ジャーナリスト 根本かおる
 
わたしは長年、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の職員として、アジアやアフリカなどでふるさとを追われた難民たちを支援する活動にあたってきました。昨年3月の東日本大震災を日本で体験し、「これまでの経験を日本に還元したい」と思ったことがジャーナリストとして活動するきっかけになりました。
東北の避難生活者の方々は、震災と原発事故で突然避難を余儀なくされ、国際的にみれば、「国内避難民」にあたります。一方で、国境を越えて避難した難民たちは、平均17年にもおよぶ避難生活を生き抜くたくましさを持っています。そこで私は、見通しがききにくくなった時代を生きる私たち日本人に、多くのヒントを教えてくれると考えたのです。

難民たちが与えてくれるヒントの話をする前に、日本の難民受け入れの実情を見てみましょう。

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法務省の発表では、2011年の難民認定数はわずかに21人。審査の一次手続での難民認定率は0.3パーセントと閉鎖的で、過去最低水準です。UNHCRの統計によると、G7・先進七か国の国々や、となりの韓国との比較でも、極めて低い認定率です。
さらに、戦禍や迫害から近隣諸国に逃げた難民たちが、避難先に定住できるあても帰るあてもないことから、第3国が彼らの移住を受け入れるという「第3国定住」と呼ばれる制度があります。日本はおととし、アジアで初めての「第3国定住先」になりましたが、受け入れ人数は計画を下回り、今年は日本行きの希望者がついにゼロになってしまいました。今後の事業継続のためには、制度の改善が早急に求められます。
 
さて、日本は1951年に採択された「難民の地位に関する条約」を批准しています。
つまり、日本にやってきて、この条約がかかげる難民の定義にあてはまる人を受け入れて保護するという条約上の義務が国にはあります。
つまり国籍、人種、政治的意見、宗教、そしてある社会的構成員であることから、迫害と言えるほどの深刻な人権侵害や身の危険にあうおそれがあり、自分の国が守れない、あるいは守ってくれず、国境を越えて保護を求める人のことです。彼らは、この条約に批准した国に守られる権利があるのです。
日本では、法務省の入国管理局が、難民申請を受け付け、難民かどうかを審査していますが、先に見たように、この定義を極端に狭く解釈していると言わざるを得ません。不認定になった人の異議申し立ての審査も法務省入国管理局の管轄にあり、中立性がおびやかされていると指摘されています。
人権の保護よりも、どうしても「入国管理」の側面が強い制度運営になっているとの批判もあります。さらに、現在の「出入国管理および難民認定法」は、出入国管理と難民認定という二つの目的が合体した法律になっていますが、難民の権利の保護を主な目的とした「難民法」を設けるべきだという声も、専門家やNGOなどから積極的にあがるようになっています。

私には、権利・義務ということと並んで、難民の受け入れに消極的なことで日本が、より多様化・国際化してゆたかになる、せっかくの機会を逃しているように感じられてなりません。
実を言うと、私たちが知っている著名人の中にはアインシュタインをはじめ、難民を経験した人が大勢います。日本も例外ではありません。神戸で洋菓子屋の設立にかかわったモロゾフやゴンチャロフも、もともとはロシア革命を受けて逃れてきた難民で、異国の地で生きるために洋菓子屋を開くに至りました。「中国革命の父」と呼ばれる孫文は、日本で亡命生活を送った時期がありました。
このことは、難民が負担ではなく、多くの可能性を持った存在だということを示しています。
 難民の中でも、親の事情で日本にやってきた、あるいは日本で生まれた難民の子どもたちは、現状を嘆くことなく、「今」を懸命に生きているのが印象的です。
 この6月、日本で暮らす難民たちを支援している「難民支援協会」が、難民の若者たちに直接話してもらうというセミナーを開き、満員御礼となりました。

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 パネリストとして話してくれたのは、ミャンマー難民2世の大学生2人で、ともに「難民高等教育プログラム」の支援を受けて学んでいます。普段は何の問題はなくても、学部の選択などでは、難民の自分には留学や海外への渡航がきわめて難しいと知り、第一志望の学部をあきらめなければならなかったと言います。
ミャンマー生まれの女子学生は裕福な家庭で育ちましたが、政治活動家のお父さんが日本に亡命し、難民認定されたのを受けて、家族も日本に渡りました。ミャンマーでの暮らしとは打って変わって、両親は工場で働き、お父さんは週末に民主化活動をしています。
子どものころから通訳をしてお父さんを助けてきました。いろいろな言葉ができる彼女は、「グローバル・シチズン(地球市民)」として生きていきたい、と言います。
大学一年の男性は日本生まれ。両親は難民認定の制度を知らず不法滞在が長く続き、7年前ようやく在留特別許可を得ました。お父さんは飲食業のアルバイト。お母さんはパートで働いていましたが、1年前に介護ヘルパーの資格を猛勉強して取得し、デイケア・サービスで働いています。日本生まれということもあり、日本にベースを置いて生きていきたいと考えています。

こうした難民の人たちの状況をより多くの人たちに知ってもらおうと、国連UNHCR協会では、明日から全国の映画館で、「ヒューマン・シネマ・フェスティバル」という映画祭を開きます。
数々の国際的な映画祭で受賞した海外の映画2作品に加えて、東日本大震災を受けて、ボランティアとして被災地に向かったミャンマー難民たちのドキュメンタリー「すぐそばにいたTOMODACHI」が上映されます。
「故郷のかけがえのなさ」を語るとき、国境はありません。自然災害か、紛争や迫害という人災かを問わず、人としての足元が大きく揺らいだのは同じです。
「日本が苦しいときだからこそ、自分たちも何か貢献したい」という声が難民たちから続々と寄せられ、難民支援協会は、被災地でのボランティア活動を希望する難民と日本人とをチームにして派遣するツアーを継続的に行いました。のべ203人の難民たちが参加しました。
 
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 参加した難民の方々は、「いつも助けてもらうばかりではなく、日本の社会の一員としてわずかながら貢献できたことが忘れられない」、「東北のお年寄りたちを、自分の両親のつもりで、お手伝いした」と熱っぽく語ります。日本から受けた「恩」に報いたい、という気持ちが本当に強いのです。

より多くの人が日本国内の「すぐ隣にいる難民たち」を考えることは、「足元のグローバル化」を見つめることにつながるでしょう。
そうした難民の人たちのことを思いやることは、難民たちを支えるだけでなく、きっと私たち自身が成長する機会になるのだと思います。
多くの可能性を持った、生き抜くことにたけた難民たちは、受け入れてくれた社会に恩義を感じ、それに応えようと貢献します。
背景の異なる人々が関わることで、私たちの社会はより多様性に富んだ、成熟度の高いものになるはずです。
少子高齢化にある今こそ、発想を転換し、難民の受け入れを、人権推進、国際貢献、多文化共生、人材確保の「一石四鳥」の意味があるものととらえ、社会をよりゆたかにする試金石とすることを提案したいと思います。