源氏物語の受難

 「源氏物語」は桐壷帝から今上帝まで、四代の天皇にわたる七十年あまりの物語でもある。物語内の天皇は恋に身を焦がし、管弦の宴や絵合わせに興じる(王朝のみやび)の中心的存在として描かれている。ところがそんな「源氏物語」が、明治以降、天皇を主権者とする大日本帝国憲法の下で「不敬の文学」として幾度か非難にさらされ、弾圧の対象にすらなっていた。「源氏物語」の何が、それほど危険視されたのか。

 1933年(昭和八年)十一月、劇団「新劇場」による東京・新歌舞伎座での「源氏物語」公演が、開幕の四日前に、警視庁保安部から突然中止を命じられた。この公演は、源氏や義理の兄の頭中将らが理想の女性像を語り合う第二巻「帚木」から、謀反の疑いを着せられた光源氏が、都を離れて謹慎する第十二巻「須磨」までを、六幕十七場に戯曲化したものだ。光源氏を演じるのは坂東蓑助だった。

 十一月二十二日付の読売新聞朝刊は、「期待の”源氏物語”突如上演禁止」「古典の至宝封殺」との見出しの下に、「禁中生活がそのまま出ていること」「登場人物が皇族であること」など警視庁が挙げた禁止の理由五項目を並ベ、それに対する蓑助の「死んでもやりとげます」という談話などを報じている。舞台を後援した紫式部学会は、脚本を改訂してでも上演したいと運動したが、十二月十日付読売新聞夕刊によると「改訂の 源氏 も許可せず」。 この記事には、警視庁保安課長の「問題は部分的にあるのではなくて禁中の恋愛生活の描写という根本的なところにあるのですから簡単には行きません」という談話が添えてあった。実はそこには万世一系の皇統の神聖化にかかわる問題があり、問題の中心は、五年後に起こった国定教科書論争を見れば、より明らかである。

 1938年(昭和十三年)、小学六年生向け「小学国語読本」巻十一に、「源氏物語の(若紫)と(末摘花)の一部が掲載された。光源氏と幼い紫の上の出会いと語らいが、学生にも分かりやすい現代語で要約されていた。この教科書に対して、国語教育学者の橘純一は激しい「反源氏キャンペーン」を展開した。橘は自分が主宰する月刊誌「国語解釈」上に、「小学国語読本巻十一「源氏物語」の削除を要求する」(六月号)などの論文をほぼ毎号掲載した。その中の「源氏物語」は大不敬の書である。(同誌七月号)で、橘は「大不敬」の理由に「臣列に下された源氏の君が、父帝の皇后と密通する」「皇后と源氏の君との間に出来た御子が帝位に即く」「冷泉帝が源氏の君を太上天皇の準じた待遇をなさるの三点を挙げている。

 ここから振り返れば、33年の「源氏物語」公演禁止の理由だった「禁中の恋愛生活描与」が何を指しているのかは明らかだった。それにしても、虚構の物語に何もそこまで・・との感は否めない。まして小学生向けの国語読本には、恋愛の場面など少しも出てこないのだ。

「紫式部の時代には、式部の雇い主の藤原道長や時の一条天皇も、「源氏物語」を楽しんでいたはずだ。ただ識字率がおそらく一割もなかった当時、読めたのはほんの一握りの人だけだった。国民のほぼ全員が読める近代とは、物語の持つ影響力が圧倒的に違ったのだとも推測する。

 作家の谷崎潤一郎(1886ー1965)は、生涯で三度にわたって「源氏物語」現代語訳に取り組んだ。そのうち、日に日に戦時色が強まっでいく昭和十四年一月から十六年七月にかけての最初の「潤一郎訳源氏物語」には、大幅な削除個所があることが、従来から知られている。削除やぽかしの行われた箇所は桐壷帝の中宮、藤壷と光源氏の密通のくだり(若紫)。光源氏の三条藤壷邸への訪問の場面(紅葉賀)。冷泉帝が、夜間傍らに詰めている僧から自らの出生の秘密を知らされる部分(薄雲)などで、中でも最大の削除個所は、退位した桐壷院の死後、光源氏が再び三条邸に忍び込み、藤壷に密会を迫る場面(賢木)だ。

「潤一郎訳源氏物語」から、原稿用紙約十枚に相当するこの部分がばっさり削られた。また、光源氏が臣下の身でありながら、太上天皇に準ずる位に就く「藤裏葉」の場面は、「特別な御待遇を賜はって、年官年爵などを下し置かれる」と表現がぼかされている。

 後に谷崎は、現代語訳の校閲者だった国文学の山田孝男から現代語訳の条件とし「源氏の構想の中には、それをそのまま現代に移植するのは穏当でない三か条の事柄がある」と言い渡されたと書いている。その三か条とは、「臣下たるものが皇后と密通していること」「皇后と臣下との密通によって生まれた子が天皇の位に即いていること」「臣下たる者が太上天皇に準ずる地位に登っていること」。

 しかし、そのような「文学的自粛」が行われるようになったのは、たかだか近代百年のことに過ぎない。江戸時代までは、物語の主役中の主役は、天皇だったといっても過言ではないほど.。それを、遮断したのが、1882年(明治十五年)に施行された「不敬罪」だ。

 不敬罪の内容は、一言でいえば、天皇に近づいてはならないという意味。「不敬罪」の下で、小説で天皇を対象上することを禁じられた。

1946年(昭和二十一年)元日、昭和天皇の「人間宣言」が行われた。この後、平林たい子の「昭憲皇太后」や、長田幹彦の「小説天皇」小山いと子の「皇后さま」などの小説の刊行が相次ぐ。

源氏物語の二千円札

 平成十二年七月十九日、西暦二○○○年と沖縄サミツトを記念して、二千円札が発行された。裏面に印刷されているのは、光源氏とその実の息子である冷泉院が対面する「源氏物語絵巻」の「鈴虫」の場面。皮肉にも、戦前的な価値観からいえば、最もタブーだった部分である。


 二千円札の図案にも採用された国宝「源氏物語絵巻」は「源氏物語」をビジュアル化した「源氏絵」で現存する最古のものである。

 二千円札の左は光源氏と冷泉院。右は「紫式部日記絵巻」に描かれた紫式部本人。


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