2011年6月9日3時5分
原発事故が起きた場合に中央省庁と自治体、電力会社が現地で対応を調整する仕組みを定めた政府の「原子力災害対策マニュアル」が東京電力福島第一原発の事故では想定外の事態が重なり、ほとんど活用されなかったことが分かった。政府は全面改訂に着手した。
朝日新聞が入手したマニュアルは1999年に茨城県東海村で起きたJCO臨界事故後、経済産業省を中心に策定したもので、A4で123ページにわたり関係機関の対策を細かく規定している。原発近くの指揮所に対策本部を設けて省庁や自治体、電力会社などが情報を共有。首相官邸に事故処理や避難指示について現場に即した対策を提言する狙いがあった。
ところが、今回は指揮所が被災してマニュアルの根底が崩れ、関係機関は初動段階からマニュアルに頼らず対応するしかなかった。
菅直人首相が3月11日に緊急事態を宣言した直後から、現地対策本部長となる経産省の池田元久副大臣をはじめ各省庁や東電の幹部らはマニュアル通り、福島第一原発から約5キロ離れた大熊町にある指揮所「オフサイトセンター」に集合。ところが指揮所は停電して非常用電源設備も故障し、原子炉の圧力や温度、原発施設の放射線量などの基礎データを把握できなかった。電話も不通で、官邸や福島県、市町村とのやりとりは困難を極めた。
機器の操作や広報対応を担う「原子力安全基盤機構」の職員や周辺市町村の職員は、指揮所にたどり着けなかった。出席者が集まり次第開く「協議会」は同日中に開催できなかった。
このため首相官邸は指揮所を通さず、東電本社から情報を直接収集し、冷却機能回復やベント(排気)を巡って指揮。福島県は東電本社に直接問い合わせ、独自の判断で半径2キロの住民に避難を指示したが、菅首相は33分後に半径3キロ圏内の避難を指示した。
翌12日以降、指揮所の機能は徐々に回復したが、放射線量が14日時点で1時間あたり12マイクロシーベルトと極めて高いことが判明。15日に閉鎖し、現地対策本部を福島県庁に移した。マニュアルは事故が1週間程度で収束すると想定していたが、長期化で人員確保はままならず、現地対策本部長は池田氏ら経産副大臣・政務官4人が交互に務めた。
政府はマニュアル内容の不備が指揮命令系統の乱れを生み、初動の遅れを招いたと判断。事故調査・検証委員会が来夏に出す検証結果を待たずにマニュアルの改訂を急ぐ。(鈴木拓也、山岸一生)