所領安堵とは、言うまでもなく、幕府や大名が、武士の所領を承認し、知行を保障する行為である。
所領安堵がなされることによって、武士がその権力の構成員であることが確認され、主従関係が構成されるのである。
このように一見きわめてシンプルな行為に見えるのであるが、細かく検討してみると、所領安堵もいろいろとややこしくて複雑な問題を抱えているのである。
安堵の手続がもっとも整備され、複雑化したのは、だいたい鎌倉後期から南北朝初期にかけての時期である。
安堵の基準は、大きく分けて2つある。
先祖代々その所領を所有してきた事実を譲状などの証文によって証明する「相伝の由緒」と、現実に今現在、その所領を実効支配している事実、すなわち当知行である。
原則として、相伝の由緒と当知行の事実の両方が証明されれば、幕府からその所領を安堵されるのである。
もうちょっと具体的に説明してみると、以下のとおりである。
まず、幕府から安堵を拝領しようと思っている武士は、安堵を要求する申状を作成し、譲状などの証文を副えて幕府の安堵方という安堵を行う機関に提出する。
安堵方では、これらの書類を審査して問題がないと認定すれば、安堵方の頭人の奉書でもって、所領の存在する国の守護と最寄りの国人に充てて、当知行しているかどうか、その所領に対して異論を唱える者(当時の用語で「支え申す仁」と言う)が存在しないか否かを尋問する命令を発する。
で、問題がないとする守護や国人の返答(請文)をもって、晴れて安堵の承認となるのである。
※南北朝中期以降、国人に対する尋問は省略され、守護の保証のみとなる。
その文書は、鎌倉幕府では将軍家政所下文あるいは執権・連署の関東下知状(一時期、惣領←将軍、庶子←関東下知状という管轄が存在した)、初期室町幕府では足利直義の下文をもってなされた。
このように、相伝の由緒と当知行の事実が証明されれば、特に問題はない。
しかし、どちらか一方に問題があって欠けたときは、非常にややこしい問題となる。
草創期とか、戦争に敗北したりして幕府の力が衰えたときは、当知行が優先されるようである。
武士の当面の支持を得るために、とりあえず所領をまったく調べないで、申請に任せてひたすら安堵する。ひどいときには、具体的な所領名をまったく記さない例も多い。
また、室町幕府の場合、後年代になればなるほど、当知行を重視し、優先するようになったようである。
とりあえず、その所領を実効支配しているというだけで、安堵を拝領するのに非常に有利に働いたようである。
では逆に、当知行ではなかった場合はどうなるのであろうか?
異議を申し立てる者(「支え申す仁」)が出現した場合、案件は引付方に移管され、通常の不動産訴訟として扱われ、最終的には裁許下知状をもって判決が下された。
それ以外にも、不知行であっても、何らかの事情で安堵が下されることもあった。
例えば、南朝方の武士が、幕府方に投降して帰参したときに、降参人の所領の3分の1もしくは半分を安堵するという「降参人半分の法」という慣習法によってなされる安堵は、少なくとも建前上はその所領は幕府によって没収され、幕府方の武士に与えられていた所領なので、不知行地の安堵ということになる。
また、譲状による譲与安堵も、親から子へ譲与される所領は、すべてが当知行というわけではなく、他人に押領されている所領が存在する場合もあるので、その所領については不知行安堵である。
このように、安堵には大別して、当知行安堵と不知行安堵が存在するのである。
不知行安堵は、特に降参人に対するものは、実態として、事実上の恩賞であったので、南北朝初期には直義だけではなく、尊氏が行ったものも多い。
ここにも、尊氏と直義の権限が競合し、両者の対立が発生する要因が存在したのである。
安堵が下された後の手続も、当知行と不知行では異なっていた。
当知行安堵では、下文だけで手続が終了するのに対して、不知行安堵では、尊氏の恩賞充行と同様に、執事や内談頭人の施行状が発給されて、守護の強制執行(遵行)が行われる場合もあった。
義満期には、当知行の安堵に対しても施行状が出されるようになったが、本来不知行地を当知行化する施行状を、すでに当知行されている所領に出すことは原理的に無理があったようで、早くも義持期には廃止されている。
相伝の由緒と当知行の事実、これが安堵の基準であると言ったが、特に内乱期には、これに加えて軍忠も考慮されたようである。
まあ、それはそうだよな。合戦に参加せずに、幕府に軍事的に何も貢献していないのに、安堵だけ要求するなんて虫のいい話が通用するわけがない。
特に、南朝方のくせにしれっとした顔で安堵や裁許を求める輩も存在したようなので、潜在的に安堵に対しても、恩賞と同様軍忠が考慮されたのは理解できるであろう。
また、安堵がなされるタイミングも大きな問題である。
何も理由がないのに安堵を申請する行為は、邪な意図を持っているのではないかとかえって忌避された。
安堵のタイミングには、将軍が代替わりしたときに行われる安堵と、被安堵者が親子や兄弟で所領を譲与したときに行われる譲与の安堵が存在した。
で、代替わり安堵は、鎌倉中期まで見られるが、その後はもっぱら譲与安堵だけとなる。
ほかにも買得安堵というものがあったりと、本当にこの問題は複雑でややこしい・・・。
適当に安堵するってのは所謂「切り取り次第」ですか。
西欧でもそうなんですけど、領地が絶えず近隣の領主に狙われてたら安心して生活出来ませんよねえ。
結果、あちこちの上級領主に服従の誓いを立てて誰に安堵されてるのか分からないようになっちゃってレーン制度が崩壊する、と。
国王なんかに直接土地の管理を委ねて自分は上がりの一部を貰った方が確実。
こんなところに絶対王政の地盤があるんですね。
日本でも押領が罷り通るようになると領主たちは自前の支配権を固めた上でより強力な権力を頼ることになるわけですが、当初は天皇・上皇・摂関家が権威者だったのに後には鎌倉の将軍が領主権を安堵する機能を持って「武家政治」になるわけですね。
応仁の大乱後には守護は領内の実質的権力を守護代や又代によって空洞化させられて没落するところが増えた(所謂下克上)けれど、結局限界まで分解した領主権は自分たちの権利のためにも上級権力を盛り立てて行く必要が生じ、天下統一の機運が満ちて来るという按配ですね。
日本でも結局自分の領地を自分で切り盛りせずに大名や幕府の管理に任せて食い扶持を貰う官僚と化す、と。
島津藩はここら辺も特殊な構造だったようですね。
投稿情報: 蝦夷王 | 2007年7 月 4日 (水) 00:12
う~ん、難しいw
とりあえず、当地行=実効支配している土地、不知行=実効支配していない土地、という理解でよろしいでしょうか?
>室町幕府の場合、後年代になればなるほど、当知行を重視し、優先するようになったようである。 とりあえず、その所領を実効支配しているというだけで、安堵を拝領するのに非常に有利に働いたようである。
これってある意味「獲ったモン勝ち」wという感じですね(^^ゞ。「実効支配したものが勝ち」ということは、その時その時の「実力者」がどうしても有利になりますから、「実力主義」が横行しますよね。
もしかしたら、「下克上」の源泉ってここにあったんじゃないだろうか・・・なんて思いました。
投稿情報: fuji | 2007年7 月 4日 (水) 03:05
>蝦夷王さん。
>国王なんかに直接土地の管理を委ねて自分は上がりの一部を貰った方が確実。
安堵というのは、こういう感じではなかったと思います。
土地を直接支配しているのは、あくまでも被安堵者であり、むしろ段銭等の賦課・徴収という形で上がりの一部を貰っているのは将軍や朝廷です。
特に鎌倉時代とかですと、「安堵は理非によらず」という法理念があります。
これは、幕府の安堵は裁判の権原とはならないという意味でして、つまり将軍や執権から安堵の文書を獲得していたとしても、誰かに訴えられたときに、その文書を自己の支配の正統性の根拠にできないので、敗訴する可能性が大いに存在するってことなんですね。
これは換言すれば、幕府の安堵は拘束力が弱いということになります。
非常に難しい問題ではあるんですが、当知行安堵が主流となったり、代替わり安堵が衰退していく事実なんかも踏まえますと、日本の場合、イニシアティヴがあるのは安堵される側だった気がいたします。
>fujiさん。
「実効支配」って何ぞや?って問題も非常に難解でして、明治以来の長きにわたる論争があるわけですが、とりあえず、そのようなご理解でよろしいと思います(つーか、私もその程度の理解しかないorz
>もしかしたら、「下克上」の源泉ってここにあったんじゃないだろうか・・・なんて思いました。
私の知る限り、当知行優先の原理を戦国時代や下克上の論理に結びつける見解はないのですが、しかし考えてみれば、戦国大名の支配の論理に使われた可能性はありますよね。
投稿情報: はむはむ | 2007年7 月 4日 (水) 07:15
蝦夷王さんのコメントは、絶対王政や幕藩体制など、中世的安堵が崩壊した時代について言及されたものでしたね。
その意味で、日本中世の安堵について説明した上の私のコメントはずれているようですorz
室町期にはあれほど当知行が優先されていたのに、江戸時代になると大名は簡単に配置転換されるし、武士も俸禄制になってしまう、その大転換は確かに興味深いですね。
そっちの時代は不勉強なんでよくわからないんですが、何か研究あるのかな?
投稿情報: はむはむ | 2007年7 月 4日 (水) 07:31
当知行優先の原理というのは、いわば「現状維持」の論理なので、必ずしも下克上の論理には繋がらないと思います。
そもそも、メチャクチャ実力を持っていて100%実効支配できているような人は、わざわざ当知行安堵を申請したりしないのであって(当時は幕府など国家権力の承認を得ないと所有の正当性を確保できないなどということはない)、実力主義とはちょっと違うと思います。
>室町期にはあれほど当知行が優先されていたのに、江戸時代になると大名は簡単に配置転換されるし、武士も俸禄制になってしまう、その大転換は確かに興味深いですね。
戦国大名は家臣の配置転換を行っており(特に織田信長)、その延長線上で考えるのが一般的な理解なのではないかと思われます。
投稿情報: 御座候 | 2007年7 月 4日 (水) 13:20
>当知行優先の原理というのは、いわば「現状維持」の論理なので、必ずしも下克上の論理には繋がらないと思います。
なるほど・・・。
だから研究がないんだな。
>戦国大名は家臣の配置転換を行っており(特に織田信長)、その延長線上で考えるのが一般的な理解なのではないかと思われます。
ご教示、どうもありがとうございました。
おれももっと勉強しないとな・・・。
投稿情報: はむはむ | 2007年7 月 4日 (水) 13:33