小市民の日常スペクタクル。

(◠‿◠)(◠‿◠)(◠‿◠)(◠‿◠)

NEW !
テーマ:
 かくあるべし、というものがどれだけ存在するのだろうか。今回触れるのは、別段勉強の話ではない。そういった偏差値の関係してくる場合の話は滅法苦手であるし、かくあるべしが数多に存在するだろう。今回はそういった話じゃない。世の中に蔓延っている「かくあるべし」、これは礼節や常識を生活の上で学ぶにあたって、その教師となる人や物(親や周りの大人、または友人、文献など)が礼儀や常識の大切さを根幹に染み込ませるように~すべきこと、と言い切ることによって対象に緊張感を与える事なんだと僕は解釈してる、というか、まあ今考えたんだけど、つまりは「これ知らねえと、マジやばいよ?」って言ってビビらせたら覚えるっしょ!みたいな考え方よ。

 事実これが間違っているとはいえない。常識とされる事を教え込まないと、困るのは教わってない方なのだ。常識が正しいかどうかは問題ではなく、大多数が「正しい」と猛進していることこそが常識なのであり、その常識から逸脱することは、現在の文化において「正しい」とされるものからの逸脱、爪はじきとされ、道を歩いているだけでも「非常識」と揶揄され、唾を吐かれ、吐瀉物を飲まされ、糞尿を塗りたくられる。つまり常識から逸脱すると、新しい性癖を開拓されてしまうのである。


 しかし僕は別段スカトロを悪く言うつもりはない。確かに嫌悪感を抱いてしまう気持ちはあるが、そういった趣味嗜好の人がいること自体を糾弾するつもりはなく、秘密裏にやってくれれば構わない。スカトロマニアだからといって罪に問うほどのことでもあるまい。魔女狩りならぬスカトロ狩り、そんなもん糞くらえである(どうぞ、好きなだけ笑ってください)。


 だけどさ、堂々とスカトロをぶちかまされたら温厚な僕も五臓六腑に染み渡るほどの説教をぶちかますだろう。そんなもんである。もし僕がこれから女性とお付き合いするにあたって、性行為をしようとなり、接吻から始まり、乳房をもみしだき、吐息を荒くする相手の首を舌でなぞり、乳首を下腹部に手を伸ばし、「おや、通り雨でも降ったのか、なっ!はっ!はっ!はっ!」と鬼の、鬼の、鬼の手マンをぶちかまし、ギャオース、女は叫ぶ。おいおい、俺の松井棒もキレイキレイしてくれよと言わんばかりに、怒張した松井棒(≒耳かき)を相手の眼前に差し出すと、とろんと蜂蜜のように粘度の高い眼で相手は僕の性器にⓖぼおおおおおおおおおおええげげえゲゲゲロⓡゲオおおおおおおおおおおおおロロロロロrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrっれげjぎじぇおgじょいじぇいおgじぇgっとごれえおえええげろおおおげtごおかはっがgっは。



 性欲は立ち消え、僕の下腹部には先ほど彼女が食べたであろうコーンとかホウレンソウ。いまだうるんだ瞳の彼女に僕はなんて声をかければいいのだろう。

 この場合、想定されるのが、彼女の非常識さである。きっと、おそらくだが、彼女にとって性行為にはもれなく嘔吐、排尿、あるいは脱糞が組み込まれていて、性行為とはつまりそういうことだろう、という彼女のルールが存在したのであろう。きっと初体験の相手がスカトラーだったのだろう。彼女は「みんなやってるよ。ノンノでもやってた。岡田君表紙のやつ」などという相手の謀略に見事にひっかかった次第なのだろう。

 こういった場合、だれが悪いのだろうか。正直言ってしまえば全員わるいっつーか、この物語では俺だけが被害者っつーか、フィクションの中でもセックスさせてもらえないっつーか。ただ、この場合、彼女に常識を与えなかったことが一番の問題であることが考えられる。もし彼女にそういった性癖があったとしても、「スカトロはマニアック」、ただそれだけの趨勢の事実があれば、僕もゲロまみれにならなかった。

 スカトロの立ち位置を知っていることを一つの常識だとすれば、それを知っていたのか、しらなかったのかによって被害者も答えが変わるんじゃないのだろうか。過失なのか事故なのか。愛なのか欲求なのか。

 ただし、結局は常識というものが存在すらしなければ、これまでの言葉に意味はない。積み上げられた「かくあるべし」は、世渡りにおいてベターには充分なり得るだろうが、ベストにはなりはしない。排泄物をぶちまけたい!その欲求を経験と教育から自制するのはある種当然のように思えるが、その欲求に従う事が悪ではなく、自己の欲求を無理に通そうとするのが悪である、という前提が染み付いてしまっているだけなのかもしれない。

 本当に愛する人にスカトロを無理に要求することが悪なのだろうか。それは愛じゃなくて性的欲求に過ぎない、なんて唱える人もいるだろうが、それは今までの研磨された答えではあるかもしれないが、絶対的ではなく、ただの多数の見解によるもので、異なる見解を受容しないというのは狭量であるかもしれないし、常識という楯を用い、自己の見解を多数に委ね、非常識として、自己研磨による見解を押さえつけているだけなのだと、そういう思考だってあってもいいはずである。

 もとより常識などなく、そこにあるのはいくつかの欲求のパターンと、多数少数の関係しかない。自己の欲求を通すがために、他人の欲求を常識という多数派の解で抑えつけている。ただそれだけにすぎないのじゃないか。結局は排泄物なんて、触れたくない!という自己の欲求を、「かくあるべし」という風潮を利用してスカトロを排除しているに過ぎないのだ。かくあるべし」と答えるのは楽だけれど、それは力による支配と何が違うのだろう。1個の欲求と1個の欲求をぶつけ合い、解決案、妥協点を探すことに意味がある。常識とは多勢で、卑怯なものだろう。そんなこともわからないの?常識でしょ、これぐらい。マジでみんなそれくらい知ってるよ?嫌だわー、常識ない人って。よくわからないけどそんな感じでしょ。マジで。
NEW !
テーマ:
あのメッセージの文章のどこをどう見て、おかゆが晒したという解釈に至るのか。

BANしてから、あいつが何もかもおれのせいにするのは分かってたけど。

長谷川穂積さん、頑張れ^p^
NEW !
テーマ:
西岡利晃VSノニト・ドネア Sバンタム級世界タイトルマッチ。

見たところ、オッズはドネア選手に傾いてるようですね。今まで戦った選手、モンティエル選手も相手が出てこないと思ったときに、ドネア選手の早い反撃でやられてますからね。ドネア選手のラッシュは凄まじいけど、西岡のカウンターテクニック、ディフェンステクニックだと、それだけじゃあ押しきれないと思う。どちらも一瞬でも集中力を欠けば負けの試合でしょうね。ただどうにも、判定にまで試合が流れるというビジョンは想像し難い。ドローなんてもってのほか。元ボクサーの個人的な予想では序盤~中盤にかけての、一瞬で試合が決まる。西岡選手はドネア選手のフックに気を取られすぎて右をもらうような選手ではないと思いたい。西岡選手のファンとして、ドネア選手がひっくり返るところを是非とも見せて欲しい。日本のスターが開くこの時代の先を見せて欲しい。これはどう見ても希望的観測だけどね。西岡利晃のファンですら、大勢がドネア選手の勝利を踏んでる中、自分は西岡利晃選手が勝つとしか思えない。

よって、個人的な贔屓目もあっての西岡選手のKO勝ち。




(賭けもいいね...)

Amebaおすすめキーワード