これまでの放送
~特攻 謎の遺族調査~
生身の人間が飛行機もろとも敵艦に体当たりする特攻。
太平洋戦争末期、5000人を超える若者が死ぬことを前提とした命令で出撃し、命を落としました。
1000人を超える隊員の遺書。
終戦直後遺族のもとから回収され、そのままになっていたことが分かりました。
「父様、母様、お元気で。
お体大切に」
「父と一緒に酒を飲んでみたい」
これらの遺書は、特攻隊員の遺族に対する調査で集められ、海上自衛隊の倉庫にしまい込まれていたのです。
海上自衛隊 海将補
「(調査は)誰の意図なんだ、いつ発案したんだ、どういう形でしたんだ。
細かいところは分からない」
取材を進めると、遺書を回収していた謎の人物の姿が浮かび上がりました。
遺族
「何だか秘密の機関とかだっていう話は聞いたんだが」
誰が、何のために遺書を集めたのか。
これまで存在が知られてこなかった特攻隊員の遺書。
今夜は、その謎に迫ります。
遺書が保管されていた海上自衛隊第一術科学校です。
60年近く、この施設の倉庫の奥深くにしまわれていました。
今、整理が始まったばかりです。
誰が、どんな目的で調査をし、遺書を回収したのか。
海上自衛隊にも記録が存在しないと言います。
海上自衛隊第一術科学校長 鍜冶雅和海将補
「まさに空白部分の資料だというふうに思います。
67年経った我々が、どうなんだと探っても探っても、たどりつけない暗闇、空白の部分は、依然として残ってる」
私たちは資料の写しを基に、調査の対象となった遺族を取材することにしました。
多くの遺族とは連絡すらつきませんでしたが、ようやく、1人の隊員の遺族に会うことができました。
今井アサ(いまい・あさ)さん84歳です。
調査資料によると、アサさんは神風特別攻撃隊、山岸啓祐(やまぎし・けいすけ)さんの妹です。
そこには啓祐さんから家族に宛てた手紙。
そして沖縄沖で亡くなった本人の遺影がとじられていました。
調査を受けた父親は、今はなく、アサさんに加え、当時、まだ幼かった弟と妹2人も集まってくれました。
「これが啓祐さんですか?」
「兄ですね。
兄ですね」
「そうですね。
7つボタンがね、光ってて、りんとした感じでね」
遺骨すら帰らなかった兄の死。
母親は悲しみから病に倒れ、死の知らせの4か月後に41歳で亡くなったと言います。
きょうだいは全国の戦友のもとを訪ね遺品を探してきました。
しかし、見つかったのはこの名札など僅かしかありません。
「結局、心を知るものというのは、何にも入ってないんですよ。
手紙1つにしてみても」
調査資料に添付されていた啓祐さんの手紙。
その写しを見てもらうことにしました。
「わー。
兄の字だよね。
兄の字だよね」
出撃の前、家族に宛てた手紙です。
「読んでみようか?」
「読んでください」
「拝復、いつの間にか花も散って、若葉の頃となりました。
父上、母上様はじめ、みんな元気でお暮らしの様子、何よりです。
小生も元気ですから、ご休心ください。
父ちゃんの仕事は忙しいとか大変なことと思います。
あまり無理をして、体を壊さないようにしてください。
秀子ちゃんも大きくなったことでしょう。
そばで草取りをしてくれることが目に見えるようです。
家の東などは麦で…青々としていることと思います。
かえるも、やかましく鳴き始めたと思います」
当時10歳だった秀子さんは、兄が自分に宛てて言葉をかけてくれていたことをこの日、初めて知りました。
「嬉しいです、なんか兄に会えたような。
頭をなでてくれた兄の手の温かさを、今、感じますね」
初めて目にした兄の手紙。
きょうだいは、喜ぶ一方で疑問を口にしました。
「タイムカプセルですよね。
67年も経っちゃね」
「何で今なんだろうという気持ちにもなりました。
それは事実です」
一体、誰が遺族への調査を行い、遺書や遺品を集めていたのか。
調査にやって来た人物と直接会ったという遺族が見つかりました。
志賀五三三(しが・いさみ)さん、82歳です。
特攻で戦死した兄、敏美(としみ)さんについて聞きたいと、昭和24年の暮れ見知らぬ人物が訪ねてきたと言います。
「歩いてきたんだ。
駅から5キロあるからね、とぼとぼ」
志賀さんの父親が、その日のことをメモに書き留めていました。
人物の名は近江一郎(おうみ・いちろう)。
特務機関の一員と名乗り、訪問の事実を口外しないよう両親に念押しして遺書を回収したと言います。
「これは何だか秘密の機関とかだっていう話は聞いたな。
特務機関というのは。
内容については、どういう事だかっていうことについては分かんない。
ま、弔問においでになったのではなかったのかなと思ってる」
近江一郎とは一体、何者なのか。
調べると1枚の写真が残されていました。
各地の遺族を訪ね歩いていた当時の近江一郎です。
神戸出身の民間人でした。
調査資料の日付と場所を調べると、5年間で全国40の道府県、およそ2000の遺族をほとんど1人で訪問していました。
この調査を陰で支援していた組織が明らかになりました。
遺品の書簡に記されていた「二復」の文字。
敗戦後、軍人の引き揚げ業務を行うために発足した第二復員省のことです。
海軍省を事実上引き継ぐ組織として、旧海軍の幹部が多く所属していました。
書簡には、この二復が近江に遺族の情報や旅費を提供し、調査を支援していたことが記されていました。
特に近江と頻繁にやり取りをしていた人物が猪口力平(いのぐち・りきへい)です。
猪口力平、元海軍大佐。
特攻作戦の現地司令部で先任参謀を務めていました。
さらに猪口元大佐の背後には海軍の最高幹部がいたことが分かってきました。
寺岡謹平(てらおか・きんぺい)、元海軍中将です。
寺岡元中将は、終戦の日まで特攻作戦を命じた最高指揮官の1人でした。
遺族調査では、追悼文を起草し、近江を通じて遺族に渡していました。
特攻作戦の指揮官、そして参謀が中心になって民間人の近江を動かしていたのです。
猪口元大佐の遺族が取材に応じてくれました。
長男の晋平(しんぺい)さんです。
占領下で旧軍人の活動が制限されていた当時、父親が近江一郎とひそかに接触していた様子を記憶していました。
「裏の方からこっそり入って来られて、庭の方からね」
「どんな話をしていたのか」
「一切そういうことは言いませんよ、それは。
だって、言うべきことでもないしね」
特攻作戦を進めた幹部が戦後、どんな目的で遺族を調査し、遺書を回収していたのか。
晋平さんは亡くなった隊員の慰霊に使うためだったのではないかと言います。
「英霊がやっぱり枕もとに出てくるらしんですよ。
父の場合もそうじゃなかったかと思うんですけどね。
多くの、命令した人は。
口には出しませんでしたけど、責任はずっと引きずっていたと思いますよ」
回収された遺書のその後について、1つの事実が明らかになりました。
昭和26年、特攻作戦や軍部への批判が高まっていた当時、それに対抗するように出版された「神風特別攻撃隊」。
題字を書いたのは寺岡元中将。
執筆したのは猪口元大佐と、その部下だった海軍中佐でした。
特攻が現場の兵士たちの熱望によって生まれ、出撃の志願者が後を絶たなかったとしています。
それを裏付けるものとして、本には遺書7通が引用されています。
これらは、すべて遺族調査で集められた遺書だったのです。
遺族のもとから回収された遺書がなぜ、このように使われたのか。
元海軍大尉横山岳夫(よこやま・たけお)さん、95歳です。
「神風特別攻撃隊」の本の中で、特攻の現場にいた飛行隊長として紹介されています。
みずからも部下を特攻で出撃させた横山さん。
当時の複雑な心境を語りました。
「そんなにお祭り騒ぎじゃない訳ですよ、特攻隊というのはね。
少なくともその先に、突入だから死が待ってる訳ですな」
元海軍幹部が遺書を引用して本を書いたのは、みずからを正当化するためだったのではないかと横山さんは考えています。
「“喜んで行った”と言わんとね、納まりがつかないと思うんですよ。
自分なりに納得したんじゃないですかな、理由づけというんですかな」
「間違ってなかったと?」
「間違っていても“間違ってない”と言いたくなるんじゃないですかな」
1000人を超える特攻隊員の最後の思いが記された遺書。
なんのために集められたのか。
当事者が残した記録は、今回見つけることができませんでした。
遺書は、その後、関係機関を転々とし遺族のもとに戻ることはありませんでした。
(遺書が1000通余りも出てきたことに)正直なところ、本当にびっくりしましたね。
そういう遺書がたくさん残されているということは当然知ってますし、本もたくさん出たことがあるんですけれども、こういう形でまとまってこんな大量に保存されていたというのは、本当にびっくりしました。
●なぜ家族が遺品の回収に応じたか
これは本当に一番不思議なところだと思いますね。
遺書っていうものは、普通のものと違いますから、そう簡単に第三者に、はいって言って渡すものではないんですね。
ですからそこにはやはりそれなりの力というか、一定の環境の中で渡そうと思った、そういう流れがあったんだと思うんです。
終戦直後、特攻隊員、これは本当に軍国主義の具現であるような、軍国主義の代表のようにいわれた時期がちょっとあるんですよね。
そういう中で、遺族も非常にかわいそうな環境になったことがあるわけですね。
そういうところに慰霊という形で、ぜひ拝ませてくださいというような人が来たときに、本当に自分たち遺族の心が分かってくれたというような思いがあって、そういう流れの中でいろいろなアンケートを取ったり、それから遺書を頂きたいという話が出たときに、ああ、この人ならということもあって渡したと思います。
そして渡すときに特務機関という言葉を使ってるんですね。
これは少しちょっとおかしいんですね。
そういうものは当時、無いんですよね。
ですから、いかにしてもその遺書が欲しかったという背景もちょっとあったんだと思います。
この回収っていう言葉は少しおかしいんですけども、当時、二復というのは、海軍省の後始末の組織ですけども、そのとき、終戦以来、日本の海軍っていうのは、10年経ったら海軍は復活するというふうにみんな考えてたんですね、大臣以下。
ですから、そのためにどのような海軍を作らなければいけないかという問題になったときに、明治以来の立派な歴史を持った海軍を復活させたいという気持ちがあったんですね。
そのときにですね、その中で唯一、海軍としては絶対にやってはいけない、軍としても人としてもやってはいけない特攻作戦を発案し、それを実行したという、本当に抜きがたい、心に刺さったとげのような部分があったわけです。
ですからそれを考えたときに、日本全国の遺族の手元に遺書があると、これは孫になっても、ひ孫になっても、自分の祖父は、曽祖父は、こういう形で死んだんだというのがずっと残るんですね。
海軍はそれがつらかったんじゃないですかね。
それでこの遺書を回収していけば、その慰霊も出来る、顕彰も出来ますけども、それよりも、遺族、直接の遺族としての記憶というのが無くなっていくことを期待した面があったんではないかと思っています。
●海軍復活への反発の調査も
これは、遺書の回収が目的、主目的ではなくて、本当の目的は遺族の意識調査にあったんですね。
これは非常に詳細な調査をしまして、新しく海軍がまた復活するということが、ちゃんと受け入れてもらえるんだろうかという遺族の意識調査をしまして、その中で、日本の海軍、このまま復活できるかということを考えなければいけないということで大変詳細な調査をした。
その中の一環として、遺書の回収がセットになってたんだと思います。
(正当化したいという個人的な心情も)あったでしょうね。
ただ、まあ、正当化というと、私はそこまでいうと気の毒な気がして、やはり反省があったと、非常に深い反省があって、これはもう、本当に戦時中から特攻自体、これはもうやってはいけないものだと、本当に統率の外道と言われた作戦ですから、これをやったことに対する反省の気持ち、そしてやはり亡くなった方に対する慰霊の気持ちが重なった上で、そういう作業というか、事業が行われたんだと思います。
●“遺書回収” 何を問いかける
こういった遺書が数十年、戦後ずっとこの公開されずに埋もれていたというのは1つ残念なことで、せっかくここで発見されたんで、これはやはり、すべて公開して、多くの人がこれを見て、かつての歴史というのの中にどういうものがあったかというのを、良いことであれ、悪いことであれ、どういう結果にしろ、すべてとにかく知るということが大切だと思うんです。
すべて正しい過去を知った上で、それが未来に対する本当の教訓になっていくんだと思います。