(cache) キャスターマイルド5mg







恋愛はロジックじゃないらしい。


その言葉を聞いた時には何だかなぁと菫子は思っていた。
もちろん人間の感情は0と1で出来たアプリではないけれども。
恋ってやつは脳内麻薬がドバドバ出た状態だと言うのも情緒がない。
打算と自己満足と欺瞞が人間関係を滑らかに回す潤滑油ってのもなかなか笑える。
どうにも、恋愛はロジックじゃないらしい。


それでも、と言葉をつづけるのなら。
この日、この時、その全ての感情だか副交感神経分泌液やら欺瞞だかを説明するのならば。それはこのような心持ちではないかと菫子はやっと思えた。





つまり。
二条菫子はメタフォリカルに恋に落ちたのだと。








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「キャスターマイルド5mg」






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秋晴れにて雲は気ままに流れていた。
メタ的に言えば菫子は年齢不詳という女性のお手本のような人間だが、それにしたって若さを感じさせる雰囲気を纏った淑女である。生まれる時代が遅すぎた、というのが親族の統一した見解で。社交界デビューを中世でしていたら、広大な領主の引く手数多だったろう淑女だった。
端的に言えば、バリバリなビジネスウーマンであったし。
リリアン卒業生だからか気品も培っていたから、その容姿と相まってパーペキガー(パーフェクトガールの略)として巷でも噂の淑女だった。パーペキガー。
若い頃は乃梨子の3倍は美人だったというのは菫子の談だ。
誇張表現に聞こえないあたりにこの人の底抜けさが垣間見える。


秋晴れにて雲は気ままに流れていた。
菫子は少しロマンティストな気がある。ぞろ目に運命を感じてしまうくらいには。
これは多分にリリアン女学園というエスカレーター式な培養機関で日常を過ごしてきたからだというのも菫子の談だ。環境が人を育てるという都市伝説を信じている人なのだ。
それにしたってリリアン女学園だよ。あそこは異界だ。
何せ嫌がらせとして上履きにクリップを入れる世界だ。
普通は画鋲でしょ、と体験者の乃梨子は言っていたが、菫子としてもそれは頷ける。はたしてクリップ(CLIP)には隠語として「殺害する」という意味もあるから、予告状としてクリップを入れたのかもしれない。
貴様をいつか殺してやりますわ。てな感じで。
でも上履きにクリップを入れられたくらいでそこまで普通は読めないので、たぶん予告状ではないのだろう。ただ単に画鋲だと痛いから、クリップを入れただけなのかもしれない。まぁ、クリップを入れられるというのも確かに嫌なものではある。


秋晴れにて雲は気ままに流れていた。
あらゆる感情が指向性を持っているように、
菫子のロマンティシズムは偏執的な方向へと逆走していた。
そんなパラノイアな菫子は「運命の人」というものにすごくすごく憧れていた。
実質に姪の乃梨子が家に帰ってくると藤堂志摩子の話をすることでそれは悪魔的に加速するようになる。白薔薇さまとの桜の下での出会いというのは、そのくらい美麗であったし。正直に言えばそんな乃梨子が羨ましかったくらいである。 運命の人。
いつか。いつか。いつか。そんな風にして言葉は回る。




出会いはベタをガチでいくようにして整った。
その日、菫子は走りながら通路の角を曲がると男の人とぶつかって恋に落ちたのだ。
その話を少し。




菫子というのは二条乃梨子の大叔母である。
乃梨子の父の父の妹という親族関係には眩暈を覚える。ごくごく薄い血縁であり、菫子はそれを評して「安い飲み屋の水割り程度の血縁」だと冗句にしていた。言葉通り、ごくごく薄い血縁であるということである。言葉通りだ。
だからかどうかは知らないが、菫子と乃梨子は非常に仲が良かった。
年の離れた姉妹の仲が統計的に見て、年の近い姉妹より良いように。おそらく乃梨子は面白い大叔母だと思っていて、菫子は面白い姪だと考えていたのだろう。立ち位置の線引きがしっかりと出来ていたから、あまり衝突することもなかった。
どのくらい仲が良かったかというと。
日曜日に2人でデパートに買い物に来ちゃうくらいの良さだった。


乃梨子が自分の服を見に行くと言ってエレベーターで昇っていくのを見てから、菫子はこの頃あまり調子のよろしくない腕時計の予備を探そうとしていた。
ガラス板の下には豪奢なものからシンプルなものまで腕時計が並んでいる。さて、どれにしようかと腕を組みながら「むー、むー」と唸っていると、視線の片隅に黄色が映りこんだ。それが右脳を刺激したのか、近づいて確認してみると自分の趣味と適合する時計がさっそく見つかった。まさにと思う。

まさに運命のようだと菫子には感じられる。

黄色の安っぽいプラスチックで縁取られ、メタルな銀で意匠を凝らされた素敵な腕時計だった。秒針だけが鉄の匂いのように赤く、時間を刻んでいる。
これしかない、と思うのに200秒もかからなかった。


問題は、値段を見ていなかったことなのだろう。


レジのディスプレイはその金額を78000円と示していた。
あわわわわ、と思いもう一度その桁を数え直す。
一、十、百、千、万。どうやら7万8千円で正しいようだ。よかった、視力が落ちてたわけではなかったのねと安心する。わけがない。
予算、3万円。あわわわわ。財布の残高、6万円。あわわわわわ。
1人で恐慌してしまいそうだった。お金が足りない。
両手と両足をバタバタさせて「あわわわわ」と言って落ち着きたかったが、店先でそんなことをしたら危うく両手に縄がかかりそうだと思いなおす。
代わりに深呼吸で落ち着きを取り戻す。
吸って。吸って。吐いて。吸って。吸って。吐いて。
最早ここでラマーズ式呼吸法を実践しているあたりで、店員は胡乱な目つきで菫子を見やっていたが。おかまいなしに菫子はそのまま深呼吸をつづけた。



「お買い上げになさいますか?」
「無理です」



赤面した。人生で一番に赤面したかもしれない。
身体中を走る血管の血液が顔に集まって、それ故に過剰に集まった白血球が害悪でもないウィルスを攻撃しているんじゃないかと思えるほど顔が赤かった。
時計屋から離れるようにして速足で進む。両手で煽るようにして体温を下げようとするのだけれど、どうにも気恥ずかしさが邪魔して一向に常温に戻らない。
もう家に逃げ帰りたかった。
早く乃梨子を迎えにいって帰ってベッドに潜って寝てしまいたい。
自然と足が早くなる。
携帯電話で通話して乃梨子に迎えに行くから準備しておけと通告。
「むー、いいから帰るよ、リコ」
と言って通路の角を曲がった瞬間にぶつかった結果に衝撃を受けて。
「あひん!!」
マヌケな悲鳴が通路に響いた。


転ぶことはなかった。
なぜならば、転ぶ前に支えてもらったからである。
第三視点で見れば、抱き合う2人の男女といった感じに恋の予感。
ビビビっときた。後に菫子はそう語る。
巌(いわお)のような身体。男性を感じる力強さ。そして笑顔。
「これは申し訳ないことを。私も急いでいたもので」
彼はそう言って微笑んだ。
まさにアルカイックスマイルもかくや!という寛容な微笑み。
大人の男というやつである。スキンヘッドでもあった。
住職なんだからアルカイックスマイル(仏像の微笑みのこと)も当然であった。
藤堂志摩子の父だった。
ビビビっときたのであった。


曰く。
まるで白馬に乗った王子様のような王子様だった(トートロジー)


その日、二条菫子はメタフォリカルに恋に落ちたのである。



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寺参りにかこつけて会いに行くようになった。
乃梨子に滅茶苦茶に不審がられ、不倫いくない!と諭されても恋は盲目というバチカンルターな免罪符がある限り菫子は両肩を上げて「やれやれ」と言いつづけた。
やれやれ、そんなことは私もよく解ってる。


寺で仏像をじっと眺めていた。
本堂にあるご本尊、阿弥陀如来像。蓮華座に坐した金色の人は、印を結んだ右手を肘から上げ。左手をダルーといった感じで前に垂らしている。時代の経過を感じさせるようにその身を包む金箔がところどころに剥がれているのはご愛嬌という感じだ。
愛想のある仏である。
左右に観世音と勢至の二菩薩が脇侍している、阿弥陀三尊像である。
2メートルもある巨体を眺めていると首も痛くなる。


正座から胡坐(あぐら)に姿勢を変えて、その仏像を見つめていた。
何だか乃梨子の気持ちも、解らないでもなくもない。どっちだ。
確かに見ていると心が洗われていくように感じられる。何しろ話しかけてこないのがいい。静かでいい。木造の本堂は痛みのない沈黙を侍(はべ)らせて、とてもとても静かだ。
沈黙。呼吸音。衣擦れの音。風が吹いて。鳥が鳴いている。
そこは異界のようだった。ここは世俗から放たれた内面世界だ。
二条菫子の、内面世界。
とても静かだ。


秋めいた風が寒く、それが菫子の気持ちに一本線を引いていた。
悟りさえ開けそうな空気で、目を閉じると何も無くなった。
色は黒。音は沈黙で、何も考えはすまい。
することがないからといって、考えごとをすることもない。
菫子は思考実験が好きで、缶詰コーンビーフの寡占市場に自分が出社したらどんなダンピングで市場に混沌を落としてやろうかと考えて悦に入る性格である。
だけど、そんなことは今はしない。何も考えはすまい。


無我、と言えたらいいと思う。
音がない世界。黒の世界では、頭の裏側は白くなる。
時間の経過さえ忘れて、ただ生きている。何もしないから、ただ生きている。呼吸をして、心臓エンジンを回して、血液がどこをどう流れているのか知覚出来そうなくらい。
無意識が有意識に取って代わる。
それから少しの間。それから薄く、ゆっくりと目を開けた。
阿弥陀如来さまが見てる。自分を。何だか不思議な気分だ。すごく。
心が冷たく、そのくせホヤホヤという擬音な気持ちだった。
なるほど、感情とは明文化できないものである。
恋愛がロジックじゃないように。


それから。


ずっと仏像を眺めていると、志摩子の父が茶を持ってやって来た。
熱すぎる日本茶が感覚を鋭敏にするようだった。針に刺されているみたいに。
そして藤堂氏はやはり素敵であった。


「乃梨子ちゃんは元気ですか?」
「はい、それはもう」
「うちの志摩子もね、よく乃梨子ちゃんの話をしますよ」
「仲がよろしいようで」
「志摩子と乃梨子ちゃんが?それとも私と志摩子がですか?」
「両方、でどうでしょう?」
「はは、それが一番ですな」


無難な会話が無難につづく。


「乃梨子ちゃんと同じで仏像がお好きなんですか?」
「ふふふ」
笑うしかなかった。
実は貴方が好きなのです、と言うことも出来ない。
「うちの家内もね、この仏像が好きなんですよ」
「ふふふ」
予想外な死角からの攻撃に菫子はもうタジタジであった。
嫁の話は思いのほか破壊力が抜群で、ザックリと心が痛みを覚える。
「私も、贔屓目に見ても。これはなかなかのご本尊だと思っています」
藤堂氏はそう言って目を細めた。
「ふふふふふ」
もう一度言うと。笑うしかなかった。


無難から座礁して核心へと話は回る。ぐるぐる。


恋は2種類あるらしい。
形而上な(本気の)恋と、形而下の(打算の)恋だ。
藤堂氏は住職らしく説法をするように。菫子にそう説いた。
どちらが悪いというわけではない。普通人間はその2つの間を行き来するように恋をする。だから本気的打算の恋もあるし、打算的本気な恋もあるらしい。もちろん本気的本気な恋もあるし、打算的打算の恋もあるらしい。菫子はそんなもの見たことなかった。
見たことはない。でも、あるらしい。
それは幽霊のような説法だった。


柳は揺れる。足がない霞がユラユラと揺れて、両手を下げている。
時々に「うらめしやー」と言うかもしれない。
でもそれは、柳かもしれない。
そんな風に、その説法は聞こえた。
うらめしやー、と言われても。
言われた方はどうしようもないじゃないか、というのが菫子の本音だ。怨む相手を間違ってますよ、とアドバイスすることも吝(やぶさ)かではない。
でもきっと、幽霊はメタフォリカルに私に「うらめしやー」と言っているのだろう。それはきっと、私ではない誰かに「うらめしやー」と言っているのだ。
菫子にはそう思えた。
もういない。存在しない誰かに「うらめしやー」と言いたくて、菫子に「うらめしやー」と言うのだ。そして腹がへってくる。うらめしやー、が裏飯屋に聞こえてくるのだ。
何だか自分は混乱しているみたいだ。


「たぶん貴方は」と藤堂氏は言った。
「私ではない誰かを好きなのだと思います」
何だそれ。


菫子が思ったのは、ただ一言だけだった。




「何だそれ?」




それだけ。



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もちろん泣いた。ああ泣いた。泣きまくったね。
身体の何処かから溢れてきて、それが枯れるまで涙は止まらなかった。
嗚咽が漏れないように枕で口を塞いで、年甲斐もなくワンワン泣いた。
ストッキングを脱いで、服も脱いで、下着姿でベッドにうずくまって足を滅茶苦茶にバタバタさせて。それからゴロゴロと転がって。思い出したかのようにまた泣いた。
晩御飯は乃梨子がつくってくれた。



涙でグシュグシュになった目を閉じる。
目を瞑って思い出すのはあの頃だ。



「ごきげんよう」と勇気を出して言った。
「ごきげんよう」と憧れの白薔薇さまが返してくれた。
それだけで上機嫌に一日を過ごせた少女だった。
そう、少女だったのだ。


私にも少女時代はあったのだ、と菫子は思う。
乃梨子の3倍は美人だった頃の話だ。



休み時間に「純粋理性批判」を読むような少女だった。
聡明で気丈な少女だった。ただ少しビビリ屋で、夢見がちだった。
憧れていたのは白薔薇さまだった。
彼女はよく微笑んでいたことを覚えている。何か楽しいことがあるのか、と訊くと。特にそんなことはない、と彼女は言った。
遥か昔の話だ。恐竜が生きていたくらい昔の話。

「それならどうしていつも笑っているんですか?」
「何でだろうね?」
何でだろう。解らなかった。
「それなら、どうして菫子は死のうと思わないの?」
何とも突飛なことを、と思った。
「端的に言えば、死にたくないからです」
「どうして?」
「・・・楽しいから?」
そう言うと白薔薇さまはまた、微笑んだ。



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ある一つの終わり方。


「またここに来てもよろしいでしょうか?」
はい、いつでもどうぞ。
「またお話に付き合ってもらえますか?」
時間があるときなら。
「今日はありがとうございました」
「はっはっは、こちらこそ」
豪快に笑う。快濶な男。藤堂氏は豪快に笑った。
それからまた、微笑んだ。
「また来てください」


その手を握る。目を合わせた。
その黒い眼球に菫子の必死な顔が映り込んでいた。


「また来てもいいですか?」


そうして説法は始まった。幽霊説法だ。
日がまた昇るように、止まない雨はないのだと言う。
説法もいつか終わる。


「たぶん貴方は」と藤堂氏は言った。
「私ではない誰かを好きなのだと思います」
「何だそれ?」



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白薔薇さまは菫子ではない妹をつくり、菫子とは違う大学に進み、菫子とは違う道を歩いていった。菫子に出来ることはいつだって背中に手を振るくらいのことだった。
白薔薇さまは言った。
「いつか運命の相手に出会えるよ」
そうだといい。そう思う。


真夜中に起き出してカーテンをめくる。
水色の遮光カーテンを撫でながら月齢4の細い月を見た。
溶けるような黄色い光が、黒の夜を薄く伸ばしている。
その光を見て思い出す。
「あぁ、そうだ。明日、あの腕時計を買いにいこう」
あの時計は月に似ているんだと菫子は思った。


洗面台で顔を洗う。冷たい水が腫れた目には気持ちいい。
バシャバシャと子供のように飛沫を飛ばして顔を洗う。
十本の指を力強く上下に動かして顔を洗っていると右の小指が鼻の穴に入った。
「ナイスショット、ホールインワン」
そう言わないとやりきれないくらい痛かった。第一間接は余裕で鼻の穴に入っていた。引っこ抜く。垂れる血。
「わお、鼻血だ。何年ぶりだろ」
タランと音を出して鼻血が唇に垂れた。冷たい水で顔の肌が締まっている。
ニコッと歯を見せて鏡に笑ってみた。そのまま鼻血が歯まで垂れた。
何だか生まれ変わったみたいな気分だった。


鼻にティッシュで栓をしてから台所へ向かい、机の上に置いてあるラップで包まれた皿を見る。乃梨子がつくっておいてくれた晩御飯だった。それにはメモが貼ってあった。



「世界が平和になればいいと思う」



そう書いてあった。
全くその通りだと頷いて、レンジに入れて温める。食事は美味しく、乃梨子はいつ嫁に出しても合格点だなと思った。嫁偏差値65という感じだ。全国レベルだね、乃梨子。
それから鼻に詰めていたティッシュをゴミ箱に捨ててからベッドに潜り込む。
右手を天井にかざした。
眠くなかった。だから考えるのは運命の人のことだ。


いつか会えるといいと思う。



         [Nijou is hyper cute]:closed






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<あとがき>

荒唐無稽という言葉を辞書で引くと
「荒唐で考えによりどころがないこと。でたらめ」
という凶器のような言葉が出てきます。
作者はそんな凶器に殴られたりしました。
このSSはそんな出来事で出来ています。何てこった。



執筆:牧村


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