石井琢朗と鈴木尚典が横浜を去った夜の記憶。
石井琢朗の引退にあたり、カープファンが純粋にその幕引きを惜しみ、哀しんでいるのとは別に、琢朗が20年間中心選手として君臨していた横浜贔屓の人間、特に筆者が如き、マシンガン打線の「1番ショート石井琢朗」の姿がいつまでも脳裏から離れないただれた懐古ファンにとっては、拭い切れないモヤモヤとした感情がある。
横浜の3年間続く90敗越えシーズンの最初の年となった2008年の終盤。石井琢朗と鈴木尚典という日本一の功労者二人に球団から戦力外通告がなされた。二人とも「まだできる」という思いを抱えながら、進退が決まらぬまま迎えた10月11日のハマスタ最終戦。試合終了後、(進退が決まっていないから当然なのだが)セレモニーの類は何も用意されず、ベンチから人影が消えてからも、ライトスタンドはいつまでも琢朗と尚典の応援歌を繰り返していた。
そんな中、琢朗と尚典がライトスタンドに向かって走り寄ってきた。応援歌が鳴り響く中、寡黙な尚典が黙ったまま深々と頭を下げる。そして琢朗は指でシーっとスタンドを制すと、絶叫した。
「ありがとうございました!」
スタンドが泣きじゃくっていた。筆者自身、涙でボロボロで周囲が何も見えなかったのだが、少なくとも周りにいた人達はみんな泣いていた。別れの寂しさだけではない。あの人生最良の年、'98年の歓喜をもたらしてくれた功労者二人が、こんな形の最後でいいのかと、後悔の念が心を満たしていた。散々「勝てないなら若手に切り替えろ」なんて叫んだり、ベテラン偏重を揶揄して「錆び付いたマシンガンで今を撃ち抜こう打線」とか週刊誌に書いてごめんなさい。こんな形で終わってしまうなんて、ごめんなさい。
その後カープへの移籍が決まった琢朗は自腹でスタジアムを貸切り、「琢朗から『ありがとう』の会」というお別れ会を開催したが、球団的な催しは最後までなし。セレモニーは琢朗本人が拒否したという話もあるほど、感情的にこじれた別れだった。
「横浜の琢朗」としての最後のインタビューで示した覚悟。
「“ベテラン”という存在は、チームが勝たないと認めてもらえない。チーム状態が良ければ“精神的支柱”と称えられますが、低迷すれば邪魔者扱いされる宿命ですよ。今はもう、後ろは振り向かない。特攻隊になったつもりで、カープを強くするためだけに前へ、前だけへ進んで行きます」
「横浜の琢朗」としての最後のインタビューで、そんなことを言っていた。その言葉には横浜で現役をまっとうできなかった悔しさ、そして広島に野球人生を賭けるという覚悟がにじみ出ていた。
その覚悟は移籍してからも変わらなかった。
「カープを強くしたい」
そんな思いが、毎日のように更新されるブログからも、インタビューからも伝わってきた。もう何十年も在籍しているようなカープ愛は、ファンに愛され、チームメイトに愛され、いつしか「赤い琢朗」という移籍当初の呼び名を使う人間はもう誰もいなくなっていた。
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