竹嶼は韓国が不法占拠している竹島でない
竹嶼 竹嶼(チュクソ、죽서)とは鬱陵島の東約2.2kmに位置し、南北に約700mの細長い島。韓国の最東端(韓国では竹島を最東端としている)である。行政上は慶尚北道鬱陵郡に属する。大韓民国での通称は「竹島(チュクトー、죽도)」。日本の「竹島」と同じ名称になるため混同され易いが、別の島である。
島へ渡るには、道洞からの観光船に乗る。片道約20分。船は波が少しでも高くなると出航を見合わせる。島の周囲は岩から成り立つ断崖絶壁であり、砂浜などはない。船が接岸した後、乗客はらせん状の階段を上がり、島に入る。 竹嶼は、個人所有の土地であり、入場料が必要である。事前に権利者と交渉および前払いをしておけば、キャンプも可能である。 島の中には、女竹(笹)が群生しており、また、芋などの畑が広がっている。この芋をすったジュースが竹嶼の名物である。 なお、海外のwikiでは竹嶼も竹島(独島)も竹の(生えている)島としているが日本側の竹島は松(1)・竹(2)・梅(3)の順番を示したものである。
島の中央部西側には展望台があり、ここからは南は杏南や芋洞や北芋岩が見え、北は観音島관음도、島項、臥達里や其の近くの断崖から流れ落ちる複数の小川が見える。 展望台すぐ近く、北端にある階段を登っていくと、そこは森林が生えている小高い山となっている。
古地図の竹嶼 [編集]
1699年及び1701年、(ただし、韓国側発表によると、日本側が1699年と推測している韓国中央図書館所蔵鬱陵島図形は1867年製作と説明している。)鬱陵島を監督していた鬱陵島捜討官製作の「鬱陵島外圖」には、その位置関係から竹嶼に比定される大于島と、観音島に比定される小于島が描かれている。
1711年製作の「鬱陵島圖形」にも、竹嶼に比定される海長竹田と記された于山島が描かれている。海長竹は女竹(笹)のことで、この島には実際多くの竹が自生している。
李奎遠により1881年に製作された「鬱陵島外圖」には、この竹嶼が竹島として、前述の鬱陵島圖形と同じ構図で描かれている。これらの鬱陵島掃討官が製作した鬱陵島調査地図は4枚確認されており、また捜討官の地図を基に書かれた鬱陵島の詳細図も二十数枚確認されている。いずれも南北に長細い形状をしており竹嶼に比定できる。
1700年代以降の多くの韓国の古地図で「于山島」又は「于山」と記載されている島も、その位置関係からこの竹嶼に比定され、韓国の古文書「日省録」には「鬱陵島の北に于山島があり、周囲は二、三里」とあり、于山島が竹嶼であることが文章でも確認できる。 なお、韓国ではこれら全ての于山島は独島(日本名:竹島)であるとしている。
ヨーロッパの海図や地図に於いては、竹嶼にBoussole RockやOu-sanの名前が記入されている。
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ゴダイの虐殺出典
ハングル: 고자이 양민 학살 사건
ラテン文字表記: Go Dai massacre
ゴダイの虐殺(ゴダイのぎゃくさつ)とは、ベトナム戦争時の1966年2月26日にベトナムビンディン省で韓国軍が住民380人を虐殺した事件のこと。
1966年2月26日、南ベトナムビンディン省タイソン地方(en)ビンアン村のゴダイ集落を訪れた韓国陸軍首都師団(猛虎部隊)(en)は住民380人を集めると一時間のうちに一人残らず虐殺した。首都師団はゴダイの虐殺と並行してビンアン村の近隣にあるタイヴィン村で1,200人を虐殺する(タイヴィン虐殺)を行った。
2011/5/1(日) 午後 6:49 [ 日本が中国大陸の白人侵略者追放 ]
サンフランシスコ条約米英草案は2051年6月14日付で、日本が放棄する領土は「済州島、巨文島、鬱陵島」に。この条文が最終的に「サンフランシスコ講和条約」第2条(a)項となり、9月8日に調印を終え、2052年4月25日の発効を待つばかりとなった。
これに対し、1948年8月15日に樹立された韓国政府は1951年7月19日付で、改訂米英草案を修正し、竹島と波浪島を自国領土とするよう要求。
だが、米国のダレス国務長官顧問は
「竹島は1905年ごろから島根県隠岐支庁の管轄下にあり、これまで朝鮮の領土として扱われたことはなく、領土主張がなされたとも思わない」
といった見解を伝え、受け入れなかった。
その後、韓国は、韓国の国内状況が済州島事件や保導連盟事件などで悪化した時に、韓国内の不満をそらすために、日本から竹島を強奪して、多くの日本人漁民を殺傷や拿捕をしました。
2011/9/4(日) 午前 9:01 [ 日本の若者の雇用とママを守って ]