日本軍占領直後の南京の食糧事情について軽くまとめてみます。
上海から南京を目指した日本軍は「徴発」という名目の略奪を続けながら進軍していきました。中国人に対する強盗を継続しなければ、戦闘を続けるどころか喰いつなぐことすら不可能だったのです。これが昭和期の日本軍の有様でした。
もちろん日本軍のこの悪弊は南京占領後も改善されることはなかったのです。
(12月15日)我が第十六師団の入城式を挙行す、師団が将来城内の警備に当たるのだとゆふものがある。終つて冷酒乾杯。
各師団其他種々雑多の各部隊が既に入城していて、街頭には先にも云つた如く兵隊で溢れ、特務兵なんかには如何はしき(いかがわしき?)服装の者が多い、戦闘後軍紀風紀の頽敗(頽廃?)を防ぐため指揮官がしつかりしないと憂うべき事故が頻発する。
城内に於て百万俵以上の南京米を押収する、この米の有る間は後方から精米は補給しないとゆふ、聊か(いささか)癪だが仕方が無い、因に南京米はぼろぼろで飯盒の中から箸では掬へない。
(第十六師団佐々木到一少将の日記・・・・偕行社「南京戦史資料集」P-380)
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このように、百万表!もの米を押収したそうですが?どうも桁が一つか二つ多いようです。つーか「城内」にはそれほど多くの備蓄があったとも思えません。(これらの疑問は以下の引用によって探っていきます)
つーことで、
「日中戦争南京大残虐事件資料集A英文資料編」(青木書店)より、
南京安全区国際委員会が日本軍司令部や日本大使館に食糧事情について訴えた文書を引用します。
★第1号文書 (南京安全区国際委員会・委員長ジョン・H・D・ラーベより日本軍司令官へ・・・・1937年12月14日)
「貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことに対して感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触を持ちたいのであります。
国際委員会は責任をもって地区内の建物に住民を収容し、当面、住民に食を与える米と小麦粉を貯蔵し、地区内の民警の管理に当たっております。
以下のことを委員会の手で行なうことを要請いたします。
(中略)
3.地区内において米の販売と無料食堂の営業を続行することを許可されたい
a われわれは市内の他の場所に米の倉庫を幾つかもっているので、貯蔵庫を確保するためにトラックを自由に通行させて頂きたい
(後略)
当市の一般市民の保護については、いかなる方法でも喜んで協力に応じます。」(P-120)
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安全区委員会にとっての大きな懸念は日本軍の敗残兵や難民への暴虐だけではなく、当然難民への食糧供給にもあったのです。
ラーベはいちいち「難民用の米を運ぶためのトラックは自由に通してくれよ、なあ」などと当たり前に思えるようなことに釘を指していますが、この不安は決して杞憂ではなかったのです。
★第5号文書 (ラーベより日本大使館の福田篤泰書記官へ・・・・1937年12月16日)
「昨日正午、交通銀行で貴下も出席された会見の折に少佐が指摘されたように、できるだけ速やかに市を平常の生活に戻すことが望ましいことです。
しかし、昨日、安全区内で日本兵が続けざまに暴行をおこなったため、難民の間に恐慌状態が強まりました。大きな建物に収容されている難民たちは、近くの無料食堂へ行って米粥を手に入れることもできないでいます。その結果、これらの建物へ当方が直接米を運んでやらねばならず、これが問題を一層繁雑にしています。われわれは米や石炭を無料食堂にかついでゆく人夫を集めることさえできなかったので、今日は何千人という人が朝食抜きで過ごさねばなりませんでした。
今朝、国際委員会のメンバーは、これらの一般市民に給食するためトラックで日本側歩哨線を突破するのに、必死の努力をしました。昨日、当委員会の外国人メンバーは、私用の車を日本兵により何度も徴発されるところでした。」(後略)(P-124)
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日本兵という飢えた野犬が無数に放たれた南京市内に於いて食糧を移送し難民に分け与えるには「必死の努力」が必要だったということです。
しかも日本軍は自軍の将兵の犯罪を抑えることが出来なかっただけでなく、難民への食糧供給に全く無頓着であり、おまけに安全区委員会の活動を妨害さえしていたのです。
★第14号文書 (ラーベより日本大使館へ・・・・1937年12月27日)
「福井氏(引用者注:福井淳日本大使館書記官)の配慮を乞う
12月1日に前南京市長馬氏が、安全区内の住民の保護に関する責任を当国際委員会に委託したさい、氏は米3万担、小麦粉1万袋を、市民の食糧用として当委員会に譲渡しました。(中略)
12月1日から12月11日の間に、貴軍の当市に対する攻撃によって城門を閉鎖しなければならなくなった時、当委員会は1万担の米と1,000袋の小麦粉を安全区内に何とか運び込むことができました。残りについては、戦闘が終結した後すみやかに確保できればと思っています。
12月14日付の南京日本軍司令官に宛てた手紙で、当委員会は市内の他の場所貯蔵米を持っており、それを確保するためにトラックの自由通行許可が欲しいということに、貴軍司令官の注意を喚起しました。
12月15日正午の会見で、この手紙に対する回答として、貴軍特務機関長は、既に移送した1万担の米は自由に使用してよいこと、そして他の倉庫に関してはその場所を調査し警備にあたる旨を述べたのでした。今日に至るまで、われわれは市の他の場所へトラックを運行させて貯蔵米を確保する許可を得ておりません。中国軍は10万担の米(当方の3万担とは別に)を南京郊外に保管しておりましたが、その大部分は南京占領の際貴軍の手中に落ちました。それで、20万市民を養うために、前記2万担の米を我々が確保することを、許していただけるようお願い致します。
地区内の各家庭の手持ちの米は急速に減少しつつある一方、当方の米の配給に対する需要は急速に増加しています。もし我々が全住民を養わねばならないとすれば、当方の予備食料は一週間ともたないでしょう。たとえ秩序が回復したとしても、何万、何十万という難民を春まで養わねばならないことになります。」(後略)(P-138)
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つまりは、
「あんたら、中国軍がキープしてた米をごっそり頂戴したんだろ?だからは喰うのに困ってねえだろ?
つーことで、俺らが南京市長から託された分の米を運び込むことは認めてくれよ!」
という、全く当然過ぎる要求だったのですが、日本軍はそれを受け入れることはありませんでした。それどころか「自治委員会」という傀儡組織を用いて南京の食糧流通を支配していたのです。
★第19号文書 (ラーベより日本大使館の福田篤泰書記官へ・・・・1938年1月14日)
「・・・・当委員会が福井氏と交渉しているのと時を同じくして、陸軍兵站部のT・石田少佐より、救援用として多量の米と小麦粉を売りたい、とスパーリング氏に話しがありました。クレーガー氏とスパーリング氏がこの件について石田少将に交渉を始めたところ、少佐は無料食堂用として米5000袋と小麦粉1万袋を売ろうと申し出ました。(中略)
三日後、クレーガー氏が米の受領の交渉に行ったところ、石田少将は、米も小麦粉も石炭も自治委員会を通じて配給することになったから、売れないと言うのです」
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・・・・そして自治委員会から無料配給用として米1250袋、販売用として1万袋が放出されることになりましたが、自治委員会は何故か配給用のはずの米も売却してしまい、販売用の米もチビリチビリと出し惜しみをしていました。このような異常な状況についてラーベは日本大使館に激しく抗議しています
また、ラーベは安全区の約25万人の難民に対して「一日に2000担の米(あるいは一日に1600袋)」を供給すべきであり(つーことは「担」ってのは「0.8袋」か)、
だから「貴下(南京日本大使館の福田篤泰書記官)が提案した三日ごとに1000袋というのは必要な量の三分の一にも足らない」と主張しています。(以上P-142〜143)
このような日本軍による嫌がらせは売り惜しみだけに留まりませんでした。
★第22号文書(ラーベより日本大使館へ・・・・1938年1月17日)
「福井氏の配慮を乞う
貴下に公信3通を送って以下のような要請を行いましたが、その件につきいまだに何の回答も得ておりません。
(1)1月14日、米と石炭の売買価格での配給が再開されるのはいつになるか知らせてほしいこと。自治委員会の手を経て米を販売するという取り決めが失敗してから、明日で一週間になるが、それ以来、正規の配給は行なわれていない状況です。
(2)1月13日、当方が上海商業銀行から買い付けた米と麦を運搬するために必要な通行書を与えてほしいこと。
(3)1月15日、上海から600トンの食糧を船で運ぶのに必要な通行許可書を与えてほしいこと。(昨夜、上海から得た伝言によれば、当方が必要な通行許可書を入手次第、直ちに予定の食糧を送る準備をしているそうです)」(P-145)
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米や石炭を売り惜しみするだけでなく、安全区委員会が購入した食糧を南京に持ち込むことさえ拒んでいたのです。食糧の価格が下落することで、自治委員会を通した販売の利益が落ちることを阻もうとしたのでしょう。
つーか、そもそも安全区委員会は難民のために確保していた筈の食糧を日本軍に押さえられていたのです。
★第28号文書(ラーベより日本大使館へ・・・・1938年1月27日)
「福井氏の配慮を乞う
私達は12月14日に南京の日本当局と接触をはじめて今日まで、地元の食糧事情について重ね重ね貴下と話し合いをして来ました。前・南京政府が当委員会に支給した食糧の引き渡しを早くから要請しましたし、後には救援事業のための食糧買入れの申し出をしました。しかし、後者の申し出は当局によって拒絶されました。そうこうするうちに、市内では余分な米はごくわずかしか手に入らなくなりました。そこで、各人手持ちの米の貯えも尽きつつあるし、当委員会の食糧も底をついてきましたので、当方は最初の要求、つまり前・南京政府によって当委員会に支給された食糧全部を引き渡して下さることを改めて主張せねばならないと思います。
従って、事の次第を明確にするために、詳細をことごとくここに申し述べるものであります。
前・南京市長、“馬”氏は11月30日付の手紙で3万担の米を支給すると約束し、また12月3日付の手紙では小麦粉1万袋を当方に支給すると述べました。
12月2日に我々は米15,000袋の支給証、さらに同5日に米5,009袋分の支給証をそれぞれ受理しました。
我々は、このうち8,476袋だけ運び入れることができ、別に下関収容所の難民に600袋割り当てました。
つまり全部で9,076袋(11,345担)の米を受け取りました。
しかし、二つの支給証の合計は2万袋になっていますので、日本軍が12月13日に南京市を占領した時まだ当委員会に引き渡されていなかった10,933袋の米だけはまだ要求することができるわけなのです。
当方が支給証の書類を持つ小麦粉1万袋の方は全然受け取っておりません。我々は1000袋の小麦粉を運び入れましたが、それは亜細亜火油公司から手配されて大東製粉公司から贈られた、まったくの別個のものでした。
この問題を次の表にまとめてみました。
● 米 ●
支給証発行分・・・・・・・・20,009袋
実際受理した分・・・・・・・・9076袋
12月13日の前にも後にも入手できなかった分・・・・10,933袋
● 小麦粉 ●
支給証発行分・・・・・・・・10,000袋
実際受理した分・・・・・・・・ゼロ!
12月13日の前にも後にも入手できなかった分・・・・10,000袋だっつーの!
上記の食糧は南京の救援事業に使用するため一国際委員会に支給されたものであることは明らかであるのがおわかりいただけるでしょう。
貴当局がこの問題をどのように処置されて事態をあきらかにされるお考えであるか、書面をもって当方に御回答していただければありがとうございます。
御協力に感謝します。(P-150〜151)
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ちなみに、前日に米・英・独各国大使館に宛てた★「第25号文書」(P-148)は、上記「第28号文書」と要点は同じですが、
「この米10,933袋と小麦粉1万袋が一国際救援委員会から日本当局によって没収されてしまったということがおわかりになるでしょう」
と、あからさまに訴えています。
・・・・・以上をまとめてみると次のようなことが言えます。
◆日本軍は食い物を持たずに南京になだれ込んだ
◆まずは南京郊外で、中国軍がキープしていた約「10万担」(8万袋)の米をゲットした
◆それから南京市内で1万袋の米と小麦粉を奪った
◆つーか↑それは難民用の食糧なんすけど・・・・
(また、上記の佐々木少将の日記に見られる「城内に於て百万俵以上の南京米を押収する」という記述は、
恐らく城外に於いて中国軍が確保していた8万袋程度の米を押収したことか、あるいは南京市内で1万袋の米と小麦粉を押収したことではないか、と思われます。)
◆こうして略奪した食糧は、「自治委員会」という傀儡組織を通じて売りさばいて儲けようとした
◆儲けが薄くならないように、安全区委員会が他所から食糧を持ち込むのを妨害した
さらには、日本軍は難民への食糧供給には全く無頓着、無関心だったと言えます。つーかそれどころじゃなかったんでしょう。何しろ自分たち自身の食い物を確保することすらおぼつかなかったのですから。
揚子江の河原で多数の捕虜を虐殺した「山田支隊」の兵士の陣中日記にもこの事情が窺えます。
★【遠藤高明】陣中日記
(12月16日)「・・・・捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し第一大隊において射殺す。
一日二合まで給養するに百俵を要し、兵自身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものの如し」(「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」P−219〜220)
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このように捕虜に食わせる物が無いどころか自分たちの食い物すら略奪に頼っていた状態で、数十万の難民への食糧供給を顧みる余裕があるわけがありません。ラーベらが難民の救済に奔走するのを傍観しつつ、時には妨害していたのです。難民が飢えようと死のうと知ったこっちゃなかったのです。
・・・・もっとも、当たり前のことですが日本軍は難民を困らせるのが目的で食糧を略奪し、販売を渋り、外部からの食糧流入を拒んでいたわけではありません。自軍の食糧確保の為に略奪し、南京の物流を手前勝手に統制していただけなのです。この数年後中国各地で行なわれはじめた三光作戦とは違い、中国人の食糧を奪うこと自体が、中国人を飢えさせること自体が目的ではなかったのです・・・・。
(日本茶歴史ボード19291より)
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