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石島は独島ではない! 韓国政府は確認ずみ

石島はやはり独島ではなかった!
韓国政府の内部文書で判明

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 韓国に『外交問題叢書第11号 独島問題概論』という資料があります。1955年に韓国政府の外務部政務局が独島問題の政府関係者向けの内部資料として作成したものです。1955年と言えば、1952年の李ライン設定による竹島強奪、同年のサンフランシスコ講和条約発効、1953年には第一大邦丸事件、1954年の日本の巡視船に対する韓国側からの砲撃事件などを経て、韓国の理不尽な態度のために日韓の対立が激化していたころです。


序文
  独島問題をめぐる韓日間の関係を全般的に把握するに当たり、関係諸位の参考に供するため、既発刊の独島問題概論を増補してここに発刊するものです。
  本概論は、韓日両国間で往復された覚書を中心として整理したもので、付録は問題を理解するにおいて正確を期するため原文のまま掲載しました。
  本概論は公表を目的とするものではなく、各在外公館長が本問題を正しく理解し、日本人の不当な宣伝に対備するのに参考になるものと考えて発刊したものであり、多く利用されることを望みます。
  檀紀4288年5月  外務部政務局長 金東祚

(翻訳者注:檀紀4288年は1955年)


 この中に、何となんと、「独島を鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録は無い」という一文があります。
  韓国側はつねづね「独島は歴史的にも国際法上も韓国の領土である」と主張してきており、その重要な根拠の一つとして、1900年に制定された勅令第41号にいう「石島」こそ現在の独島を指すものだ、と主張して来ました。駐日韓国大使館のホームページ「獨島に対する大韓民国政府の基本的立場」にも、「20世紀に入って大韓帝国は、光武4年(1900年)「勅令第41号」により、石島、即ち獨島を鬱陵郡の管轄下におく行政措置を通じてこの島が我が国の領土であることを明確にした。」( http://www.mofat.go.kr/mofat/popup/2008_dokdo/lang/jpn.pdf  )と明言しているのです。(5ページ)


1900年大韓帝国皇帝勅令第41号
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正するの件

第一条 鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等にすること
第二条 郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること



 しかしながら、韓国政府は、1955年時点で既に勅令41号を検討した上で「独島を鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録は無い」と判断していたわけですから、勅令第41号は現在の独島/竹島のことを規定したものではないことを確認していたことになります。

  それにも拘わらず韓国政府がこれまで「勅令第41号の石島がすなわち独島である」と主張して来たと言うことは、すなわちこれは大ウソであり、韓国政府は日本と韓国の両国民を騙して来たことが明らかになりました。


  なお、この資料は私が見つけたものではなく、他の研究者の方が入手されたものです。私はコビーを見せてもらいました。価値ある資料を探し出された方に深甚の敬意を表します。

 次に、該当の項目の翻訳を紹介します。

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『独島問題概論』外務部政務局(1955年)

第一章 独島についての史的考察

第一節 独島に関する古記録

六 鬱陵島開拓と独島

  鬱陵島所属問題が解決した後にも、我が国においては以前のように鬱陵島に人々が入住することを禁止し、隔年に一度ずつ平海郡守あるいは蔚珍県令を派遣して居民の有無を巡審させ、本島所産の大竹、香木、山蔘を採取して可支魚を捕獲した。
  ところで、その後、日本は幕府が倒壊し、いわゆる明治維新があり、幕府時代のすべての禁令を解除したのみならず海外進出を奨励するようになったために、日本人は再び鬱陵島に進出し、鬱陵島を松島と変称し、千古手つかずの欝蒼たる木材を盗伐した。そのため、高宗18年辛己(西紀1881年、日本明治14年)に、我が国政府は日本の外務卿代理上野景範に日省録高宗18年5月癸未同文彙考附属編 一辺禁二立己礼曹判書以禁断蔚陵島伐木事抵外務卿書 外務大輔答書 に見るとおり厳重な抗議をすると同時に、この島を空曠のままにしておくことが国防上疎虞であることに鑑み、5月に副護軍李奎遠を鬱陵島検察使に任命し、島内外の形勢を細密に調査した後に従来の方針を変更し、承政院日記高宗18年辛己6月5日己亥条によれば鬱陵島開拓令が発布され、鬱陵島に入って住む人々を募集した。

  この当時は、丙子修好条規以来、日本人の国内に潜行する事件が漸盛となり、彼らに対する戒厳が徹底されている時であった。これと時を同じくして何百年間も堅く閉じられていた門が開かれるや、江原道沿岸の人々は言うに及ばず、全羅道、忠清道地方からも移住する人々が多く、鬱陵島の山谷は年を追うごとに開拓された。

  翌高宗19年壬午(西紀1882年)8月に鬱陵島に島長を置き、また、翌癸未3月には参議交渉通商事金玉均を東南諸島開拓使兼管捕鯨事とし、白春培を従事として、また鬱陵島の官守を僉使とし、さまざまな角度から鬱陵島の経営を積極化しようとした。金玉均の開拓事業は未だ就緒の前に甲申政変により挫折してしまい、その隙に日本人の鬱陵島侵掠が次第に公然化していった。

  島長は内務部から配置されて島の民政処理に当たったもので、体面維持も困難な程度であったが、光武5年(西紀1901年)に勅令によって鬱陵島を郡に改称し、島長を郡守に改定し、初めて地方行政の一単位とした。独島は記録と実際知識によって早くから知られており、鬱陵島の一属嶼として封禁期においても往来が絶えることがなかったのは前述したとおりで、独島をあえて鬱陵島の行政区域に編入したと宣言する必要もなかったのであり、また、ことさらに公的記録を残す理由もない

  我々の古来の可支島、三峰島、于山等が、従前には海上孤縣の一岩嶼として、問題にしようとしても問題になるほどの事件があったこともなく、それが問題となったのは、日本人の海驢捕獲地として利用してその島根県領として編入したことに始まるのであり、このようになる前に鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録が無いからといって、独島が鬱陵島の郡守の管轄下にあったという事実を否認はできないのだ。したがって、独島を日本領として通告して来るや、光武10年に鬱陵島郡守が「我国所属独島」と記録して中央政府に報告してきたのだ。


     * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *  


 この『独島問題概論』の全文翻訳は、このブログの『独島問題概論』の書庫にあります。次の目次のページでリンクを紹介しています。
  http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/51486053.html

 
 このうち、「第二章 独島領有をめぐる韓日関係」は、そのほとんどが日本政府と韓国政府との間で竹島領有権をめぐってやりとりされた往復文書なので、これまでにも公になっているものです。したがって、「第一章 独島についての史的考察」の部分が新しく確認された資料だということになるわけでして、問題の上の文章も第一章にあります。




  『独島問題概論』目次等の画像
  http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/51566360.html



  第一章第一節六「鬱陵島開拓と独島」部分の 画像
  http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/41364454.html

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この『独島問題概論』は、その附録において政府部内の職員に対してもラスク書簡の存在をひた隠しに隠していたことがバレバレになってしまった、という点でも有名になってしまいました。
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/53894896.html

2012/7/8(日) 午後 11:00 [ chaamiey ]

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韓国が日本より早く竹島を統治していた証拠としてきた大韓帝国勅令第四十一号ですが、韓国側主張は完全に否定されましたね。『太宗実録』同様無視されることになるのでしょうか。それとも厚顔無恥にも日本より早く竹島を統治していた証拠と言い張り続けるのでしょうか。

いずれにせよ日本政府は竹島からの韓国官憲の即時撤退を明確に要求すべきですね。それと条約に依拠する領有主張に基づく紛争は当事国の同意がなくとも国際司法裁判所(International Court of Justice)の管轄権がみとめられるとの法を確立することです。

2012/7/8(日) 午後 11:59 [ Makoto ]

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「鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録が無いからといって、独島が鬱陵島の郡守の管轄下にあったという事実を否認はできない」との主張は論理破綻していますね。「独島が鬱陵島の郡守の管轄下にあったという事実」というやつを証明できないわけですよね。言ってみれば「僕が僕のものと言っているんだから、僕のものなんだい!」ってガキが駄々捏ねているようなもんです。

2012/7/9(月) 午前 0:13 [ Makoto ]

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「光武5年(西紀1901年)に勅令によって鬱陵島を郡に改称し、島長を郡守に改定し、初めて地方行政の一単位とした。」としているのですが、この勅令って大韓帝国勅令第四十一号のこと? だとしたら1900年のはず。自分たちの歴史なのに正確に記述できないのはなぜなんでしょう。この資料が大急ぎでまとめられたものであることをうかがわせているような……。

2012/7/9(月) 午前 0:21 [ Makoto ]

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「独島は記録と実際知識によって早くから知られており」としていますが、「独島」に関する朝鮮の記録は張漢相の『蔚陵島事蹟』(1694年)に、それらしき島影を観たという記述があるのが唯一のもので、記録があるなどと言えるレベルのものではないと思いますけど。

「于山島とは独島の古い呼び方」との認識が韓国では常識化しているようですが、独島と于山島が同一の島だとの証明がありません。「于山島とは独島の古い呼び方」との認識が大ウソだとの証拠が示されていますね。たとえば朴錫昌の『欝陵島図形』(1711年)によって欝陵島の東2キロほどにある竹嶼に「所謂于山島」と表記されていますし、『日省録』の正祖7年5月12日条に「于山島あり。周回二三里ばかりとなす。南、都庄仇味に至る」とあります。一朝鮮里は400mですから、于山島一周800から1200mということになります。この条件に合う島は竹嶼(韓国名:竹島/チクトウ)以外ないんですけど……。

2012/7/9(月) 午前 0:45 [ Makoto ]

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知っているというレベルでは今日の国際法は領有の根拠として認めていません。そういう歴史的な権原はより優位な権原で置き換えられている必要がありました。

1905年の日本への編入は、17世紀以来の歴史的権原を近代的な国際法に則った権原に置き換えるものです。1905年以前に歴史的権原を近代的な国際法に則った権原に置き換える行為を朝鮮がしていたのなら、日本の編入は無効であり無意味となりますが、歴史的権原を近代的な国際法に則った権原への置き換えを朝鮮はしていません。ラスク書簡で「韓国によりこれまで領土主張されたことがあるとは思われません。」とされている所以です。

「1905年頃からは、日本の島根県隠岐島庁の管轄下にありました。」と記していることは、竹島がカイロ宣言でいう日本から取り上げるべき領域に該当しないと認めたということです。ということで、「独島は日帝による強占の最初の被害の地」などというのは妄言だということです。そういう妄言が教科書に堂々と書かれているわけです。これで反日教育をしていないなどと言えるのでしょうか。内政不干渉の原則があるとしても、日本政府は抗議すべきだと思います。

2012/7/9(月) 午前 2:14 [ Makoto ]

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1900年というべきところがなぜ1901年となっているのかはちょっとした謎ですが、まあ、Makotoさんも指摘なさっているとおり、「独島が鬱陵島の郡守の管轄下にあったという事実」だとか「独島は記録と実際知識によって早くから知られており」だとか、何を根拠にしているのか分からない謎の言葉があちこち書いてありますからねえ、適当に書いてあるんでしょう。

2012/7/9(月) 午後 8:06 [ chaamiey ]

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≫鬱陵島郡守が「我国所属独島」と記録して中央政府に報告してきたのだ。
報告はあったものの朝鮮政府が日本に対して抗議や異議を申し立てた事実はない。また朝鮮政府が出した指示は「該島の形便(地理的状況)と日本人の行動をさらに調査し、報告せよ」というもの。なんとも心もとない。地理的状況すら把握していなくて何で統治していたなどと言えるのか。

1900年10月25日の大韓帝国勅令第四十一号の請議書や1906年7月13日付の『皇城新聞』の「鬱島郡の配置顛末」という記事によれば、朝鮮政府は今日の竹島を自国の版図とは認識していなかったのは明らかです。つまり日韓協約によって抗議できなかったのでなく、抗議する必要を感じていなかったので抗議しなかっただけのことです。

2012/7/12(木) 午前 1:38 [ Makoto ]

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昔、「勅令の記述は知られていなかったと判断して差し支えなかろうと考えた」方が居りましたが、今回の投稿にある史料の分析によってそれが崩れましたね
http://take8591.blog82.fc2.com/blog-entry-58.html
http://take8591.blog82.fc2.com/blog-entry-59.html

2012/7/14(土) 午後 5:01 [ gto*r19*8 ]

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もう4年半前の会話ですねえ。このころは何が語られているのか分からないで見ていたような気がします。

しかし、大勢の人の努力で韓国側のウソは何もかも明らかになって来ました。

2012/7/14(土) 午後 7:58 [ chaamiey ]

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初めまして、竹島問題に興味を持っている一中国地方民なのですが、いつも第一級の一次資料を提供して頂き感謝しております。ところで、勅令41号の石島が竹島(独島)でないことは内部大臣李乾夏の請議書に書かれているウルルン郡の範囲からすでに明らかだと思うのですが(こっちより杉野洋明氏の発見した皇城新聞の記事の方が有名な気がしますが)、これには韓国側は何らかの反論をしていますか?皇城新聞の方は政府公式文書でないから無視できるとのことですが・・・
ご教授頂けたら光栄です。

2012/7/20(金) 午後 4:41 [ h2b ]

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h2bさん、いらっしゃいませ。

鬱島郡制施行の請議書についての日本側の指摘に対する韓国側の反論は、見たことがありません。杉野さんが確認なさった皇城新聞の記事の件は山陰中央新報が報道しましたので有名になり、これが韓国側に伝わった結果、シン・ヨンハ大先生とか柳美林などが愚にもつかない反論を書きましたね。

それに対して、鬱島郡制施行の請議書の件はdokdo-or-takeshimaのブログで指摘されたもののマスコミでは報道されていないので、韓国人の研究者たちは請議書についての日本側の指摘を知らないか、あるいは知っていてもマスコミで報道されない限り無視している、といったところだと私は見ています。

2012/7/21(土) 午後 8:35 [ chaamiey ]

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なお、請議書そのものはもちろん韓国でも知られていまして、大先生などは、請議書についても紹介した次に、「大韓帝国勅令41号の石島は独島であると見られる」というふうに涼しい顔で書いていらっしゃいます。

2012/7/21(土) 午後 8:39 [ chaamiey ]

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ご丁寧にありがとうございます。個人的には公文書である請議書の方が証拠能力すなわち韓国への打撃力が大きいと思っているのですが(ICJでは中央政府の公文書でないものはどっちに有利なものであろうと却下されそうですし)・・・正直日本外務省の竹島問題のホームページで請議書や皇城新聞に触れていないのには不満があります。もっとも私も竹島問題に関してはニワカでして、初めて請議書の存在を知ったのは最近見たこの動画でして。http://www.youtube.com/watch?v=bW7BxpUkCoM&context=C36bb371ADOEgsToPDskIDDglGkEGSjqOz-Nrs5b3f
お返事本当にありがとうございました。これからもいろいろ勉強させて頂きます。

2012/7/22(日) 午前 0:39 [ h2b ]

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