11
Jul
以前、いじめ問題で取材した小学校の先生は、担任するクラスを「海」にたとえた。教壇から毎日見ていると何でも分かったような気になってしまう。でも見えているのは何十分の一にすぎない。子どもの世界という広くて深い海の中で、何が起きているのか。把握するのは本当に難しい、と▼この先生は深刻ないじめに気づかずにいた。だが気づいたあとが立派だった。いじめとは何か、なぜいけないかを、時間をかけてクラスに浸透させた。いじめは許しませんという真っすぐな意思が、子どもの心に響いていった▼ひるがえって大津市の場合である。中2男子の自殺をめぐり、教師はいじめを知っていたが「見て見ぬふりをしていた」と、複数の生徒がアンケートで答えていた▼片や市教委は「担任は、廊下でプロレスの技をかけられたりするのを目撃したが、いじめの認識はなかった」と言う。「自殺の練習をさせられていた」など聞き捨てにできない情報も複数あったが、早々と調査を打ち切った。輪郭と真相はぼやけ、「事なかれ主義」といった批判も飛ぶ▼少し救われるのは、全校生徒へのアンケートのいくつかの答えだ。「自分も見て見ぬふりをしていて、これも立派ないじめと気づいたときは、本当に申し訳なかった」。悔いはみんなの糧となろう▼〈昭和にもイジメはあった同窓会の返信葉書に欠席と記す〉の一首を、何日か前の本紙栃木版で見た。誰ひとり幸せにしない行為である。許さぬ意思を分かち持ちたい。
Filed under:Uncategorized
Tags: