目覚め


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“先生………せんせい……?”


誰かの呼ぶ声に惹かれ、私の意識はゆっくりと浮上する。


瞼を開ける。まず目に映ったのは書きかけのカルテ。そして、投げ出された自分の腕。

朦朧とする頭をもたげ、ここがどこなのかを認識しようと私は視線を巡らせた。

西日の淡い光が壁を照らしている。院長室だ。ここは、見慣れたはずの私の部屋。


酷く懐かしい感覚に囚われる。ここは明るく、そして暖かい。さっきまでいたあの病院とは違う。


「こんな所でうたた寝されて…。お仕事に熱心なのもいいですけど、お風邪をひきますよ」


声の主に視線を馳せる。

美奈だった。

以前と変わらぬ清楚な看護婦姿の彼女が、私を覗き込むようにしてそこに立っている。


「美奈…?」


名前を呼んだ私に、美奈は悪戯っぽく笑ってみせる。


「あら?先生。職場では名前で呼ぶのは禁止でしょ?ご自分でおっしゃったのに」

「ここは…俺の病院なのか?」

「勿論、先生のお部屋ですよ。悪い夢でも見てらしたの?」


もう一度部屋の中を見回してみる。変わっていない。なにもかも、以前のままそこにある。

私は帰って来たのだろうか。こちら側へ。そして、美奈も。


時計を見ると、針は6時を回ろうとしていた。夕方と言っても、夏は日が長い。

西日はまだ名残惜しそうに、部屋の壁を鈍い茜色に染めている。


「私もそろそろ上がろうと思って、ご挨拶に伺ったんです。そうしたら先生が眠ってらしたから…」

「起こしてくれたのか。…ありがとう。」

「先生が身体を壊されたら、村の患者さんたち皆困ってしまいますもの。」

「ああ…そうだな。」


殆ど空返事だった。どう言うことだ。私は死んだのではなかったのか。

あの炎の中に身を投げた時、全てが終わったと核心した。

美奈と理沙。二人の呼ぶ声に惹かれ、私もまた煉獄の炎にこの身を焼かれたはずだった。

落下していく感覚がまだ頭に残っている。それだけじゃない。

向こう側で見たことの全てが鮮明に記憶に残っている。あれは夢なんかじゃない。


では、なぜ私は今ここにいる?私も、そして美奈も。以前と何も変わらずに。


「私、お茶を入れて来ますね。ご一緒してもいいですか?先生。」

「あ…ああ、そうしよう。悪いが、頼む。」

「はい。ちょっと待ってて下さいね。すぐにご用意しますから。」


美奈が部屋から出て行った。


彼女は覚えているのだろうか。向こう側での事。そして、それより少し前の…私が彼女にしたことを。

それを確かめる勇気は私にはない。少なくとも、私は向こう側で三人もの人間を殺めている。

美奈と、彼女の妹の理沙。そして、私の実の兄。そうだ。兄さんは…あの人も戻っているのだろうか。


恐怖に逃げ惑い、裏切り、支え、生き延びようとあがいていた人々。あれは幻だったのだろうか。


無意識に自分の両手を見る。この手に着いた血の色と匂いが蘇る。

幻でも夢でもない。ヤツらを倒した時のあの感触。鳴り響くサイレンの音。全ては現実だ。


「お待たせ、先生。」


美奈が戻って来た。トレーの上のカップからは、暖かそうな湯気が立ち上っている。


「眠気ざましには、お茶よりコーヒーがいいと思って。少し濃い目にしました。」


私の前にカップが置かれる。心地よいコーヒーの香り。久しく忘れていたような満ち足りた感覚。


「すまない。助かるよ。」


私は美奈が入れてくれたコーヒーを一口啜った。そう言えば、向こう側では何かを飲むこともなかった。

液体という液体は全てあの赤い水に変わり、私達はそれを口にすることを拒み続けていたから。


「美奈…。」

「はい?」

「君は…ずっとここにいたのか?今日はずっとここに…。」

「ええ、勿論。どうしたんです?今日の司郎さん、何だか変。まだ目が覚めないんですか?」


彼女が私の名を口にした。さっきよりくだけた口調で、彼女は楽しげに私の前で笑う。

椅子に腰掛けた美奈の姿が、酷く眩しく思えた。彼女はきっと覚えていない。私が犯した罪を。


「いや、いいんだ。そうだな。まだ夢から抜けきっていないらしい。」

「ふふ…。でも、そんな司郎さんもたまにはいいです。いつも完璧すぎるくらいだから。」


美奈の声を聞きながら、私はぼんやりと窓の外を眺める。

名残を惜しんでいた西日も翳り、外には夜の闇が迫っていた。

普通であることがこんなにも幸福だとは。

日の光も、部屋の灯りも、何気ない会話も、全てが輝いて見えた。


「…美奈。着替えたらまたここへ来てくれ。今日は…一緒に夕食でもしよう。」

「え?本当に?…嬉しい。」


彼女が笑う。


「私、貴方に話したいことがあるの。実はね、来週妹が帰って来るんです。」

「妹さん?」

「ええ。集団就職で皆と一緒に上京していたんですけど、あの子内気だから…。都会には馴染めなかったみたいで。」

「ここへ、戻って来るのか。」

「そうなんです。司郎さん、きっと驚くわ。あの子に会ったら。」

「そうか…。理沙さん…か。」

「…え?司郎さん、どうして妹の名前を?」

「ああ、いや。今君が言っただろう。」

「私が?言ってないわ。」

「言ったよ。」

「そうだったかしら?」


美奈が首を傾げる。知っているとも。君の妹の名前も、顔も、声も。


「理沙が帰って来たら…先生にも会って欲しいんです。あの子に先生を紹介したいの。駄目ですか?」

「ああ…構わないよ。会ってみよう。君の妹さんに。」

「本当に?良かった!じゃあ、私着替えて来ますね。楽しみだわ、お食事。」


私は答える代わりに彼女に笑顔を向けた。美奈が再び部屋を出て行く。


恩田理沙。そうか。彼女もこちら側へ戻って来ている。そして、恐らく彼女は覚えているだろう。

私と同じように、向こう側で見たこと、起こったこと、そして、私のことを。

その時私達は、お互いにどんな顔で何を話すんだろう。理沙。私が殺めたはずの女。


何故だか、理由なんて分からない。だが、私たちは生きて再びこの現実世界に戻って来た。

もう二度と、誰かを、自分自身を、不幸にするのは止めよう。そう、強く心の中で想っていた。

新しい目覚めがくれたこの人生を、今度こそ無駄にはしない。私は私らしく生きるのがいい。


明日は教会へ行ってみよう。恐らく、あの人もそこにいるだろう。

理沙も、あの人も、私を許してくれるだろうか。私の罪を忘れてくれるだろうか。

二人を前にして、私はその時何を言えばいいのだろう。


「おまたせ、先生。」


あの日の理沙と良く似た、ワンピース姿の美奈が部屋の入口に立った。


「ああ、行こうか。」


美奈をトランクではなく、今度は助手席に乗せて、私は町へと車を向けた。

次に目覚めた時も、今ここにある現実が夢で終わらないことを祈りながら。