中には、著作権制度そのものを問題視することで、自分たちの違法行為を正当化しようとしていると解釈するしかない主張も少なからず見受けられました。このような、著作物の価値を正当に認めない自己の欲望にのみ視点をおいた考えが広まっているとすれば大変嘆かわしく思います。
今にち、私たちは、新聞や雑誌、本やテレビ、ラジオといったメディアから得られる情報によって、社会や政府、国際的な動向を知ることができます。その情報を元に私たちは国のあり方について考え、決めることができます。更に、映像や音楽、ゲームなどのエンタテインメント作品により、私たちの生活が豊かになっていることは誰もが認めることでしょう。また、これらは雇用を生みだし、クールジャパンとして海外にも輸出されます。
いま挙げた情報というものは、ほとんどが著作権法で保護されており、これに価値を見出さないということは、国のあり方や自分の生活を最終的にはおとしめることになってしまいます。いわゆる海賊版は到底認められません。
大げさな言い方をしたかも知れませんが、著作権というものはそれほど身近にあってかつ重要なものだということを認識して欲しいのです。
 
一方、今回の著作権法の改正に対する批判や議論に接するにつけ、我々のような著作権関連団体がこれまで行ってきた普及啓発活動や、学校における著作権教育が、果たして適切であったのか、という反省もしなければなりません。
今回の法改正に関しては、いわゆる違法ダウンロード行為への刑事罰の付与とコピーコントロールに関する規定の整備という、改正法の一部分だけを取り上げて、著作権に関わる保護が強化されるとの批判がほとんどでした。確かに違法ダウンロード行為への刑事罰の付与について、私個人は時期尚早と考えていましたが、しかし法改正では著作権侵害に対応するための保護の強化だけでなく、国民の利益に資するために、著作権者の権利を制限する、いわば保護を弱くする改正も行われています。例えば、国立国会図書館における図書資料の公衆送信や、写真に写り込んでしまった他の著作物の扱いなどがこれにあたります。このように、法改正は全体とのバランスの中で行われているのです。
ただし、そもそも我々著作権関連団体が、自分たちの団体に関係する部分しか改正法についての情報発信を行っていなかったことにも一因があったのかもしれません。
さらに言えば、違法ダウンロードの刑事罰化については、既に2010年から民事的にはすでに違法であるのにもかかわらず、さも今回の法改正を受けて違法になったかのような議論がマスコミでもユーザーの間でも繰り広げられていたことも大変残念に思います。
そのうえ、今回の法改正に関しての混乱は、一部の専門家や有識者が、改正法の解釈を誤って広めてしまったことも要因だったと思われます。例えば、著作物を読む、聞く、観ること、すなわち著作物へのアクセスについては、著作権の保護対象外であり、自由に行えるものなのです。
 
こうした混乱は、実際のところは今回だけでなく、著作権法改正のたびに見られます。これは何を意味しているのでしょう。
私は、これまでの著作権に関する普及啓発や教育が、著作権侵害を行わないための教育にとどまっており、著作権の正しい理解を促すものとなっていなかったことにも問題があるのではないかと思っています。
著作権法はプロのためだけの法律ではありませんが、以前であれば、著作物の発信や伝達を一般の人が行うには限界があり、長い間、作曲家や作詞家、作家などのプロの創作者や、レコード会社やゲーム会社、放送局などの企業でしか活用されていませんでした。
しかし、ご存じの通りコンピュータなどの情報機器の活用が一般化し、同時にインターネットが普及したことによって、アマチュアでも自らの作品を創作し世界中に発信できる時代になりました。現代は、まさにその意味での一億総クリエイター時代になったと言えるでしょう。一方で、創作される作品のデジタル化が進み、コピーや改変、配信、配布が容易にできる、つまり著作権侵害が容易に行える時代にもなったのです。
そのため、著作権に関する教育や普及啓発活動の内容も、いきおい「著作権は侵害してはいけない」、「何をすると著作権侵害になるか」という情報に偏ってしまい、結果として、著作権法が「やってはいけないルール」とユーザーに思われてしまったのではないかと思うのです。
 
私は、著作権について、現在のルールの妥当性や改正の必要性などを考える際には、著作権の本質についての理解が不可欠だと考えています。
本質的な理解といっても、それほど難しいことではありません。著作権制度の目的は、さまざまな、そして豊かな作品や情報の創造と流通を促進し、文化を発展させるためにあるということです。ですから、著作権制度を一部の著作権産業のためにあるというような視点で捉えると、判断を誤ってしまいます。
著作権法の求める原則は、作品を創作した人はその作品について著作権で保護されており、他人がそれを利用したい場合には、作品を創作した人や権利を持っている人の許可を得て利用すること。これだけです。極端に言えば、「コピーしていいですか」と聞いて「いいよ」と答えてもらうことができればそれだけでいいのです。対価が発生するかどうかは、権利を持っている人の判断に委ねられているのです。決して、禁止規制、すなわちやってはいけないというルールではないのです。
 
私は、ゲームソフトや音楽や映像など、面白く表現豊かな作品の創作を促進し、発掘し、育み、それを広く人々に伝え届けられるためには、著作権法などの法律と、作品の不正な利用を防止し、適正に流通させるための電子技術、そして教育の3つがバランス良く機能しなければならないと考えます。
とりわけ、教育については、私の所属するコンピュータソフトウェア著作権協会では、このような著作権の本質や原則について、学校や企業などに講師として赴き説明しておりますが、今回の法改正に関する議論や意見を見ると、まだまだ道半ばであることを痛感しています。
教育という意味では、なぜ著作権法があるのか、どうして著作権法が改正される必要があったのかについて広く知っていただくことが大切だと考えます。特に、教育者である方々においては、これからクリエイターとなる子どもたちに、著作権の本質についての話をして、子どもたちが著作権について考えるきっかけを作っていただきたいです。
 われわれの協会は、今後とも著作権の本質や原則について普及啓発活動をいっそう進めてまいります。