ナイチンゲールの思想と統計学

1.はじめに

 本論の筆者の専門は看護学ではなく、社会学である。第2次大戦後、社会学と看護学は密接に協力しあうようになった。医療社会学の草分けの一人であるアンセルム・ストラウスは、看護の現場に強い関心を持った [ストラウス他 2000] 。看護者の知性は人間の「全体」に関わらざるをえない。看護学と看護実践のはらむそうした「全人的知」は、社会を研究する者にとって大きな示唆を与えてくれる。フローレンス・ナイチンゲール (Florence Nightingale, 1820-1910)は、近代看護学の始祖であると同時に、「全人的知」の代表的人物でもある。

 ナイチンゲールは、アドルフ・ケトレー(Adolphe Quetelet, 1796-1874)の影響を受け、当時としては優れた統計学者でもあった [多尾 2001:12] 。近代看護学の歴史は、統計および統計学の発達とともにあった。本論は、看護師のシンボルとなった「クリミアの天使」とは違う側面に光をあてたい。若い頃から記録好きで計算好きだった [多尾 2001:13] ナイチンゲールは、ケトレーの「社会物理学(physique sociale)」の構想に強い関心を持った。これこそ人間社会の科学的探究を可能にするものだと彼女は感じた。統計は彼女の強力な武器であり、世界観の一部でもあった。国民国家の発展は国家経営の客観的な指標に対する需要を刺激し、18世紀に数理統計の理論が勃興した。続く19世紀前半のヨーロッパは、統計学に熱狂した時代であった [多尾 2001:7] 。ベルギーの天文学者だったケトレーもまた、この時代に大数の法則と正規分布に基づく確率論的な予測技法を考案し、犯罪など人間についての考察に応用した。しかし、こうした理論の発展は、必ずしも統計実務の発達を伴ってはいなかった。ナイチンゲールの母国であるビクトリア女王のイギリスは、その国力に比べてあまりに貧弱な統計的蓄積しか持っていなかった。

 彼女が統計を通じて為そうとしたことは、今日でも重要な意味を持っていると思われる。21世紀に入った今日、統計理論と統計技術の発達は目覚しいものがある。コンピュータの発達と普及は大規模データの高速な処理を可能にし、世界規模のネットワークの構築によって大量のデータが収集可能になった。ケトレーやナイチンゲールの時代には考えられなかった発展を遂げている。しかし、統計は言うまでもなく魔法の杖ではない。統計は手段である。優れた社会統計は、優れた技術とともに、優れた目的意識から生まれるものであろう。社会統計もまた、社会の一部なのである。ナイチンゲールが目指した統計のあり方とその背景を通して、社会と人間を見る姿勢のありかについて示唆を得たいと思う。

2.ナイチンゲールの戦い

 ナイチンゲールは、強靭な意志と情熱をもって衛生統計の整備に努めた。その方法は極めて政治的・戦略的であった。彼女は「白衣の天使」とは程遠い性格だったらしい。裕福な家庭に生まれながら、当時の英国上流階級の慣習からすれば「忌むべき」職業であった看護婦を志した。きかん気の彼女は母親から「野生の白鳥」と呼ばれたが、実のところ白鳥どころか鷲であった [ストレイチー 2002:17] 。クリミア戦争の従軍看護で体をこわしたためほとんどベッドの上からであったが、彼女は頑迷な陸軍と上院を相手に猛烈な闘争を仕掛けた。天使どころか時には悪魔にでもなったのである [ストレイチー 2002:87] 。それもこれも、イギリスの抱える衛生上の欠陥を改善するためであった。

 ナイチンゲールが両親の反対を押し切って看護の訓練を受け(1850〜1851)、実務(婦人病院の看護監督)に就き始めた矢先、クリミア戦争(1854〜1856)が勃発した。従軍看護団の結成と指揮を任されて現地スクタリに赴いた彼女を待っていたのは、戦争よりもたちの悪い衛生環境と官僚たちであった。このスクタリ野戦病院での活躍が、今日にいたる「ナイチンゲール神話」の起源である。彼女はあらゆる困難を乗り越え、時には私財を投じて備品を調えた。そのうち、彼女は現地の軍がいかに杜撰な記録をしているかに気づく。死亡統計ひとつにしても、別々に3とおりのものがあった。事実を系統的に把握する意思が欠如していたのである。

 イギリスの世論は熱狂的に彼女を支持した (1)。「クリミアの天使」または「灯火を掲げる淑女」という呼び名は既にスクタリ滞在中からささやかれていた。しかし、彼女の本当の苦闘と看護に対する貢献は、帰国後に始まった。先ず、陸軍軍医局を改革する必要がある。女王に謁見したナイチンゲールは勅撰による陸軍の衛生委員会に関与し、クリミアの報告をまとめ始める。上流階級とのコネクションと圧倒的な世論の支持はあっても、軍官僚と議会の壁は厚い。官僚制の厚い壁を突破するには客観的な説得力が必要であった。統計こそ、ナイチンゲールの武器だった。

 陸軍改革は、陸軍大臣で同志のシドニー・ハーバートの死(1861)によって挫折するが [ストレイチー 2002:86-87] 、彼女の統計学と衛生統計への情熱は止みがたいものだった。ナイチンゲールは、イギリスの病院においては、死亡統計だけでなく疾病の分類や看護日数などの基本事項の統一すらほとんどとられていないことを発見し、友人のウィリアム・ファー博士と戸籍庁の協力を得て、独自の統一基準を考案して 1859年に出版した [クック 1994:152]1860年に第4回国際統計会議が開催されたのを機会に、イギリス統計学会の会員に選ばれていたナイチンゲールは、この国際会議の運営に関与する。彼女は病院と公衆衛生に関わる分科会において、病院統計の統一基準について論じた。この活動で彼女を支えたのはケトレーとファーであった。彼ら3者の国際協力が実を結び、会議では統一基準の採択が行われた [多尾 2001:20-22] 。しかし、イギリス国内では、事はそれほど簡単ではなかった。

 ナイチンゲールはロンドンを中心として各病院に呼びかけ、実験的に自らの統計基準を採用させようとした。 1860年から61年にかけて、多くの病院が統一的な統計を発表するようになったが、これはすぐに挫折してしまう。「統計のまとめが骨が折れ、したがって費用もかかること、原則上にとどまらず、実際上の統一を確保することがむずかしく、したがって統計の数字から推定される結論の価値について疑義があること」などが原因であろうとされている [クック 1994:156] 。さらにナイチンゲールの挫折は続く。彼女は1861年の国勢調査に自らの衛生統計を加えようとした。それは、先ず全国の病人と虚弱者の数を確認することによって健康人と病人との比率を知ることと住居環境の情報を得ることが眼目であった。アイルランドでは既に行われているにも関わらず、またファーの後押しにも関わらず、内務大臣も下院もこれを拒否した。疾病についてはもちろん、住居の調査さえも実現しなかった [クック 1994:158-161]

 ナイチンゲールは統計学の制度化にも努力した。何よりも重要なのは教育である。大学教育において統計の専門家を育てるべきだと彼女は考えた。統計が活用されないのは、実際に活用されていないからであり、活用の仕方を知らないからである。しかし、ナイチンゲールが晩年にいたるまで実現に努力した大学での統計学の教授職 (Faculty)は、結局生前には実現されなかった。統計を使いこなすことには忍耐と情熱と良心が必要だった。怠惰と混乱と改竄はそうした「徳」の欠如から起こる。統計には多くの人々の信頼と協力が必要である。教育こそが、そうした「統計的理性」を実現する最大の機会である。ナイチンゲールの落胆は大きかった [多尾 2001:26-28]

 以上で概述したナイチンゲールの運動は、彼女の社会的使命感と情熱のしからしむるものであると同時に、独特の科学的・統計的理性の発露でもあった。以下では彼女の描き出した統計世界を瞥見しつつ、ナイチンゲール統計の深層を探ってみよう。

3.ナイチンゲールの統計思想

  3.1 ナイチンゲール統計の特徴

 多尾清子によれば、ナイチンゲールの統計学は「記述(数理)統計学と社会統計学のそれぞれの定義に基づいた内容を併せもつもの」である。記述統計学は数学の実際的応用に志向し、社会統計学は社会生活の合法則性の究明に志向している。社会統計学の対象は集団であり、その性質を数量的に研究する。多尾はナイチンゲールの統計学を「記述社会統計学」と名づける [多尾 2001:36]

 多尾は、ナイチンゲールの作成した報告書または覚書(Notes)を、それに付随する表やグラフとともに紹介している。ナイチンゲールは、クリミア従軍からの帰国後に作成した報告書『イギリス陸軍の保健と能率と病院管理に関する覚書』(1858)において、直接戦闘によらない兵士の死因のほとんどが劣悪な衛生環境にあったと訴えた。1000頁におよぶこの覚書は、自費出版だったため多くの人の目には触れなかった。陸軍改革を目指したナイチンゲールは、上記の覚書から抜粋して、ファーの協力を得て2000部を印刷した。この抜粋版『イギリス陸軍の死亡率』は匿名での出版だったが、大きな反響を呼んだ [多尾 2001:38-40] 。その特徴は比較と視覚化である。

ナイチンゲールは、陸軍兵士と同年齢の男性国民の死亡率を比較し、それを棒グラフや独特の円グラフ(扇形グラフ?)で示した。頑健なはずの陸軍兵士が平時において (1849〜1853)男性国民の何倍もの死亡率を示している。これは、1万人中の年齢別(20〜40歳)の死亡者数と生存者数の対比グラフでも示されている。また、クリミヤ戦での現地陸軍兵士とマンチェスターの男性市民とで伝染病による死亡率だけを比較したものがある。他に、死因別(傷害と伝染病)の色分け円(扇形)グラフ、また国内外の健康な地区における兵士と国内男性の比較グラフもある。これらにおいても、兵士の死亡率が圧倒的に高いことは変りない。特に、伝染病の死亡率が極端に高く、兵士が非衛生な環境に置かれていたことを示している。この『イギリス陸軍の死亡率』に対する様々な疑問に応えるために、『最近の対ロシア戦におけるイギリス陸軍の衛生史に関する寄稿』(1859)が著され、さらに詳細なデータが示されている。ここでもやはり陸軍兵士の異常ともいえる死亡率の高さが浮き彫りになっている [多尾 2001:41-72]

現在でこそあたりまえになっているが、ナイチンゲール当時は標準となるグラフ表現が確立していなかった。ナイチンゲールは様々なグラフによって視覚的なプレゼンテーションを工夫している。ファーはこうした彼女の表現方法を絶賛した [コープ1979:137] 。先に述べた円(扇形)グラフは、月ごとに扇形の半径で死亡率を示している。2つの円(1年分につき1つの円)それぞれの中心近くの小さな同心円は、マンチェスターの男性住民の死亡率(年率)を表している <図1>。ただ、この円(扇形)グラフは、半径の差が扇形の面積に反映するので差異が際立って見える。月ごとの差異が大きい( 10倍近くになる)のと単位が1000分率だったこともあってこうした表現を選択したのであろうが、多分に効果を狙ったきらいもある。

もうひとつ興味深いグラフが『イギリス陸軍の死亡率』に見られた。「人口密度」のグラフである。通気の有無を重視するナイチンゲールは、患者ベッドの密集を問題にしていた。報告書では、ロンドンおよびイースト・ロンドン(当時の最も稠密な土地)と野営陣地との人口密度比較をしている。最も人口密度の高い都市ですら、クリミアの野営陣地にははるかに及ばない。彼女は極端なものを比較してアッピールする傾向があるようだ。さらに興味深いのは、ナイチンゲールが、今日通常示されるような面積あたりの人数ではなく、1人あたりの面積に注目している点である。グラフでは、円の内部にある六角形の数によって密度が感得できる。数が多ければそれだけ密である <図2>。患者個人にとっての環境を評価するという態度は、ナイチンゲールの統計世界の特徴の1つであろう。病院統計の応用についても、そうした傾向が見られる。後に彼女が看護専門学校 (1860)を開設する聖トマス病院に移転問題が生じたとき(1859)、現状の患者名簿を基に、個々の患者について通院のコストと危険要素を評価した。多尾は、病院経営と個々の患者の利益を共に考慮した例としてそうしたエピソードを紹介している [多尾 2001:88-89] (2)

 ナイチンゲールにとって統計学は人間の科学の代表であり、ケトレーはそうした科学の指導者であった。しかし、彼女にはケトレーの求めた個人を超えた「法則性」 (3)に対する関心があまり見られない。ナイチンゲールにとって、経験がすべてであり、患者と患者の環境とに関する事実こそが重要であった。彼女が「情熱的な統計家」 [クック 1994:161] たりえた理由は、その極端とも言える経験主義にあった。そして、それこそが、彼女の強みでもあり弱みでもあった。

  3.2 ナイチンゲール統計の背景

 ナイチンゲールにとって統計学は、まさに「神の御業」を知る道であった。人は神の摂理に自らを一致させねばならない。神の神秘を垣間見る手段こそ、統計学に他ならない [福井 2000:97-98] 。こうした宗教的信念とは別に、彼女の統計思想には、独特の精神的背景があった。それは、徹底した経験主義である。ナイチンゲールは、「天使」には程遠かったと先にも述べたが、したたかな政治的リアリストでもあった。彼女はいかなる意味でも観念論者ではなかった。看護にロマンチックな精神主義をまじえたことはなかった [吉岡 1966:89]

 それにしても、ナイチンゲールの運動と闘争は、彼女がイギリス上流階級との私的な交際がなければ不可能だったろう。彼女には、今日言われるところの「社会構造」に対する関心が見られない。書簡や文書を見る限り、貧者に対する深い愛情にも関わらず、階級支配やイギリスによる植民地支配に対する反省的意見を持っていたようには思われない。むしろ、神の完全性は却って世界の不完全さを結果するという考え方を示している [ストレイチー 2002:95] 。「…神の完全性を<疑わ>しめた悪そのものが完全性の最も確かな証拠であることがしだいにわかってくれば、ついにはわれわれが完全であればなすべきであったことを、神が宇宙で行ったのだと考えるようにならないだろうか [ナイチンゲール 1983:156] 」。世界が不完全であるからこそ、人間は努力する。イギリスにおいては富裕なジェントルマン階級が社会的・公的な使命を担う指導者階級でもあったという特殊性が影響しているのかもしれない [日野 1990:72] 。ナイチンゲールもまた、イギリス社会の指導者階級として、その社会的使命に情熱を傾けたのであり、自らの階級的メリットを大いに利用したのである。とはいえ、ナイチンゲールにとって、理想はあくまで実現されてこそ意味があった。

 ナイチンゲールのリアリズムは、経験主義に裏打ちされたものだった。いや、むしろ経験主義という「限界」を持ったリアリズムだったと言うべきかもしれない。病気と患者と看護、そして看護と衛生を阻む官僚制と無知と怠惰、これらが彼女の「社会的」経験であった。彼女は、社会的経験を自ら閉ざしてしまったと言えよう [日野 1990:141] 。ナイチンゲールは、神自身を例外とすれば、自らの「五感で把握できないもの」を信用しなかった。彼女が終生「細菌感染説」を理解しなかったのも、細菌感染などという五感に触れないものを確固たる「事実」とは認めなかったからである。それは、ナイチンゲールの「生命観」や「疾病観」に深く関わっている。それは「全体論」とでも呼ぶべきものである。今日でいえば「システム論」であろう。彼女にとって、病気という人体の状態は、「欠損」というよりは回復途上の現象であった。ナイチンゲールは生命の最小単位を「細胞」には見なかった。彼女にとっての生命単位は、先ず全体としての人体であり、さらにはそれを取り巻く「家」であった。病気は人体のどこか局所の状態ではなく、人間全体の状態である。患者の環境を改良することこそ、看護の使命である。なぜなら、患者という全体(システム)とその環境こそが病気の「主体」だからである [小南 1974:6] 。彼女の疾病観は、当時盛んになりつつあった「特定病因説」に対抗する意味をもっていた。それは「環境病因説」と呼べるかもしれない。システムと環境との複雑な関係こそ、「病気」の実体である。彼女は人体を(現在のシステム論で言う)「ブラック・ボックス」として考えたと言ってもよいだろう。むしろ、そう考えていたからこそ、患者を人間として看護できたのかもしれない。ナイチンゲールの生命観は、さらに大きなシステムをも射程に入れていた。村や国もまた生命単位と考えることができる [小南 1974:7] 。晩年に、彼女は村落の婦人に対して熱心に地域看護と地域衛生とを教えた(例えば、『町や村での健康教育』 (1894) [ナイチンゲール1985a:157 f.])。彼女の生命思想は、看護・衛生思想と密接に関連していた。そして、ナイチンゲールの「全体論」と「経験主義」は、複雑な生命システム(患者・住居・家庭・村・国家とそれらの環境)とを正しく知るために、統計実践と統計学とを必要としたのである。

4.結び

 こうしたナイチンゲールの思想を現代の科学的医療に照らして批判することはたやすい。しかし、医学のパラダイムも変化し始めている。医療も看護も戦うべき相手は病原体ではなく人間の「病気」である。日野秀逸によれば、 19世紀に始まる細菌学的疾病観は、短期間に劇的効果を期待できる薬品への依存を強めた。それは、健康な暮らしの条件を総合的につくるという政策よりも、病気になってからの治療において保険制度の制定などで対症療法的に対応する政策に結びついた。かつての衛生学の伝統にあった「瘴気説」が、労働・生活条件の健康化というまともなとりくみと結びついたこととは対照的であった。清潔な空気や水などの環境要因を重視するナイチンゲールは、瘴気説に傾いていた [日野 1990:142] 。これは確かに彼女の科学的限界である。しかし、看護が人間の全体システムと環境に関わるものであるかぎり、ナイチンゲールの思想は現在でもその意義を失っていない。

 統計学においても、ナイチンゲールの時代による制約は明らかである。彼女にはオリジナルな「統計理論」はなかったかもしれない。統計と統計学を区別するなら、ナイチンゲールは統計学者よりむしろ統計家ないしは統計実務家として独創的であったと言うべきかもしれない。しかし、そのことは彼女の統計学者としての地位をおとしめるものではない。統計とは、まさに実践であり、社会的実践そのものである。彼女の「統計的理性」は、今日でも重要な意味を持つ。いや、人類が数量と数量に関わる技術に大きな関心を払い、圧倒的な規模で操作を加える現代のような時代にこそ、ナイチンゲールの「統計的理性」が再び思い起こされるべきである。

 看護学と社会学の接点を求める試みは、いくつか現われている。有力なものとしては、看護の現場をフィールドにした「データに基づく理論 ( grounded theory)という研究方法が盛んになってきた(例えば [ストラウス他 2000] )。それは、精密な数量統計とは別に、看護の場面で様々に変化する人間どうしの関係を、その「あらわれ」に密着して捉えようとする試みである。事実を離れて理論は存在しない。看護者こそ、患者というシステムを取り巻く最も重要な「環境」である。ナイチンゲールの経験主義と全体論は、事実を誠実に捉えるべしという統計的理性とともに、人間として人間に対するべしという「冷静な人間主義」にも導くものである。ナイチンゲールの思想は、人間と社会の関係について考えるうえで多くの示唆を与えてくれる。社会学者にとっても、興味の尽きない人物である。

<註>

(1)クリミア戦争での活躍によって「ナイチンゲール基金」が創設され、1860年にこの基金を原資として「ナイチンゲール看護養成学校」が創設された。本論で述べたように彼女は幾多の政治的挫折を味わうが、看護学校は今日の看護教育に大きな影響を与えた。

(2)日本語版『ナイチンゲール著作集』(一〜三巻) [ナイチンゲール 1983, 1985a, 1985b] には、こうしたグラフは収録されていない。

(3)ケトレーの社会統計(当時の呼び方では「道徳統計」)に対する貢献については、( a)社会的法則性の探究、 ( b)大数観察(確率論)による統計、 ( c)仮説概念としての平均人 ( l'homme moyen)の考案、以上の3つが言われている [高橋 1987:165-166] 。ここで言う「法則性」とは、今日の厳密な物理学的法則ではなく、統計的な規則性のことである。

 ただ、ナイチンゲールは神に対するより完全な観念に近づくには知識が必要であることを認めている [ナイチンゲール1983:156]


<図1>東方駐留イギリス陸軍の死亡率グラフ(1854年4月〜1856年3月)

[多尾 2001:65, 図13]

多尾による解説の訳:「点線の円の中の面積は、英国でも最も不健康な町とされている

          マンチェスターに、軍と同年齢の男子がいたとすればそれらの

人々の死亡率(1,000人に対する年率12.4)を示している。・・・

それぞれのくさび(扇形=引用者)は、他のあらゆるくさび(扇

形)並びにマンチェスターの円との面積比較を示している。・・・」




<図2>陸軍主計長官の野営計画のデータより作成した人口密度とロンドン、

    イースト・ロンドンの人口密度との比較 [多尾 2001:58-59]

多尾による解説の訳:「・・・各六角形の中の1個の・点は、1人の人間を示し、六角形は1人

          の人間が占有できる面積を、また、線は人と人との距離を示している。

          点の数は人口密度を表している。

          主計長官の計画で密度が低いものでも首都ロンドン(一番右側の図)の

          面積の1/20、ロンドンで最も稠密な地域、すなわちイースト・ロンドン

          と比べると1/2である。さらに、野営陣地のテント占有面積(中央の図)

          に対する人口はロンドンの50倍以上も密集している。

          このことで、野営陣地の過密状態が健康に与える影響がいかに重大で

あるか分かるだろう。都市における疾病率と死亡率は、人口密度の影響

力に大きく係わってくる。換気孔のないテントやバラック兵舎、さらに

このような極端な過密状態の陣地では、病気を蔓延させることを疑う余

地がない。・・・」





<参考文献(出版年順)>

[吉岡 1966]:吉岡修一郎『もうひとりのナイチンゲール―誤解されてきたその生涯―』、医学書院、1966年。

[小南 1974]:小南吉彦「ナイチンゲールの生命観について」(『ナイチンゲール著作集 月報1』、1974年6月:『ナイチンゲール著作集 第二巻』付録、6〜8頁。)

[コープ 1979]:ザカリイ・コープ(小池明子・田村真訳)『ナイチンゲールと医師たち』、日本看護協会出版会、 1979年。

[ナイチンゲール 1983]:フローレンス・ナイチンゲール(湯槙ます監修・薄井他編訳)『ナイチンゲール著作集 第三巻』、現代社、 1983(1977)年。

[ナイチンゲール 1985a]:フローレンス・ナイチンゲール(湯槙ます監修・薄井他編訳)『ナイチンゲール著作集 第二巻』、現代社、 1985(1974)年。

[ナイチンゲール 1985b]:フローレンス・ナイチンゲール(湯槙ます監修・薄井他編訳)『ナイチンゲール著作集 第一巻』、現代社、 1985(1975)年。

[高橋 1987]:高橋政明「ケトレーの統計学」(『経済学研究』第53巻第4・5合併号、九州大学経済学会、 1987年12月、165〜188頁)。

[日野 1990]:日野秀逸『フロレンス・ナイチンゲール―「クリミアの天使」をめぐる時代と政治―』(上巻)、労働旬報社、 1990年。

[クック 1994]:エドワード・クック(中村妙子・友枝久美子訳)『ナイチンゲール―その生涯と思想―K』、時空出版、 1994年。

[ストラウス他 2000]:アンセルム・ストラウス、ジュリエット・コービン(南裕子監訳)『質的研究の基礎―グラウンデッド・セオリーの技法と手順―』、医学書院、 2000(1999)年。(Anselm Strauss & Juliet Corbin, Basic of Qualitative Research : Grounded Theory Procedures and Techniques , Sage Publications, Inc., 1990.)

[福井 2000]:福井幸男『知の統計学2―ケインズからナイチンゲール、森鴎外まで―』、共立出版株会社、 2000(1997)年。

[多尾 2001]:多尾清子『統計学者としてのナイチンゲール』、医学書院、2001(1991)年。

[ストレイチー 2002]:リットン・ストレイチー(橋口稔訳)『ナイチンゲール伝』、岩波書店、2002(1992)年。



以上は、八王子市立看護専門学校の紀要に掲載予定の原稿の一部です。


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