コラム:西洋古典ミニ事典
三段櫂船
二〇〇四年二月、西洋古典叢書第III期第1回配本「月報」から、執筆者の許可を得て本HPに転載
古代ギリシアの軍船は、前八〇〇年頃に、船尾に敵船を突く青銅製の衝角が発明されたことによって誕生した。初期の軍船は、ペンテコントル(「五〇の櫂を備えた」の意味)と呼ばれる長船で、左右に二五人の漕ぎ手を配して進むものであったが、甲板はなく、トゥキュディデスの頃にはすでに時代遅れのものと見なされた(『歴史』第一巻一四)。ペロポンネソス戦争の時には、軍船の花形はトリエーレース、すなわち三段櫂船(あるいは三段橈船)であった。前四一五年アルキビアデスのシケリア(シチリア)遠征提案を容れて、艦隊が出航したとき、三段櫂船の数は一三四隻に達したと言われる(『歴史』第六巻四三)。
三段櫂船の名前が示すごとく、三段の櫓座を有するものであったが、上段には両側に三一人の、中下段にそれぞれ二七人の漕ぎ手がいたとされるので、それだけで一七〇人、さらに戦闘員、舵手、そして船長と、一隻だけでも総勢二〇〇人を超えたと考えられる。通常の速さは、アテナイからミュティレネまでの三六〇キロメートルの距離を二四時間で行き着いたという記録があるので、平均して八ノット、およそ時速一五キロメートルで航海したことになる。戦闘態勢に入ると、最高速度のときには一一・五ノットのスピードをだしたであろう、と現代の技術史家は推測している。ともあれ、古代の海戦はわれわれの想像以上に、スピード感あふれるものであった。もっとも、食料庫も寝室もなかったから、陸に上がって食事をとったり、休んだりしなければならず、ずいぶん不便なものでもあった。
三段櫂船がとった戦形でもっともよく知られているのはペリプルスと称するもので、敵艦に対して衝角を向けながら後進し、隙を見て旋回し、敵の横腹に衝角で激突するやり方で、サラミス海戦で数にまさるペルシア軍に勝利したのもこの戦法である。ディエクプルスという戦法は、一列に並んだ艦隊の先頭艦が、敵船に衝角をぶつけて混乱に陥れるものであるが、そのためには速力と高い技術力が必要であった。防御法としてはキュクロスと呼ばれるものがあり、衝角を外に向けながら円形に陣取った。アルテミシオンの海戦でギリシア軍が用いたのはこの戦形である。
「前5世紀の三段櫂船の復元模型」
L.Casson,The Ancient Mariners.New York 1959より
(文/國方栄二)