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時論公論 「iPS細胞 受賞の意義」 2012年10月08日 (月)
谷田部 雅嗣 解説委員
ニュースでもたびたびお伝えしているように、今年のノーベル医学・生理学賞は京都大学の山中伸弥教授たちに与えられることが発表されました。
日本人のノーベル賞受賞は19人目。
医学生理学賞は25年前の利根川進さん以来、2人目です。
今夜は予定を変更して、受賞の意義についてお話したいと思います。
人のiPS細胞は京都大学の山中伸弥教授が2007年に世界で初めて作ることに成功したものです。(ネズミのiPS細胞は2006年発表)
研究の発表は世界的な反響を呼び、再生医療の実現に向けて期待が高まってきました。
iPS細胞は培養することで、心臓の細胞や神経細胞など、体中の細胞を作ることができます。
山中さんは5年前の発表以来、世界をリードし、日本国内で人のiPS細胞による再生医療を実現させようと、研究を続けています。
発表当初からノーベル賞は確実とみられ、毎年有力候補として名前が挙げられてきました。
そしてついに、今年のノーベル賞受賞ということになりました。
日本人の医学生理学賞の受賞は二人目ですが、現在も過去もノーベル賞にふさわしい研究者はたくさんいました。
1901年の一回目のノーベル賞でも日本人が受賞する可能性がありました、
破傷風の研究で知られる北里柴三郎です。
当時の選考資料で有力な候補者であったことが明らかになっています。
日本がヨーロッパでは新興国であったことが選考に影響したのではないかと見る専門家もいます。
もし一回目に北里が受賞していれば、日本の医学に対する評価が高まり、その後の受賞者の数も変わっていたかもしれません。
iPS細胞とは
さて、受賞の対象となったiPS細胞について見てみましょう。
材料になるのは人間の体の細胞です。
例えば皮膚の細胞を取り出します。
ここに、山中さんたちが発見したiPS細胞を作り出す力を持った4つの遺伝子(山中因子と呼ばれている)を入れます。
培養して得られるのがiPS細胞です。
これには体の細胞にはない二つの大きな特徴があります。
無限に増殖すること。
そして、体の中のあらゆる細胞を作り出す能力。多能性です。
条件を変えてiPS細胞を培養すると、心臓の筋肉細胞・心筋細胞や神経細胞などを作り出すことができます。
これまでに人間のiPS細胞から作られたのは、神経、肝臓、すい臓、目の網膜、血液などの細胞があります。
それぞれ、脊椎損傷、パーキンソン病。肝臓病や糖尿病、視力が落ちてしまう網膜の病気、加齢黄斑変性症の治療などに役立つと考えられています。
iPS細胞が優れているのは、患者の体の細胞から作り出せば、移植する細胞は患者の細胞と同じなので、拒絶反応を防ぐことのできる点です。
この5年間で研究が進み、来年には網膜細胞の移植で、臨床試験が始まる見込みです。
初期化・生物学的意義とは
今回のノーベル賞は、山中さんと同時に、イギリスのガードンさんが受賞しています。
受賞理由としてノーベル委員会は「初期化」という言葉を使っています。
初期化というのは受精卵のような状態になることを示します。
私たちの体は受精卵が分裂し、200種類、60兆個という体の細胞が作られることで成り立っています。
これは一方通行で、体の細胞が、受精卵の状態になる、つまり初期化することはありません。
この生物学の常識を根底から覆し、体の細胞を初期化できることを示したのが、二人の研究です。
ガードンさんが作り出したのはいわゆるクローン技術です。
体の細胞の核を、核を除いた未受精卵の中に入れてやると、受精卵と同じ初期状態に戻ることを明らかにしました。
一方、山中さんは受精卵に近い細胞の中だけで働く遺伝子を見つけました。
これを体の細胞の中に入れると初期化が起きる。つまりiPS細胞を作り出しました。
二つの研究は、生命の仕組みや寿命などを研究する新しい道を開きました。
iPS細胞の応用
iPS細胞が役に立つのは再生医療だけではありません。
病気のメカニズムの解明や、新薬の開発などにも応用できます。
たとえばALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気です。
10万人に一人の割合で発生するといわれます。
筋肉の力が衰え、動かすことができなくなる病気で、延命治療はできますが、根本的な治療はできません。
病気の原因やメカニズムを調べることも困難でした。
ところが、ALS患者の体の細胞からiPS細胞を作り、神経細胞を育てることができるようになりました。
正常な人から同じ方法で作った細胞と比べることで、ALS患者の神経細胞で、神経細胞の突起が短くなったり、細胞が壊れることが多いというALSのメカニズムが明らかになってきました。
さらにこの細胞は、治療薬の開発にもつながります。
細胞に、新薬の候補となる物質を加え変化を見ると、効果がわかります。
ALS以外にも解明の難しい難病を克服できる可能性があります。
iPS細胞実用化の課題
ノーベル賞で活気づくiPS細胞ですが、実際に私たちが治療を受けることができるまでにはまだ時間がかかります。
作られる細胞の品質とコスト、そして量産できる体制の整備が必要だからです。
品質というのは大変重要で、安全で安定性のあるものでなくてはなりません。
iPS細胞を作るために使われる遺伝子の一つはがん遺伝子です。
移植された細胞ががんを起こす可能性があります。
がん遺伝子を使わなくてもiPS細胞を作る技術開発が進んでいます。
もう一つの問題は移植される細胞の安定性です。
例えば移植する心筋細胞の中にiPS細胞のままのものが混じっていると、関係のない細胞に変化し、障害になります。
実用化のためには、薬などと同じように、品質が安定していることが必要です。
個人個人の性質が違うようにiPS細胞の性質は人によって違います。
安全性や安定性の確認はiPS細胞を作るたびに行わなくてはなりません。
その度に検査費用として数千万円が必要と見込まれています。
期間も数ヶ月は必要になります。
iPS細胞を利用した移植で期待されているのが、脊椎損傷の治療です。
ネズミを使った研究では、障害を受けてから2週間以内に治療を始めないと、効果がありません。
患者の細胞からiPS細胞を作り、安全性や安定性を確認していると治療には間に合わなくなります。
そこで、安全性が確認されたiPS細胞を集め、血液バンクと同じように、iPS細胞バンクを作る計画も進んでいます。
拒絶反応を完全に抑えることはできませんが、すぐに治療に利用できます。コストを抑えることもできます。
iPS細胞の実用化には欠かせない仕組みと考えられています。
まとめ
来年から一部の臨床試験が始まるとしても、iPS細胞が実際に医療に使われるまでにはまだまだ時間がかかります。
実用化するために長期的な研究資金を確保しなくてはなりません。
アメリカでも再生医療にも力を入れていますが、この分野の最先端ともくされていた企業が、昨年、研究を中止しました。
収益を生むまでの期間が予想よりも長く、研究資金が続かなくなったためです。
iPS細胞が日本の未来を支える技術であるとして、国を挙げて支援してきました。
iPS細胞を利用した医療はいつごろ実現するのか。
今回のノーベル賞は体の細胞を初期化させ、iPS細胞を作り出したことに与えられました。
再生医療に使われ、多くの患者を救い、医学の面で評価を受けるのはまだ先です。
ノーベル賞受賞は喜ばしいことですが、iPS細胞の実用化には更に地道な努力が必要です。
(谷田部 雅嗣 解説委員)