(海軍)砲術の進歩

(海軍)砲術の進歩

(海軍)砲術の進歩

艦砲による射撃はとにかく命中しない。帆船の時代では、舷舷相磨しながら、舷側に置かれた駐退機のない砲で打ち合った。ところが、300メートルにまで近づいてもなかなか命中しなかった。

艦砲に駐退機(Recoil)が導入されたのは1850年代だが、それでも砲術(Gunnery)が進歩したわけではない。普墺戦争におけるイタリー・オーストリアの間で戦われたリサ海戦(Battle of Lissa1866)では衝角(Ram)戦術でオーストリアのテゲトフ提督は勝利した。

その後、主砲(MainArmament)と称される10インチ前後の砲を上部甲板の砲塔に納める形式の艦が流行したが、初め主砲は、脅威を与えることだけが目的で、砲弾を命中させ火力によって敵艦を破壊できるものとはされていなかった。

この頃の代表的な海戦は日清戦争における黄海海戦(1894)である。帝国海軍は12インチ砲など大口径砲をあまり役立たずとみて、舷側のケースメートに設置された6インチ(または4・7インチ)速射砲をもって砲戦で勝利したわけである。

日清戦争黄海海戦

この時代の艦砲では口径6インチ以下の大砲には速射性があったが、それ以上では難しかった。清国艦隊の鎮遠に搭載されていた主砲は1時間(!)に3発しか発射できなかった。

これに対し6インチ砲は1分に5〜6発発射できた。そして、軍艦の喫水線上の舷側は、複合鋼板(鋼と鉄を組み合わせたもの)でしか装甲できず、ハーベイ鋼と比較すれば2倍の厚さで同等の能力だった。このため、6インチ榴弾で、ほとんどの舷側を貫通することができた。

6インチ砲弾は30キロ前後であり、一人でもつことが可能だった。12インチ砲弾は、砲弾は300キロ、装薬は約90キロに達する。クレーンで引き上げ、砲身の中心線にうまく砲弾を並べることが、動揺し狭い砲塔内では容易でなかった。

日清戦争の黄海海戦は砲戦のみで勝敗の帰趨が決定された、人類史上初めての戦いとなった。帝国海軍がどこから着想を得たかは、はっきりしないが、初めから快速船を用意し、よく準備された艦隊を揃えていた。巨艦をもって衝角で体当たりを狙っても、より速い敵には無効である。

プリドレッドノート

日露戦争では、主砲の速射性は2分に1発まで改善されたが、今度は別の問題が発生した。連射されると砲身が赤熱し、腔発が多発した。この問題は信管誤作動防止装置が発明されるまで、解決がつかなかった。

苗頭

近代戦艦出現以降の砲術で最大の問題となったのは苗頭(びょうとう:Deflection)である。この言葉は、稲穂が風にそよぐ様から来たが、当初(江戸時代末期)は施条(Rifling)された艦砲から発射された弾丸が飛行中に横にずれる現象を指した。帝国海軍であれば、施条は右回転を与えるようにつけられているから、砲弾飛行中、やや右にずれることになる。だが、これは1000メートル以内の据え切り遠距離砲戦で問題になったにすぎず、語源はすぐ忘れられた。

1978年(明治11年)の砲術教範にこの言葉が既にあり、艦の中心線から何度で射撃すべきか決定するさいの数字をさした。

日清戦争の時の射撃法は「独立打ち方」(IndependentFiring)と呼ばれた。旋回手(Trainer)が指定された目標にたいし、自分の弾丸が命中した、またははずしたのを確かめ、次弾の狙いをつけた。距離が3000メートル以内のため、砲手は自分の発射した弾丸を自分の目で追うことが出来た。この方法は速射砲登場とともに発生したため連続射撃(ContinuousFiring)と呼ばれた。

5000メートル以上の砲戦となると、連続射撃は不可能で、斉射(Salvo)が導入された。斉射とは、一定のタイミングで、4門以上の艦砲を同時に発射する方法である。斉射をやるためには、旋回手や仰角手(Layman)のカンや暗算に頼ることはできなくなり、どこかで、苗頭を計算する必要が出てきた。

元来、艦砲の狙いとは左右(Bearing)と高低(Elevation砲の仰角/距離を決定する)でしかない。そして、これは機械の目盛りで決定される。艦砲の命中率とは、訓練を沢山して、目を澄まし心を沈着にして狙いをつければ向上するものではない。つまり、小銃の射撃練習のようなことをして、練度があげても、弾はよく当らない。

斉射において命中させるには、まず苗頭を正確に把握する必要がある。

苗頭とは上図における「β−α」である。

まず、白艦はCの位置で黒艦を射撃したいとにする。Cにいるときには黒はAの位置に見えるのだが、実際には(A)灰色艦にあるものとして射撃せねばならない。これはクレー射撃をやる時、的の飛んで行く少し先を狙わないと命中しないのと同じ理屈である。

そして、(A)にいた灰色艦に命中したとする。すると次の射撃のとき(6インチ速射砲であれば1〜10分後)、旋回手は今の砲位置から左右どの程度変更せねばならないだろうか?

接近戦であれば、旋回手が敵艦を視認したうえ、進行方向すぐ先に砲身を定めればよい。敵艦の動きがクレー射撃程度の的程度であるからだ。だが、5000メートルを越えると、弾丸の飛行時間は20秒を越え、苗頭の計算は必須である。なぜならば、両方の艦ともに15ノット=時速25キロ程度で動くからである。

このため、幾何学や三角関数の教育をうけた砲術長をトップとした砲術将校が、方眼紙の上に線を引き、苗頭を算出した。実際には砲のグループ別に、例えば主砲、左右舷側(BroadSide)の6インチ砲、といった三つ程度に分かれ、分隊長が観測員のデータにもとづいて計算した。

これが、砲術の中央管制(CentralFireControl)といわれるものである。5000メートルを越える距離で砲戦を行おうとする海軍は、これを必死になり研究した。中央管制は斉射法(SalvoFiring)と表裏をなすものである。つまり、砲術将校(=分隊長)を砲毎に置くのは現実的ではない。

日露戦争の翌年、逓信省が売り出した日本海海戦(=海軍記念日)の記念絵葉書。戦艦敷島の主砲斉射である。前後連装12インチ主砲4門だが、仰角もタイミングも見事に揃っている。これからすると、6インチ副砲と主砲は別に斉射を行ったものと推定される。ただ写真修正があった可能性も否定できないが、戦後でもあり、斉射法自体は軍機ではなくなったのだろう。また、「撃てー」と艦隊動揺のタイミングは頂点から瞬間下ったところとわかる。

帝国海軍の艦船には砲手のそばにはブザーがあり、二回ブッブーと鳴ると「準備」、ブーと鳴ると「撃てー」を意味した。そして旋回手は、「準備」の前に砲弾を装填した砲身を苗頭の指示をうけ、修正しなければならない。引き金を引く砲手は、単にブザーに合わせるだけだ。そして「撃てー」の合図で、どちらかの舷側の6インチ砲は一斉に射撃した。

日露戦争では、日本の主要艦艇にはバーアンドシュトラウト社のトランスミッターが装備されており、中央管制により、目標・距離。苗頭などの情報が、各砲台・砲塔にある文字盤に伝えられた。合戦中は騒音のため、伝声管や電話は役にたたない。これがため、トランスミッターがなければ、中央管制は不可能である。

斉射法(公算射撃)

このように、5000メートルを越える海上の砲戦では、斉射は必須である。砲手めいめいが方眼紙に書き込むのは現実的ではない。ところが、現在にいたるも誰が斉射法を発見したのかはっきりしない。これは当然のことで、当時海軍砲術というのは、各国にとり死活的重要な国家機密だった。

ただ、どの艦隊が実戦で初めて実行したのかははっきりしている。すなわち日露戦争の黄海海戦の連合艦隊ある。この時、砲戦は9000メートルの遠距離で発生し、双方とも命中弾を得ている。またイギリス海軍は、パーシー・スコットが鯨島砲術学校の校長となり、速射砲による継続射撃の実験を行い、本人は斉射の実験を1901年からしばしば試みたと回想している。だが、砲術というのは特殊兵科とされ、専門以外の人間がなかなか首を入れられない。つまり、英海軍以外は記録すら残していない。

地中海艦隊司令官フィシャーはスコットを買って抜擢したのだが、フィシャーには敵も多く、なかなか支持を得られなかった。結局、イギリス海軍は日露戦争の黄海海戦の艦船武官の報告により、斉射による長距離射撃が実際にできることを初めて知ったわけである。

実際のところ、独立打ち方ではバラバラのタイミングで発砲するため、爆風が常時発生し、互いに照準をとることも困難である。つまり、長距離実弾演習をやれば独立打ち方が成立しないことは誰でも、どこの国でもわかる。そして、期せずして日露両軍が斉射を実施したことは、ドイツ、フランスなどにおいても、この射撃法が研究されていたことは十分想像できる。

加藤寛治(1870〜1939)福井藩士直方の子。直方は橋本左内の弟子にあたる勤王家。1891年(海兵18期)、海軍兵学校を首席で卒業した。日露戦争では朝日砲術長ののち三笠砲術長。ほとんど独力で斉射法を編出した。第一次大戦では南遣艦隊司令官として、ANZAC部隊の輸送にあたった。その後軍令部長となったが、軍縮条約に反対し、帷幄上奏を試み罷免された。

しかし、日露戦争の黄海海戦におけるロシア旅順艦隊の命中率は連合艦隊を大分下回った。これはなぜかといえば、旅順艦隊にはバーアンドシュトラウト社のトランスミッターが装備されておらず、砲術長から各砲台・砲塔への連絡方法が不十分だった。また、弾着パターンを分析するのではなく、一弾試射により、距離の見当をつけるやり方だった。これは米西戦争のアメリカ艦隊と同一である。

すると「斉射法を初めて実戦でやり、勝利した男」の栄冠は戦艦三笠砲術長加藤寛治に与えられるべきだろう。

日本の連合艦隊は、黄海海戦で6インチ砲斉射による試射を実行し、更に主砲12インチ4門による斉射を実行し、ツェザレウィッチに同一斉射による夾叉で、三発を同時に命中させた。このうちの1弾は、露天艦橋にいた司令官ウィトゲフトの五体を飛散させた。

斉射法に関し、この時点で日本はアメリカ・ロシアより優れ、イギリスを圧倒的に離していた。

夾叉

ここで、苗頭すなわち左右はよいとして、距離はどう把握するのだろうかという疑問が生じる。ところが、5000メートル以内の砲戦で、距離はあまり問題とならない。すなわち艦砲とは、ほとんど水平に発射されるもので、仰角5度として、5000メートルの距離での放物線の頂点の海面からの高さは60メートル以下である。

艦砲は砲身が長く、また装薬が多量なため初速が速いためだ。近代戦艦の高さは10メートルはあるから、500メートル程度近づいたり(Closing)離れたり(Opening)しても、仰角を変えずとも命中するわけである。つまり、距離の失敗とは距離が不足(Short)することである。

距離の確認は、まずは、測距儀で行うのだが、日露戦争のときでも、その能力は最大測定距離6000メートルに過ぎず、距離認識の第一の方法は「試射=弾着確認」だった。


第一次大戦以降、試射は主砲で行うのが普通だが、日露戦争のときは6インチ砲だった。これは速射性があるため、短い期間に試射を終了させることができたためだ。

1回目の試射で命中させることは、なかなかできない。ただ、自分の艦だけでなく他の艦も試射も行うため、判別が難しいこともある。このため砲術長の背後には必ずストップウォッチをもった士官が、発射から弾着までの時間を予め予測し、その時間、例えば25秒後になると「弾着」と叫んだ。

一般に、弾着観測員(=砲術長Spotter)は、弾着が標的の左右に落ちたことは明確に判別できる。通常、試射は偶数発射するが、その場合の弾着位置は左右に梯団状に二つのグループに落ちるよう予め調整してある。グループ間の距離は150メートル前後である。これは戦艦や巡洋艦の長さが150メートル前後のためだ。ただ、帝国海軍より、英海軍はグループ間距離は長く250メートル程度だった。これは装薬の品質管理や砲の設置精度が日本の方が上回り、狭くしても弾着位置の錯綜が少なかったためだ。

そして、難しいのが弾着の確認作業であって、左右は別にして、前後はわかりにくい。距離を見通すことは、ほぼ不可能だが、どこの世界にも才能に恵まれた人物はいて、職人芸を競った。ただこれも兵士の職人芸ではなく、40歳前後の双眼鏡をもった少佐砲術長に課せられた職務だった。この弾着観測が命中率の死命を制する。

そして、苗頭を計算したのち距離を調製する。日露戦争当時は、カンで(接近か離反は間違えてはならないが)「目盛り1つ高め」とか「低め」と分隊長に要求する。高めとすれば遠距離となる。そして二回目の試射では左右の見当はつけねばならない。

そして、三回目前後で苗頭(左右)が的中すれば、命中弾を与えることができる。帝国海軍はこれを夾叉(きょうさ:Straddle)と呼んだ。夾叉とは試射弾の一つでも命中すればよいわけだが、砲術長が梯団のいずれの弾丸が命中したのか確認できれば、敵艦の位置はその時点でほぼ正確に把握できたことになる。夾叉があれば、次に連続した射撃に移ることになる。

ドレイヤー・テーブル

以上が日露戦争の斉射法であるが、その後の変化も著しい。すなわち、ユトランド海戦(1916)では英独海軍は2万メートルから砲戦を開始した。こうなると艦砲の仰角は15度を越えることになる。すると、より正確に距離を測らねばならない。そして測距儀では、標的艦の速度までわからない。このため時間により、どの程度距離が変化するかを測定する必要がある。

そのうえ、苗頭を紙の上で定規を走らせながらやっていた作業では砲の速射性の向上に追いつかない。機械化せねば、1万メートル以上の遠距離射撃は不可能である。

ドレイヤーAdmiral Sir Frederic Dreyer 1878-1956
ドレイヤーは第一次大戦ではジェリコの幕僚をつとめ、ユトランド海戦に参加した。戦間期は戦艦フッド艦長のあと支那派遣海軍司令官をつとめ、それを最後に引退した。第二次大戦勃発とともに再役し、海軍航空隊司令官などをつとめた。

こうして生まれたのが、距離時計、ダマレスク(Dumaresq)、ドレイヤー・テーブル(DreyerTable)などのアナログ計算機である。中心となる機械のドレイヤー・テーブルの名前はドレイヤーからつけられたが、実際にはポーレン(Pollen)が発明した。ポーレンは民間人であるが、苗頭計算を砲術将校が方眼紙の上で線を引きながら計算しているのを聞き、アナログ計算機ができないかと考えたものである。

だが英海軍省は、機密保持の目的で特許料を支払いドレイヤーに別に機械を作成させる道を選んだ。このため、英海軍以外ではポーレン管制機と呼ばれるのが普通である。

日露戦争時代の5000メートル前後の砲戦でインプットすべき要素は、敵艦速度・方向、原始位置(距離)、自艦速度・方向が必要なだけだ。これらの要素のうち重大なものは、変距率(彼我の距離の時間による変動割合で、時速・ノットで表示される)で、距離時計(RangeClock)が必要なる。

ところが距離2万メートルになると、より正確に距離を把握せねばならない。なぜならば、仰角を上げれば、落角も大きくなり、距離をはずすと命中しない。ゆえに、新しく他の要素もインプットせねばならなくなった。

また、変距率自体は距離時計(日露戦争時、愛知時計が国産化した)で求められるが、それをインプットすることにより、予定時間後の苗頭と距離を予想せねばならない。必要なデータをインプットすることにより、暫定苗頭(PredictedDeflection)や暫定距離(PredictedRange)を算出することができるのがダマレスクである。

ところが、長距離射撃では従来にない様々な要素が関係するのがわかってきた。すなわち、風速・風向・温度・湿度・地球の丸み・地球の自転速度などである。これらのデータを苗頭・距離に反映させるための暫定的な計算も必要となり、風力ダマレスクなどが考案された。

そしてドレイヤー・テーブルは、さまざまなインプットを得て、より正確な苗頭・距離を算出できるようにしたものである。


戦間期イギリスの戦艦に搭載されていたドレイヤー・テーブル
長さは約4メートルある。マーク5型で中甲板にある中継所に設置された。

第一次大戦における砲術

このように第一次大戦における砲術は日露戦争時とは様変わりし、また6インチ砲中心の砲戦から主砲中心の砲戦に移行した。

砲弾もドイツ海軍を中心に撤甲弾の使用が流行した。これがユトランド海戦におけるイギリス巡戦3隻の撃沈につながったと評するむきもあるが誤認である。すなわち、イギリス巡戦の沈没は主砲弾が砲塔に連続して命中して発生したものである。

イギリス艦船の主砲弾薬庫に誘爆防止扉がなく、複数弾命中のさいの考慮が欠けていたためである。イギリス海軍は斉射法が大幅に命中率を向上させることについての配慮が欠けていた。

また、撃沈と大破がそれほどの違いがあるかといえば、人的な損害以外あまり関係しない。1年を越えるような大修理を要しては、新しく艦をつくったほうが、より新型のものができる。ドイツ巡戦はユトランド海戦でいずれも大破し、休戦まで出航できなかったことも考慮されるべきだろう。

それにつけても、一九世紀に一回も実戦を経験したことがないドイツ海軍が、砲術の進歩に追いつけたことはドイツの科学力を示してあまりある。

戦間期において、16インチ主砲をもつ戦艦が出現した。こうなると、砲弾重量は900キロ(12インチでは300キロ前後)を越える。砲術の要素として、砲腔摩滅を考えねばならないことはともかく、これならば、第一次大戦巡戦の装甲程度は炸薬を用いずとも射洞できた。戦間期において、第一次大戦以前に建造されたドレッドノートはほとんどスクラップとされた。

また、このあまりにも精緻なアナログ砲術に、大半の国は追随できず、第二次大戦で戦艦をもつことができた国は日米英独仏伊の六ヶ国しかなく、これは現在の核保有国より少ない。また1941年、イギリス海軍は戦艦すべてにレーダーを配置したが、レーダーは1944年まで距離測定のみに用いられ、このアナログ砲術は維持された。

現在では、アナログ砲術、すなわち苗頭と距離による砲術は記憶に残されたものにすぎず、完全に歴史となっている。


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