成功は人々を虚栄、自我主義、自己満足に陥れて台なしにしてしまう、という一般の考えは誤っている。あべこべに、それはだいたいにおいて人を謙譲、寛容、親切にするものである。失敗こそ、人を苛烈冷酷にする(サマセット・モーム)
「月と六ペンス」のサマセット・モームの言葉。これ至言だと思います。僕もこれまで様々な成功者に会ってきましたが、みなさん驚くほど謙虚な方々ばかり。その理由を考えてみたいと思います。
常に自分に満足していないから
僕にとっての正しい努力。それはズバリ、変化することだ。昨日と同じ自分でいない。そんな意識が自分を成長させてくれる。
成功者が成功者たる理由は、彼らが常に自らを高める努力をしているからです。自分の現状に満足することはなく、常に自分が不完全な状態だと認識します。成功者とは、半年後、自分が今よりも成長している姿を、概ねクリアにイメージすることができる人たちです。
自分に満足していなければ、虚栄、傲慢、自己満足に陥ることはありません。彼らのアンバランスなまでの謙遜は、ときに不快や誤解を招くこともあるでしょう。
彼らは自分の限界をほぼ正確に把握し、同時に自分の可能性を心底から信じています。自分に不満足がゆえに、彼らは常に「自分は未熟者である」というメッセージを周囲に発信することになります。
周囲に自分よりもすごい人が無数にいるから
ずば抜けた人材の周囲には、やはりトップクラスの人材が集まっています。絶対的にすごい能力を持っている人でも、環境によっては、相対的に凡人になってしまいます。
例えば「帰国子女」はいい例でしょう。彼らが普通に生活をしている分には「英語がペラペラですごい人」ですが、ICUや早稲田の国際教養学部など、英語を話すことが「前提」の環境では、その優位性は相対的に消滅してしまいます。
僕も「ブログで毎月20万なんてすごいですね」としばしば言われますが、この業界は上には上がいるので、マジで僕は低レベルなんです。本気でやってるのに20万なんて、むしろ成績が悪い方です。こういう謙遜を嫌う人もいるかもしれませんが、本当にそう思うので仕方がありません。
誹謗中傷や理不尽、挫折を経験しているから
何か成功をすると、無数の誹謗中傷を受けたり、理不尽な経験をすることになります。また、成功の裏には得てして挫折も隠れています。こうした経験は成功者に、寛容や親切といった素養をもたらします。
これは分かりにくいかもしれないので、例え話で考えてみます。そうですね…例えば「ホリエモン」で考えてみましょう。
堀江さんは大成功を収めた人間ですが、現在は犯罪者として収監されています。
僕は堀江さんを詳しくは知りませんが、「理不尽な罪で収監される」という経験をした彼は、小悪や瑕疵に大して、非常に寛容になっているのではないか、と想像します。
例えば僕が何か社会的に糾弾されうるミス(例えばメールの誤送信で個人情報を漏洩してしまった)をしたとします。そうしたミスは、直接の被害を受けていないもネット上の善人たちから猛烈に叩かれます。僕は自信を失い、ブロガー稼業をやめて田舎にひきこもりたくなります。
そんなとき、想像に想像を重ねる話ですが、おそらく堀江さんだったら「何そんな低次元なことで騒いでるんだ、何をそんなことで凹んでいるんだ。小さすぎるぞ、早く立ち直って頑張れよ。俺なんて収監されたぞ」という態度を僕に対して抱くと思うんですよね。
状況は違いますが、批判されて凹んでいるとき、実際にそういうアドバイスを「成功者」から何度か受けたことがあります。
彼らは度量が大きいのです。大きな挫折や理不尽を経験した彼らに接していると、小さな瑕疵で大騒ぎしている善人たちと、小さなことで凹んでいる自分がバカらしくなってきます。
以前ライフネット生命の出口社長と対談をさせて頂いた際に「アンチとはどうやって対峙しているんですか?」と質問したのですが、サラッと「何かを変えようとしたら、アンチは絶対出てくるものなんです。歴史もそれを証明しています」と答えてくださったのが印象的です。「保険料を半分にします」と宣言した出口さんも、業界からは相当嫌われたと思われますが…。
出口さんぐらい大きく、長期的な視点で構えれば、ミスや瑕疵、大罪すらも、その人のストーリーの一部として捉えられるようになるでしょう。
失敗こそ、他罰的な姿勢をもたらす
成功は人々を虚栄、自我主義、自己満足に陥れて台なしにしてしまう、という一般の考えは誤っている。あべこべに、それはだいたいにおいて人を謙譲、寛容、親切にするものである。失敗こそ、人を苛烈冷酷にする(サマセット・モーム)
再び名言に立ち返りましょう。失敗が人を冷酷にする、という指摘も合理性を持つものです。ここでの「失敗者」は、劣等感を抱いている人々です。
「自分はこんなに頑張っているのに、認められない」「あいつは大して努力していないのに、苦労も知らないのに、もてはやされている」そういう「失敗感」にもとづく呪詛を、彼らは唱え続けています。
彼らは成功者に嫉妬し、没落を願います(嫉妬していると認めることはないでしょうが、嫉妬をしていなければ、本来成功者に対して無関心になるはずです)。そのため失敗者は、自己を高めるよりも、成功者のあら探しに精を出します。他罰的な性向を強めていくわけです。
失敗者が小さな成功を収めたとき、それは彼らにとって凱旋に値する大きな成果です。が、周囲の人は既に彼に対して信用を失っていることが多く、また、それらの成果は得てして絶対的に小さいため、市場はそれほどその成功を評価しません。そうして彼らは「なぜ俺の成功を評価しないんだ!」とますます憎悪の念を強め、呪詛を唱え続けます。
こういうネガティブな状態を抜け出すには、彼が賛否を呼ぶだけの作品を世の中に出す必要があるでしょう。自分がこれまで投げてきた石を、自分が他者から投げつけられることではじめて、彼は自分の欺瞞とエゴに気付くのです。
しかしながら、この種の「苛烈冷酷な失敗者」は賛否を呼ぶこと、規範を逸脱することに、驚くほど躊躇します。潜在的に、否定されることを恐れ続けているわけです。逸脱を叩き続けてきた彼ら自身が、規範を逸脱することは、自らの過去を否定するプロセスだからです。
つくづくニーチェの名言「善人たちはすべて弱い。悪人たりうるほど強くないゆえに、彼らは善人なのである」は真実だと思います。彼らは自らが叩かれるのを恐れ、結局は他罰的な善人になっていくのです。
…という感じで、成功者、失敗者について考えてみました。
お分かりの通り、この二つを分けるのは、成功・失敗の度合いではなく、本人の世界の捉え方です。
皆さんは成功を通して、人への冷酷さを強めていますか?それとも他人に優しくなることができていますか?ぜひ考えてみてください。
関連本。サマセット・モームによる、画家のゴーギャンをモデルにした歴史的な傑作文学。…大学時代に読んだのですが内容を忘れたのでもう一度読み直します。面白かった記憶だけ残っています。
このテーマには、善人=弱者、という視点も絡んでくると思います。これ名著なのでぜひ(ブックレビュー)。