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[125 32軍司令部壕(10)]牛島中将の遺体確認2010年1月27日  このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録

萩之内元中尉 沖縄戦で重大な役割

 昭和21年1月、那覇港から最初の復員船が、ゆっくりと岸壁を離れていった。前年、だれもが体験したこともない“地獄”の中で苦しみ、体力を消耗しきった将兵たちも、長い収容所生活で回復、明るい表情に変わっていた。「やっと家族の元に帰れる」―地形を変えるほどに傷めつけられた沖縄を去る喜びは乗船している全員が同じだ。

 玉城(たまぐすく)一夫と名乗ったその男の表情にも、故郷の鹿児島に帰れるという安ど感が読みとれた。彼についての米軍の記録は、「民間人」「那覇市の出身」「朝鮮での教員の経験あり」となっているはずであった。

 しかし、それは米兵に捕まった時に、口からすらすらと出たうそだった。本名は萩之内清。もちろん民間人ではなく沖縄憲兵隊副官の中尉だ。

 現在、83歳で鹿児島で元気に暮らす萩之内さん=鹿児島市=当時を振り返ってこう言う。「米軍も憲兵隊副官と知っていながら、収容所内で泳がしていたようだ。その方が都合がよかったはず」

 萩之内さんは沖縄戦に一つの大きな役割を担った。“沖縄戦”の幕引きとなる牛島満司令官と長勇参謀長の死体の確認だ。そしてまた、こに2人を介錯(かいしゃく)した32軍副官の坂口勝中尉に古式に乗っ取った作法も教えている。

 萩之内さんと熊本県出身の坂口中尉とは特別親しかった。年齢も同じで階級も同じ、ともに剣道4段で、2人を近づける要素はそろっていた。

 萩之内さんに坂口中尉が介錯の仕方を教わりに来たのは沖縄戦に入る前だ。「坂口は介錯は憲兵がやるものと思っていた。『バカ言え』と言うと、「古式に乗っ取った介錯はどういうふうにするのか』と聞いてきた。私の知っていることはすべて教えた。米軍上陸のずっと前で1、2月ごろと記憶しているが、坂口ははるか前から、その日のあることを予知していた」と萩之内さんは言う。

 萩之内さんが捕虜になったのは6月中旬、玉城村内の壕。知念方面への脱出の機会をうかがっていた時だ。「部下に勝連准尉、平良曹長など憲兵隊10人ほどがいて、壕の中は民間人も20人ぐらい入っていた。私は脱出には軍服でなくセルの着物に着替えていた」

 部下たちと別れて民間人として収容された萩之内さんに、米軍の情報将校が不思議とひんぱんに接近してきた。「その時から分かっていたと思う」と萩之内さん。

 その情報将校は、萩之内さんに「牛島は戦死しないで潜水艦で逃げた」と6月20日ごろから何回となく繰り返し、萩之内さんはそのたびに「そんな方ではない」と否定した。

 6月25日ごろになって、「牛島を知っているなら死体を確認できるか」と言い、萩之内さんを摩文仁へ連れ出した。

 「“首実検”に連れて行かれたのは海岸側司令部壕の下方3、40メートルのところ。同じ場所に並べるようにあり、くぼ地に石を積んで埋めてあった」と言う。沖縄戦を指揮してきた2人の軍首脳の最期の姿だった。

 遺体の一つは首がなかった。略章をつけた軍服に白い手袋。坂口中尉に介錯の作法を教えた萩之内さんは、それが故郷の先輩でもある牛島司令官と判断するのに時間はかからなかった。

 もう一方の遺体は敷布2枚をつなぎあわせた袋の中に入っていた。ズボンは軍服だが上着はなく白い肌着を着ているだけだった。その肌着には墨で「忠即■命 ■忠報国 長勇」と書かれていた。

 そうした経験から萩之内さんは、米陸軍が撮影した両将軍の自決現場の写真を疑問視する。沖縄戦はまた多くの将兵たちが、自らの手で命を断った戦争でもあった。その写真の現場がどこであるのかを断定するには今となっては困難だ。

(「戦禍を掘る」取材班)

■は「儘」の人偏がないもの

1984年3月26日掲載


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