2012年10月12日

歴史学 頭としっぽはくれてやれ


尖閣や竹島を「くれてやれ」などという主張ではありません。食べられて栄養になる歴史の部分を知識に取り入れるべきであるという主張です。

さて、本当に聖徳太子は実在したのでしょうか。教科書に記載された内容は正しいのでしょうか。

以下に、実に分かりやすく解説してくれているサイトを紹介します。

聖徳太子は暗殺されていた!?(封印された日本史)より
<引用開始>
以上のように、「十七条憲法の構成」と「先代旧事本紀の内容」を見れば、
特に、聖徳太子が特別、仏教を推進していた訳ではないと言う事が分かるのです。
聖徳太子は、どちらかと言えば、「神道派」であり、
当時、導入されていた「仏教」や「儒教」との闘争が、凄まじかったので、
それぞれが互いの宗教を敬うべし、、、と言う意味で、三法を説いた訳です。

「和を以て貴しとなす」という聖徳太子の言葉も、
実は、「儒仏神」三つが互いに尊重して、仲良くするように・・・との教えなんです。

この事を、知らないと、日本の歴史、、、特に宗教史は語れないのです。。。
<引用終了>
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_112.html

私は、大化の改新以前の歴史は「頭としっぽ」の部分であると考えています。その中で重要なことは、「儒教」「仏教」「神教」が共存していたという史実です。これは、かねてから私が主張している「日本は、中国や朝鮮からの渡来人と共存共苦していた」ということを裏づける確たる証拠です。

645年の大化の改新で、都を中心とする駅馬の設営など、国家としての「戦略」が打ち出されました。まさに渡来人も参加した知恵の結集だと推察します。

ウィキペディアより
<引用開始>
律令時代の移動伝達の構想として、駅路と伝路からなる交通網を維持し、それらを利用した駅伝制を整備することにより中央集権を機能させようとしたことが伺われる。すなわち大化2年(646年)の詔勅に「初めて京師を修め、畿内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置く」(『日本書紀』)とあり、大化の改新に際して、政治・軍事と共に交通制度の全国的整備を行うことを意図したようである。
<引用終了>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E9%A6%AC

時の朝鮮半島に目を向けてみましょう。日本で言われる「三国志」の時代です。朝鮮民族は度重なる中国からの侵攻で歴史的文献をすべて焼失させられたといわれています。中国民族は、その国の文化まで破壊してしまうのです。

結果から物事を捉えると分かりやすいと思います。百済は660年に滅亡してしまいます。大化の改新が645年ですから、当時の百済の王族が大陸の文化と技術を従えて日本を目指したことが目に浮かびます。

さらに、です。その8年後の668年には高句麗が滅亡します。高句麗の王は、若き王子若光一行を日本に送りました。666年のことです。

時は流れ、50年後の716年、渡来した高句麗人に「高麗郷」が与えられました。現在の埼玉県日高市や飯能市、入間市、狭山市などの全部または一部地域です。

何がそうさせたのでしょうか。朝廷(天皇を中心とした時の政権)は、なぜ、高句麗人にいわば「自治区」を与えたのでしょうか。

この50年が私は「頭としっぽ」ではない部分、つまり頭の栄養「教養」を高める部分の一つだと考えます。

今、日本も、中国も、韓国も、正しい歴史を教えているとは思えません。地球市民としての子供たちの「教養」を高めるためには、私は、日本人は朝鮮人とは共存共苦の精神で国づくりを進めてきたことを、正しく認識させることが肝要と思います。

2012年06月23日
高句麗からの渡来人は人知れずに母国に帰っていった
http://dream333.seesaa.net/article/276868717.html


2012年08月18日
日本人と朝鮮人、助け合ってきた歴史を直視しよう
http://dream333.seesaa.net/article/287177543.html


posted by S・C・ NAKAMURA at 19:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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