2011年12月2日10時25分
作家■旧満州で 父の本をあさって読んだ
――ニックネームは「ムツゴロウ」。どんな動物とも仲良くなれることで有名ですね
あらゆる動物と正面からぶつかる体験をしたことで、ある意味、動物に近づいたのでしょう。今、講演会で各地を回ると、かみ癖のある犬を飼っている人から、相談を受けることがあります。僕が抱くと何のこともないのです。まったくかまないのです。
――どんな幼少期でしたか
まだ小さいうちに、家族で博多から旧満州(中国東北部)に行きました。鉄道の小さな駅から、馬車で半日進んだところに開拓団があり、父はそこで医師をしていました。
人跡未踏のような大平原。新聞も電気もガスもありません。自分たちで動かないと、やっていけない土地です。父は休みの日にキジ撃ちに出かけます。鳥や獣は掃いて捨てるほどいて、両手に持ちきれないほど捕ってきました。僕も小学校に上がると、スズメを撃ったり、運河で魚を釣ったりして食料を調達しました。
秋冬は零下20度以下になり、外で遊べなくなります。さらに零下40度になると、家の中でもこたつにいるのがやっと。することがないので、おやじの本棚から本をあさって読んでいました。昔の本はルビがふってあって、小学校に上がる前でも読めました。小学1年生のころには、新聞も全部読めるようになっていました。
帰国は小学3年生の時。「内地の学校は程度が高い」と脅されて帰りましたが、僕の方が勉強は進んでいました。読解力は勉強の一番の基礎なのだと思います。
――帰国してからの生活は
父は3年ほど遅れて帰国しました。旧満州の医師免許では開業できない。日本の医師免許を取るため、父は朝から晩まで山にこもって勉強をしていました。
働き手がいないため、貧乏のどん底。苦しい生活でした。学校が終わるとみんなで、げた工場で働きました。学校に行く前には、ウナギを捕りに行きました。一回に15匹以上捕れるのです。売り物にならないものはかば焼きにして弁当に。いつもおかずがウナギなので、級友には「分限者(ぶげんしゃ)」と言われました。金持ちのことです。
中学校に入った時、父がようやく開業しました。父は市内の本屋に僕を連れて行き、オーナーに「さんざん苦労させたので、本だけは自由に買わせたい。この子にはつけで売ってくれ」と言ったのです。私には何よりものプレゼントでした。ツルゲーネフやトルストイなど、いろいろな小説の訳本を、浴びるように読みました。
――文学青年が、なぜ東大の理系に進学したのですか
本当は文学しか頭になかった。高校3年の時に、父が真顔で「文学部に行くのは許さない」と言うのです。文学部に行くと、女遊びをして、飲み歩いて身を持ち崩す。そこから文章が生まれると信じ込んでいるのです。「とにかく医者になれ。なった後なら何をやってもかまわない」と。文学部に行くなら親でも子でもないと言われ、僕は仕方なく医学部のある東大の理系に進むことにしたのです。
■オタマジャクシに没頭、ツキ呼んだ
――東京大学での学生生活は
フリードリヒ・エンゲルスの「自然弁証法」に出会い、命というものを自然科学的に追究しようと、動物学教室に入りました。
教室はとにかく実物教育が多かった。ザリガニを渡され、どれだけ時間をかけてもいいから体の仕組みを調べるよう言われました。中を開いても、半透明のものがぐちゃぐちゃ。最初は雲をつかむようなものです。じっと見ていると、差異が見え始めます。10日以上かけ、やっと血液の流れが分かってきます。いつも研究室で朝を迎えていました。
――学習研究社(現学研ホールディングス)の映像部門に就職されます
学生時代、飢えたオオカミのように映画を見ていて、映像分野に興味がありました。社長に「科学も文章も得意です」と手紙を出すと、面接に来るよう言われ、採用に。その際、社長に言いました。「粉骨砕身頑張りますが、『長』という字がつく職にはつかせないで下さい」。あくまでも一兵士として、ものを作り出したかった。
最初に手がけた映像は「カエルの発生」でした。卵がオタマジャクシになるまでを撮りました。1分に1回、シャッターを切るのですが、当時は今のような自動シャッターはありません。1カ月寝られませんでした。
――7年で退職します
「勤務態度に問題がある」とクビになりました。1カ月はぶらぶらしていました。失業保険があるのを思い出し、東京・五反田の職業安定所に行きました。書類を出すと、受付の男が「書き直せ」と怒鳴るのです。何でそんな口をきかれなければいけないのか。頭に来てつい、書類を破って男に投げつけ、職安を出てしまいました。
歩きながら、安定収入をなくしたことに気づき、社会から切り捨てられた気分になりました。気づいたら電車で有楽町に出て、いつも打ち合わせで使っていた喫茶店にいました。後ろから肩をたたく人がいるのです。学研の時につきあいのあった電通の部長でした。クビになったと話すと、「それはよかった。医学関係のキャッチコピーを頼みたい」。その晩から山のように仕事が来ました。
――ドラマのような展開です
与えられたことで終わりにしないで、自分なりに追究する姿勢がツキを呼んだのだと思います。
学研時代も、「カエルの発生」の撮影後、疑問が残りました。オタマジャクシがカエルになる時、しっぽの部分のエネルギーはどう置き換わるのか。撮影で使ったオタマジャクシをカエルになるまで飼って観察しようと思いました。青山墓地にいたボウフラを水槽に入れ、カエルを育てました。そこに電通の人が遊びに来てカエルを見つけ、コマーシャルに使うことに。縁がコマーシャルの世界に広がりました。仕事で命じられたオタマジャクシの誕生までで終わりにしていたら、ドラマはなかったのです。
■小説書くため 無人島でヒグマ飼う
――33歳の時、「われら動物みな兄弟」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞されます
作家への憧れが根底にあったので、学習研究社時代も執筆活動は続けていましたが、生活が一変しました。自然や動物に関する書き手が少なく、仕事が殺到しました。その頃、一軒家を借りてほしいという人がいて、横浜市の希望が丘に引っ越しました。自然が豊かで、蛍が飛ぶところや、カマキリの交尾も見られました。
一軒家なので、犬を飼えるようにもなりました。当時まだ僕は犬に詳しくありません。娘と散歩中、ペットショップにいた子犬に、雷に打たれたようになりました。秋田犬だそうで、ほおかむりをした泥棒のように鼻から耳にかけて黒く、脚が太い。グルと名づけ、ずっと抱いて寝ていました。
――その後、北海道の無人島へ
横浜での生活は満足していましたが、僕はノンフィクションが好き。ロビンソン・クルーソーのような話をノンフィクションで書きたいと思いました。ただ、「無人島記」というと、文明からの脱却ととらえられがちです。服も時計も、医療も文明がくれたもの。文明から完全に孤立して生きることは現実的ではありません。1日1回、対岸まで渡れる距離の島を探しました。見つけたのが、対岸まで4キロの嶮暮帰(けんぼっき)島です。
島ではヒグマを飼いました。ヒグマの小説を書きたくて、取材していましたが、専門家に聞いても満足する答えは返ってこない。それなら自分で調べようと思ったのです。手に入れた子グマをどんべえと名付けました。
――危険ではなかったですか
どんべえは親グマと暮らした期間が長く、親がすり込まれていました。最初、僕は敵でした。近寄ればかみつきます。500カ所も皮膚に穴があき、タオルでミイラのように体を巻かないと、お湯がしみて風呂に入れませんでした。
――変化はあったのですか
あまりにかむので、1カ月くらいしたある日、やけっぱちになりました。丸裸になってどんべえの部屋に入り、部屋の真ん中で大の字になりました。すると、どんべえが近づいてきて、僕をなめ始めたのです。その時僕は、生き物とつきあうには、自分が構えているものを捨てる、自分のありったけを相手にさらけ出すことが必要なのだと学びました。
――動物は人間より寿命が短い。つきあいには別れがつきものでつらい面もあります
僕は今では、動物の死期が大体分かるようになりました。死ぬ時はできるだけずっと一緒にいたいと思います。ただ、僕は、「生きる」「死ぬ」は、天からの恵みだと思っています。本当の意味では、愛するものとの別れは別れでないのです。心の中に大きなプレゼントをもらっていて、思い出として私たちの中に生き続けるのです。決して断絶ではないのです。
■体ごとぶつかり生き物の心を知る
――1972年、嶮暮帰(けんぼっき)島から対岸の浜中町に引っ越します。「動物王国」が始まります
ヒグマのどんべえが成長したので、大きな飼育舎を造る必要があったのです。大がかりな工事になるため、島では無理でした。
当時僕は、犬とはどういう動物か、どういう心を持っているのか知りたかった。敷地を網で囲い、犬が自由に走り回れる環境を整えました。最初は、犬、クマ、馬くらいで動物の数や種類はたいしたことなかったのです。そのうちアザラシの子どもやシマウマなどが届けられ、動物が増えていきました。
――フジテレビのドキュメンタリー番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」が始まる
週刊誌の記者に「映像の世界に乗りだそうと思う」と話したら、記事を見た電通の仲間が、フジテレビの人を紹介してくれました。番組を始めるにあたり、僕がこだわったのは、うそをつかないということです。死や失敗を恐れない。生き物のあるがままの姿を映そうと誓いました。
――どんな危険な動物が相手でも、リハーサルはしない
例えばゾウとのつきあい方でも、僕は他の人と違います。ゾウの群れの中に入っていくのです。20頭ぐらいの群れに、バナナの房を持って近づきました。ヒョウやライオンなら、えさの取り合いになり僕は殺されてしまう。子ゾウが近づいて鼻を伸ばし、僕の手からバナナを1本もぎりました。大人のゾウは順番を待っていました。忍耐力や遠慮、食欲の抑制、たいしたものだと感動しました。
また、ゾウは決して僕をふみません。足が何かに触れたら、よけるようになっているのです。これは何の本にも書いてありませんでした。私が大学を出てからのサブテーマの一つが、動物の心を知ること。体ごとぶつかることで、生き物の心が分かるのです。
――危険な目にあったことも
肋骨(ろっこつ)を折ったり、両肩が抜けたり、大きなけがはつきものでした。馬に足をふまれて靴がはけなくなり、2サイズ上の靴をはいていた時もあります。よく生き残ったなと思う時もあります。それでも生きていられるわけです。
ピンチになった時大切なのは、いかに身が捨てられるか、どうにでもなれという気持ちになれるかだと思います。僕はダイビングが好きなので、海の事故は数知れず。鼓膜が破れ、上下左右の感覚が分からなくなり、きりもみ状態になったこともあります。そういう時は、どうにでもなれ、と底まで落ちます。底でしばらくじっとしていると、めまいがとれ、視覚で天地を認識できるようになるのです。パニックになったら、死んでしまいます。
一呼吸、二呼吸おく。そうすると、乗り越え方は自然に見えてくるのです。
■しがみついて格闘するなかに感動
――20年あまり続いたテレビ番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」が2001年に終わります
60歳を過ぎると、若い頃のようにいかない。ガラパゴス諸島で、亀と遊び、シュモクザメと泳ぐシーンを撮った時のことです。潜水が得意だったはずなのですが、40メートル潜って上がったら、食べたものを全部はいてしまいました。体力の限界でした。もう区切りをつけないといけないと思いました。
――3年後、「動物王国」が東京に進出しますが、集客が伸びず3年で撤退
僕は様々な勉強をしてきたつもりですが、唯一ないのが経営能力です。書き物に専念したかったので、「王国」が僕の手から離れて独り立ちすればと思い、経営を任せましたがそうはいかなかった。
僕の最大の望みは、都会の子どもたちへの馬による教育でした。心の発育に、乗馬はすばらしい役割を果たすと思うのです。だから僕は馬を増やせるだけ増やした。
――馬による教育とは?
馬は自分よりはるかに大きい動物。チワワの頭をなでるようにはいきません。自動車を運転するのと違い、心を持っています。心を持った他者を、折り合いをつけながら動かさなければなりません。
現代人はマニュアルで乗ろうとしますが、騎馬民族にはマニュアルなどありませんでした。マニュアルでやるものはたかがしれています。訳が分からない、でもよじ登って、しがみついて、格闘しているうちに、動いた。そこに感動があるのです。
――最近の子どもたちに思うことは
命あるものとの交流が減っています。非常に問題だと思っています。血を見たら逃げるし、学校でカエルの解剖さえしなくなっている。「命を殺すから」というんですが、それは科学でもなんでもありません。生きていくにあたり、生き物に体ごとぶつかるというのはとても大切なことなのです。
時代は変わってしまいました。例えば森に行くと、一つ一つ説明してくれるインストラクターがいます。虫を捕まえて、「これはかまない」などと解説します。子どもが自分で、「かまないか、大丈夫だろうか、かまれたらはれるかも、うわー動いている」。これが自然を知るということです。わざわざ教えなければいけない世の中は悲しくなります。
――今後はどんな活動を?
昔は自分がやりたいことだけに熱中しましたが、70歳を過ぎたら、一人でも多くの子どもと話したり、こんなおもしろいものがあるよと、伝えたりする役割をしたいと思うようになりました。人間柔らかくなりましたね。
前は鋭さがあったようですが、最近はよく話しかけられるようになりました。すれ違いざまに肩をたたかれたり、相談をもちかけられたり。壁が破れたのだと思います。(聞き手・有山佑美子)
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はた・まさのり 1935年、福岡市生まれ。「われら動物みな兄弟」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。動物たちとの心温まる交流をテーマに書き続ける。
◆次回は俳優の木の実ナナさんです。