第2章 放射能汚染をめぐる行政との闘い
第2章 放射能汚染をめぐる行政との闘い
2011年3月11日、東日本大震災が発生し、東京電力による福島第一原発事故が起こりました。ガソリン不足によるパニックや計画停電などで議会開会もままなりませんでした。
国が情報を隠蔽する中、ネットで海外からの情報やツイッターなどで情報を収集していた私は、大変なことになったと途方にくれました。そんな中、心配して連絡をくれた遠方の知人に、子どもたちを10日間ほど、預かってもらいました。本当は、そのまま遠方においておきたかったのですが、ちょうど私たちの子どもは、卒園と卒業を控えており、夫や両親に懇願され、情に流され、卒業式前日に呼び戻しました。人生最大の後悔です。
計画停電の合間を縫って、議会は開かれました。その間、放射能の問題について、問題提起も報告も、全くありませんでした。
議会最終日。私はいたたまれない気持ちで「福島原発の件が非常に懸念されます。6基あるうちの4基が既に危ない状態です。これに対する対策というものを是非考えて下さい。このまま黙って被曝させるわけにはいきません。子供たちへの対応を早急に考えていただきたい。また、できることなら避難をする、できる人は避難するほうがいいのではないか。そう言うことを行政として広報してもらえないか」と発言しました。しかし、議場では、他議員から冷笑され、選挙前の3月議会は終了しました。
2011年4月、統一地方選挙がありました。再度出馬するかどうか迷いました。しかし、選挙は市民のために働かない桐生市議会の問題を市民に知っていただくチャンスととらえ、また議会のあり方に疑問を持つ数名の新人候補者も選挙に挑んだこともあり、市民のために働く議会にできるのではないかと、再度挑戦することにしました。しかし、そのときの前提は、私の両親に子どもたちを預け、西に避難してもらうことでした。なぜなら、桐生は放射能に汚染されていると確信していたからです。放射能からは、避けるか逃げるかしかありません。放射能とは、戦えません。しかし、結果的には、子どもたちの避難計画は頓挫し、私は当選し、不本意ながら、桐生で子育てしながら、放射能問題に取り組むことになりました。
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