晴れた日の芝生の感触は、ついそのまま寝転んでしまいたくなるくらいに気持ちがいい。  しなやかな肢体をまるく縮こめて膝を抱え、目を閉じた頭の上、獣の耳だけが別の生き物のようにわさわさと動く。  不意に動きを止めたかと思うと、 「――――ふあぁ」  大口を開けて八重歯を覗かせる。寝ぼけ眼ににじんだ涙をぬぐうと、今度は髪が気になってきたらしい。  狛纏の亜人は毛が白い。耳の先から尻尾の先まで真っ白で、夏でも冬でも毛が白い。  だだっ広い草原に真っ白がぽつりと座り込んで、狛纏の旋は今日も昼寝に精を出す。  ――違う。そうじゃない。  べしりと、耳が頭を叩いた。  内股に抱えた膝の間から、のそりと頭が持ち上がる。  天邑がそびえる山の中腹南側、哨戒連絡符丁でいうところの『ハの十二』の見張りこそ、下っ端狛纏五人与第三十六班の一員たる旋の役割である。  仕事しろ仕事。そう自分に言い聞かせて目尻をこすり、旋は自分に割り当てられた区域へ順番に目を配らせる。  南向きの斜面は高山植生の草原が広がるなだらかな丘になっている。夏の盛りには辺り一面の草々が一斉に花をつけるが、それはもう少し先の話だろう。少なくとも今の季節、この場所での哨戒任務はほとんど休憩と言えるほど、あまりに見通しが良い。  見通しが良すぎる。  芝生。  原っぱ。  草むら。  草原。  草やぶ。  野原と草地とちょっとした茂みと蔦草の群生地。  結局のところ、これが一番いけないのだと思う。延々こんな何の代わり映えもしない緑一色を見せられ続ければ、だれだって意識が遠くなる。   鼻の辺りまであくびが帰ってきた。  だいたい、お仕着せの制服が暑すぎるのだ。普段の装束の上に着る漆塗りの革胴鎧は当然に真っ黒で、絶望的なまでに風通しが悪い。おかげで頭が火照って任務どころではない。旋は陽に当たって熱を持った白い髪を左手でかき回しながら、鎧を緩め、 「おっ疲れー、旋ちゃーん」  後ろから、声が掛かった。  振り返る。 「ふ、わ……!」  と同時に、頬にひんやりとした感触。 「少し飲む? まだ冷たいよ」  飲み水を入れた竹の水筒だった。声の主は馴染みの癖っ毛で、旋と同期で見廻りに配された彼女は名を薊という。 「ええと、もう交代ですか?」 「もうすぐね。――はい、どうぞ」 「あ、どうもいただきます」  にっ、と、薊が笑う。嬉しそうに動く尻尾が見えた。  差し出された竹筒を受け取って口を付ける。冷水が渇き切った喉に染み込むこの一瞬は、やはり生き返る心地がする。少しこぼれた水で口を拭い、目元を洗い、すっきりした視界の端――、 「……今、誰かいませんでした?」  草原の向こう。斜面を幾百歩ほど下った場所、立ち入り禁止の境界を示す石積みの段差の下。 「え? あー、どうだろう」  同意を求めた薊は曖昧な返事で頭を掻くが、旋は確かに誰か居たような気がする。 「わたし、見てきますね」  生返事の薊を後ろに残して、人影のあったほうへ歩いた。  十歩、五十歩、百歩、あともう少し、――見えた。  石垣の向こうで、黒い頭がぴょこぴょこ動いている。天邑で黒い髪といえば、駒翼族と相場が決まっていて、ちゃんと翼もついている。背格好からして子供らしいが、後姿では性別までは分からない。  別に、歩き回るのが悪いということはない。少なくとも決まりでは、石垣よりこっちが立ち入り禁止なのであって、それより向こうでは座ろうが寝ようが文句を付けられる筋合いはない。だがそれはそれとして、他に気にかかる点がある。  普通、駒翼や狛纏といった下級士族の子供たちは、ある程度大きくなってから成人するまでの期間を、親元から離れ山の麓にある寄宿舎住まいで過ごす。  貴き原種たる天津御子と幻臣を頂点とし、幾つもの階層に細分化された階級社会に生きる亜人たちの地位の半分は、出自で決まる。残るもう半分を決めるのが、この時期であり、子供達はそこで天邑の掟と務めるべき御役目を叩き込まれるものだが、ここと寄宿舎ではずいぶんと離れている。ふらりと散歩でもして立ち寄れる距離ではないし、かといってここは何か用事があるような場所でもない。  近付いて、石垣の上から覗き込む。羽の邪魔にならないよう背の空いた服は最近良く見る首筒式。まだ出来上がらない華奢な体に、肩に触れない程度に切り揃えられた髪。相手もこちらの存在に気付いたようで、振り向いた顔と目が合った。  女の子だ。 「あ、あの。見廻りの人ですよね」  向こうから声を掛けてくるとは思わなかった。あ、うんと気の抜けた返事をして、旋は首肯する。少し違うが、やっているのが同じ連中である以上は見張りも見廻りも似たようなものだ。 「ここにいるのって、不味かったりしますか? ごめんなさい、道がわからなくって」  なるほど、迷子だ。  変に高圧的にならないようしゃがんで目線を近づけた。 「ええと、どこに行きたいの?」 「いったん寄宿舎に帰ろうと思うんです」 「それじゃあ、あっちだね。ちょうど幟が見えるし。あれは箕立屋の幟かな。わかる? 四つ辻の斜向かいに二つ同じ店があるところ」  木立の向こうに見える客寄せの幟凧を示すと、少女が首をかしげた。 「幟? 幟が見えるんですか?」  どうやら、見えないらしい。  いくら狛纏が遠見に秀でるとはいえ、駒翼は空を飛ぶ種族だ。日のある内は狛纏に見えるものが駒翼に見えぬ道理はない。  ――ああ、そうか。  とすれば、問題は膝より低い彼女の視点。旋は眼下の少女に手を伸べる。 「本当は石垣に登っちゃうと立ち入り禁止ですから、内緒ですよ」 「あ、はい。じゃあ」  少女はそう言って石垣に手を掛ける。旋の差し出した手に少女の指先が触れる、 「崩れやすいから、気を付けて」  知っていたのだから、もっと早く言えば良かった。  今まさに少女が登ろうとしているこの石積みは、山を一周ぐるりと覆う規模の大きさが災いして、石を周りに噛ませもしない素人の積み手が積んだ場所がいくつもある。そういうところに、足を掛けてしまったのだと思う。  こちらの手を取ろうとしたその瞬間、均衡を崩した少女を、旋は体勢は整わずとも反射的に受け止めようとした。伸ばしたさらに前へ、落ちていく少女を追いかけて、ようやく手が届く。  間に合った、と、思った。  空を飛ぶ駒翼は懐に物を入れない。その代わり、物を持つときは袋に入れ、重心を変えぬよう脇腹辺りに縛って持ち運ぶ。  少女は普通の倍ほどもある袋を、腰から提げていた。それが悪かったのかもしれない。思っていたものと違う力が掛かって、ぐるりと下へ引きずられる。  どさ、と音を立て、二人まとめて下の地面に崩れ落ちた。  すこし、くらくらする。  なんとか少女を下敷きにはせずに済んだようだが、代わりに肘やら膝やら身体の所々が鈍く痛い。  目の前で、軽く頭でも打ったのか少女がむずりと身悶えする。  半分折り重なった状態から身を起こして、自分が手をついているのが、拡がった少女の翼だと気が付いた。 「あ、ご、ごめん」  手が触れて初めて分かる。あえて蔑ろにしているのかというほどに、酷く荒れた羽だった。  少女は、左の翼は半端に、右の羽は大きく拡げ、仰向けに倒れている。  そう見えた。  それが間違っていることにはすぐに気が付いた。  違う。これは、この左羽は、折り畳まれた翼ではない。投げかけようとした言葉ごと、息を呑んだ。  不自然に小さく、捩れ、不揃いな方向を向く羽先。こういう羽をした駒翼の話を、旋は幾度か聞いたことがある。  その話を旋に聞かせてくれた駒翼は、それを、縒れ羽と呼んだ。ごく一部の駒翼が先天的に患うある病の俗称のことだ。翼の話など門違いの旋はしかし、どういうわけかその言葉を強烈に覚えている。  巧く飛ぶこと、速く飛ぶことが何よりの名誉とされる彼らの世界において、飛べない駒翼に向けられるのは、きっといつだって嘲りか同情のどちらかでしかない。  駒翼の話だ。羽を持たない狛纏である旋には、空を飛ぶ矜持も、地を這う恥辱も知る由が無い。  完全に気を取られ、思いに耽る旋の下で、少女がびくりと身を震わせた。  気付いたことに、気付かれた。  泣きべそそうな顔が余計泣き出しそうに歪むのを、視界の端に垣間見た。少女が弾かれるように顔を背ける。何かを言おうとした口が、結局何も言わずに唇を噛んだ。被さった旋を乱暴に押し退けて、旋の下から這い出ながら噛み付きそうなほどに睨み付けて、何か吐き捨てたそうに口ごもって、最後まで一言も言わぬまま逃げ出した。  駆けて行く背中を、旋はその場に座り込んだままで見送った。  なぜ追わなかったのかと後悔も募るが、追ったところで掛ける言葉が思いつかない。  もう、背中は見えなくなった。  どうすればよかったのだろう。  どうしようもなかったと思う。少なくとも旋には。  申し訳ないような、悲しいような、なんとなく釈然としないまま立ち上がると、身体のどこかに引っかかっていたのか、小さめの巾着袋がぽとりと落ちた。旋のものではない。絞りの部分をちょいとつまんで、拾い上げてみる。  中身は握り鋏に飴玉、鉛筆、水晶の欠片と、それから塀や地面へ何がしか書き付けるときに使う白い石――たしか蝋石といっただろうか。 「ねえ」  薊の声がした。  石垣の上を振り返る。  旋が転げ落ちたのを遠目に見て、追いかけてきたのだろう。 「結局誰だったの? 怪我はしてない?」 「あ、大丈夫です。あの子、駒翼で、迷子の子で、道を聞かれたから教えてあげたんです」  薊はふうん、とさして興味もなさそうに鼻で返事をして、段差をよじ登ってきた旋の手の内の品々に薊の目を留める。 「それは?」 「ええと、さっきの話の子の落し物、だと思いますけど」  口をへの字に曲げられた。  追っかけて渡せばよかったじゃん、というのが薊の言で、旋だってまったくその通りだと思う。 「まあ私もそう思うんですけど、それも出来なくて。その子、逃げちゃって、ええと、なんでかっていうと縒れ羽で、それを私に見られたから、それで、」 「――よれはね、」  ばっさりと、旋の話の腰を折って、折った話は半分くらいしか聞いてない顔をした薊が、鸚鵡返しにそう呟いた。 「よれはね、って、あの縒れ羽? 空飛べないやつ? こう、ぐしゃってなってて」  それ以外にどの縒れ羽があるというのか。 「そう、ですけど」  それがなにか、とは言えなかった。返事を聞くや否や、こちらにぐいと詰め寄る薊は、明らかに目の色が変わっている。  嫌な予感、ではちょっと足りない。もっとずっとあからさまに、これは良くない流れだろう。 「じゃあ――じゃあさ、ちょっとお願い聞いてくれる?」  余談かもしれないが、旋は薊の"お願い"を断れた試しは一度もない。  こういうところがあるが故、旋は薊が嫌いではないが、少し苦手である。 *  ついでで良いのだ、と薊は言った。  縒れ羽というそうそうない手掛かりもある。その年頃の子供はひとり残らず寄宿舎にいる。つまり探し出すのは簡単で、だったらならば、ちょいと忘れ物を届けに行くついでで良いから、羽根を一枚貰ってきて欲しい。  落とし物など詰め所の片隅にでも取り置いておけば済むものを、おかげでわざわざ手渡しに行く破目になった。  初めて知った話だが、踏ん切りをつけて飛び出せば"必ずオチる"縒れ羽の羽根は、恋愛成就の縁起物なのだという。誰が最初に言い出したかは知らないが、当の縒れ羽からしたらこれほど失礼な話もないだろう。おまけに旋は今さっき件の少女に逃げられたばかりなのだ。これで気まずくないほど、旋の面の皮は厚くない。むしろ胃が痛い。  今のところ薊になんぞ借りがあるわけでもなく、思い返せばそれどころか、この前貸した金がまだ返ってきていない。 「…………はあ」  今の今更ぐずぐずと行きたくない理由を頭の中に並び立てしながら、大通りを辿っていると、閑散とした軒瓦の隙間から小高い山の上に見覚えのある建物――木造二階建ての寄宿寮が、ようやく見えてきた。  気分的には、もう見えてきてしまった、と言ったほうが正しいかもしれない。  そもそもである。  学び舎を巣立って何年と経ってなお、旋は寄宿舎が苦手である。伊達に下っ端などやってはいない。どこか鈍臭く間の抜けた旋は、当時からそれはもう立派な劣等生であり、教導たちから褒められた記憶もこれといってなければ、むしろ失態を謝らない日の方が珍しかった。  通りから横道へ折れて、山手への小路に入ると、また宿舎が家並みに隠れる。  一応、分かっているのだ。  駒翼の寄宿舎と狛纏の寄宿舎は隣接こそすれ一切の関わりはなく、生徒でもなければ問題を起こしたわけでもない旋が叱り付けられる筋合いなどこれっぽっちもありはしない。  しかし――  今登っている石段が、自分がかつて常日頃使っていたものと別の石段であろうと、昔の記憶を思い起こさせるに、なんら不自由はない。  教導だって同じだ。  階段を登り終えて辺りを見回すと、ひと目で分かった。あのばねでも仕込んでいそうなピンとした後姿が見える。  声を掛けれずおたおたしていると、こちらに気づいて寄ってきた。  壮齢の女性。駒翼だが、旋の知る教導によく似ていた。  誰に、というわけではない。  四角四面で説教臭く、怒鳴ってくれればいっそ楽なものを、ぴくりともしない仏のような笑みが百倍も怖い――知る限り、教導といえば揃いも揃ってそういう人だった。  この人もきっとそうだ。そう思うと、後ろめたくもないのに自然と言葉が篭ってしまう。 「す、すいません、お、お手を――ええと、わ、わずらわせてしまって申し訳ないのですけど、……こちらに、縒れ羽の子っていませんか?」 「縒れ羽――汐のことですね。あの子でしたら少し前に戻ってきて、またすぐ街へ出たばかりですが……あの子がなにか?」  にこり。笑いかけられているのに、なぜか泣きたくなった。  誤魔化すように早口でまくし立てる。 「そ、そんなに大したことじゃないんです、落し物が、その子の物らしいというだけで」 「落とし物、ですか。そういうことでしたら、こちらで預かり置きましょう。言伝があるのなら聞きますが」  言葉に従いそうになったが、ふと薊からの頼まれごとを思い出す。 「あ、いえ。街に出て探して……みます。直接会って渡したいので」 「しかし、行き先もわからないことですし、こちらでお待ちになられてはどうです? あの子は出かけると門限まで帰らないので少々長くはなるとは思いますが、わざわざ足を運ばせたんです。お茶菓子くらいはお出ししますから――」  冗談ではない。  今だってもう全身の毛が四割ぐらい逆立っているのだ。この上宿舎に連れ込まれなどすれば、顔に湿疹でも広がったっておかしくない。 「い、いいんですっ、お気遣いは嬉しいんですけれどっ、どの方向に行ったかだけ教えてくださればっ」  質問の返事だけ聞くと相手が口を開く前にとにかく頭を下げて、告げられた方向へ早歩きで逃げ出した。  丘を下る階段を、ばれないように一段飛ばしですっとばす。一番無難な選択を早々に失くしてしまったのは痛いが、通りに出て縒れ羽を頼りに聞いて回ればなんとかなるだろう――、  そう軽く思ったのが、どうやら運の尽きだったらしい。 「角の欠けた角螺なら見ましたが、ふむ。縒れ羽は見てませんな」縁側の爺はどうやらはずれ、 「あらあらごめんなさいねえちょっと心当たりがないのよねえ」茶店の女主人の返事も芳しくなく、 「いや、見ちゃいねぇンですわ。あー、その。それより姉ちゃん俺と茶ァしばく気ィありゃしませんかね」手当たり次第に声を掛けてみたが、事態が好転する兆しはない。  引き留めようとしてくる最後の男からほうほうの体で逃げ出して、振り返りつつ息をつく。よく考えれば、自分だって倒れるまで縒れ羽だとは気付かなかった。言葉も交わした自分がそうなのだから、道行く姿を見ただけの者にわかるとはずもなく。かといって、すごすごと宿舎へ引き返し、前言を翻して待つ気にもならなかった。  とにかく、足を動かす他にはない。  息を吸うのも忘れて、深く深くため息をついた。 「んー……、いや、わかんないなあ」  なにか買い食いでもしてはいまいかと、食い物――中でも特に甘い物に目星をつけて、旋に馴染みのある菓子屋はこれで七件目。 「で、どうする? いつものは買ってくの?」  話を終えて、次はどこを当たってみようかと思案する旋に、前掛け姿の店員が店先の品を示した。  ほとんど口を利いた覚えもなかったが、顔は知られるものらしい。 「すみません、今持ち合わせがなくて」 「ああ、じゃあやっぱり今日は買ってかないのか」 「……え?」 「いやね、お客さん、普段ウチに来るのはきっちり月に一度きりだから」  我知らず、きょとんとしてしまう。日を決めて通っていたわけではないが、向こうがそう言うのならばそうなのだろう。理由は、考えてみればすぐ分かる。そう毎度食っていては飽きが来てしまうというのもあるにはあるが、それよりなにより、給金の都合に他ならない。  だとすれば。  曲がりなりにも手に職をつけた自分がそうなのだ。ならば宿舎暮らしの件の少女が、まめに足を運べるわけもない。  菓子屋の名前を知っていたから、興味はあると見当をつけて聞き込んでいたが、相手の懐事情はすとんと頭から抜けていた。  そうだ。金はあるまい。あるわけがない。  少女の行き先を悩む代わりに、同い年だったころの自分と、重ね合わせてみる。  金がなければ、どこに行っただろう。  金も居場所もなかった自分が、日がな一日暇を潰していた場所、 「――あ、」  ひとつ、ぴたりと思い当たる場所があった。 「どうかしたのかい?」 「ありがとうございましたっ、また今度買いに来ますからっ!」  もうそろそろ、日も傾き始める時分だろう。  暗くなれば駒翼は飛べない。それに、宿舎の門限もある。駒翼と狛纏の門限が同じとは限らないが、夜目の利く狛纏より夜目の利かない駒翼の門限が遅いことはまさかないだろう。  すこし急ぐことにした。  健脚自慢には程遠いが、旋も取り立てて足が遅いわけではない。時間はあまりないとはいえ、使いっ走りが本分たる狛纏の足をもってすれば、間に合わないことは断じてない。  帰りの道で待ち構えればいいのだろうが、折角これだけ探し回ったのだ。街中で捕まえたいと思うのが人情だろう。  道行く肩の間をすり抜け、少々入り組んだ小路を駆けて、目指す場所に近づくにつれ、頭上が広く大きく開けてくる。  暇を持て余していたころの旋は、この広い空を目当てに、この場所に足繁く通ったものだった。  半分欠けた浅いすり鉢状のその場所は、駒翼たちの調練場。  ふたつほどの集団が遠く声を挙げ、何人かが空を舞っている他は、夕暮れの調練場は閑散としている。  見回すと、見世物の時には観覧席となる斜面の段差に、黒い頭がぽつりとあった。伸び始めた影が、段差で折れ曲がりながら背後へ続いている。  逆光気味の中目をすがめると、じっと上空を見つめる髪の長さと背格好はちょうど記憶に合致する。羽はよく見えないが、なにかを隠すようにぎゅっと両の翼を縮こめるように閉じるその不自然さが、それっぽいと言えばそれっぽい。  同じ列の、少し離れた場所に腰を下ろした。こっそり横目で窺った横顔は先刻の少女に違いなく、どうやらこちらにはまだ気づいていない。旋は座ったままにじり寄って、手が届くか届かないかの辺りまで距離を詰める。 「……こんにちは」  こちらに気づくや否や、少女は驚くほどの勢いで飛び退いた。き、と強く睨まれて、旋は思わず尻込みする。 「い、いやー、奇遇ですねえ、」 「嘘だ」  それはまあ、嘘だけれど。いくらなんでも取り付く島がない。 「ええと、ですね――」 「……なんなのさ」  噛み付きそうに隙なく身構えて、上目遣いで鋭く見つめて、少女が牙を剥く。 「僕に何の用? 追いかけて来てた? ずっと隠れて見てた? ほんと、なんなのさ、陰から人を馬鹿にするのが、そんなにっ――」 「ち、違、そうじゃなくて。探してたんですよ、あのほら、これ、たぶん落としたでしょう?」  あまりの剣幕に上体で逃げながら、旋は落とし物を差し出した。少女は驚いた顔でこちらの手の中と顔とを軽く交互に見比べて、躊躇して手を止める。こちらからも恐る恐る一寸手を伸ばすと、唇は真一文字に結んだまま、奪い取るように乱暴に、手の内の品々を受け取る。 「あ、わたしは旋といいます、狛纏の旋。……見ればわかるでしょうけど。汐、って、言うんですよね。それで、汐は」  少女――汐から居心地悪そうな目線がこちらを向いて、思わず旋は口をつぐむ。  けれど相手はそれ以上なにをするでもなく、なにかを口にもしない。うつむき加減に受け取った品を腰の袋に仕舞う。 「ひょっとして、嫌でした?」 「……別に。ただ、あんまり名前じゃ呼ばれないから」  何気なく口からこぼれ出てきた言葉が、他ならぬ旋には重く響く。  ただでさえ派閥争いや縄張り意識の横行する寄宿舎ではぐれ者への風当たりは強く、ましてや異物でしかない彼女にどんな呼び名がつくのかなど想像に難くない。まさか名前に限るはずもあるまい。子供たちに特有な、あの残酷さは、目の前のこの子をどこまでも深く傷付けるだろう。 「なんて、呼べばいいですかね?」 「あんたに呼ばれるのが嫌だ」  それでも流石に、この仕打ちはひどいと思う。  あんなに苦労して探し出したのに、嫌われるような真似をした覚えなどないのに、いくらなんでもあんまりだと思う。むしろやったのは感謝される類のことだろうに。そう思うと、意地でも礼ぐらいは言わせたくなる。 「ここにはよく来るんですか?」 「…………」 「わたしは、昔よく来てたんですよ。ここって、邪魔なものがない分、空が広々としてますから」 「…………」 「最初のうちは、それが見たくて通ってたんですけど。……あ、あの人。凪、って知ってます? 防人の」  いるだろうと思って探したら、やはりいた。指差したのは縁のある防人の女性。駒翼の中でも優秀な一握りだけが選ばれる防人の、その中でもさらに飛び抜けて優秀な人。 「知らない奴なんているもんか。駒翼なら」 「じゃあ、これは? あの人って絵を描くんですよ」  うつむいていた汐の頭が、少しだけ上がる。 「実は、わたしも一枚貰ったことがあるんです。空から見下ろした天邑の街の絵。あんまり下手くそだから、てっきり失敗作だと思ったんですけど。その少し前に、空を飛ぶのって、どんな感じなんですかって聞いてたんですよね。それで、『そんなん飛ばなきゃ分からない』ってばっさり切り捨てられて。だからひょっとして、その絵はあの人があの人なりに、わたしのために描いてくれたんじゃないかなって思うんです。だって、下手なのは今でも同じみたいだから。――飛ぶのはあんなに上手いのに」 「……知り合いなんだ」 「ええ。あの人は、わたしを友達だと言ってくれるんです。――あ、今こっちに手、振りませんでした?」  反射的に汐に顔を向けると、ほんの一瞬だけ目が合った、ような気がする。今はもうそっぽを向いてしまっているが、さっきまでこっちを向いていた。確証はないが、たぶん。  声を掛けようとした矢先に、汐が無言ですっくと立ち上がる。 「どうかしました? なにか、気に入らなかったとか」 「違う。もうすぐ門限だから」 「ああ、そういえば。じゃあわたしも帰りますね」  振り返りもせずにその場を後にする汐を、旋は影を踏まない距離のまま、歩き追いかけた。  通りに出る。   辺りに人が多くなってくる。  旋たちと同じく家路につく途中であろう人たちが後ろから、小走りに、あるいは早歩きに、それから普段通りに二人を追い抜いていく。  汐の足取りはどことなく重い。  ――まるで、帰りたくないって言ってるみたい。  顔を上げると目に映るのは、肩は尖って見えるくらいに華奢な小さな女の子の背中だ。  その背中を、竦めるようにして、丸めるようにして汐は歩く。  ――――。  汐を探しながら、話しながら、後ろを歩きながら、ずっと考えていた。  きっとこの子には、居場所がない。  そう思うのは、自分が少し、そうだったからというだけ。単なる邪推にすぎない。外れてくれるに越したことはない。  けれど、もしそれが正しいとしたら。自分の周りを自分を知らない者で埋め尽くすために、街をさまよい歩いているとしたら。  彼女にとって、この人ごみは、隠れるためにある。この街並みは、逃げ込むためにある。  知っている者、近付いてくる者は敵で、知らない者、遠くにあるものは道具だ。あの子は、ひとりぼっちだ。  ふと、周りの人ごみが密度を増していることに気が付いた。  目線の先には、人だかりがある。  辺りを目まぐるしく見渡す汐が、野次馬のひとりに話しかける。  漏れ聞こえる話によると、どうやら少し先で荷車が横転したらしい。  立ちぼうける汐に、後ろから声をかけた。 「こっち、いい抜け道ありますよ」  通りから少し分け入ると、住宅街に入る。  両側に並ぶのは、天邑ではよく見られる、鰻の寝床と呼ばれるような間口が狭く奥行きのある家だ。  ずらりと伝統的な格子戸が並ぶがゆえ、飾り彫りや格子障子にしてみたり、あるいは鮮やかに塗り分けてみたりと、住人は思い思いに狭い間口を飾る。  足元に鉢植えが並んだり、端のほうが欠けていたり、驚くほど拭き掃除が行き届いていたり、住む人の人柄も窺い知れる。本格的な夏の到来にはまだまだ程遠いが、二階から日除けの簾や筵、風鈴などを吊るす家も珍しくない。 「……ああいう格子戸って掃除が大変なんですよね、やったことあります? わたしの家なんかべたっとしたただの板戸だから平気ですけど、細ければ細いほど綺麗だって言ってすごく細かいのにしてるところとか、お嫁に行ったら死んじゃいますよね。杞憂って言っちゃえばそれまでなんですが」  本当は、この道は少し遠回りだ。ただ迂回するだけならもっといい道がある。  ただ、ふとこの子に見せてあげたいと思った景色がある。  子供のころ、ずっと空が飛びたかった。  諭されても馬鹿にされても、ただひたすら空を見ていた。用事や手伝いを言いつけられても、遊んでいる最中でも、気付けばいつのまにか空を見ていた。それを見咎めて聞く者があれば必ず、自分はいつかあそこへ帰るのだと、決まってそう答えたのだという。  そんな旋を他の子らは自然と遠ざけたが、そんなことは少しも気にならなかった。空ではいつだってひとりなのだ。  ただ、どうして自分に羽がないのか、ずっと不思議だった。ずっとずっとずっとずっと、ずっと不思議だった。  懸命に続けた空を飛ぶ練習が無駄だと知った後も、空を見詰める癖だけは直らなかった。  目の前の少女を、かつての自分に重ねなかったと言えば、それは嘘になる。  旋は行き止まりから石塀の上を猫のように伝い歩いて、人家の脇をこっそりと通り抜けた。  壁を伝ってますます狭苦しい通りに降りる。  さっきまで通っていたのが建物が面と面を付き合わせる腹通りならば、こちらは背通りである。  勝手口の並ぶ背通りはしばしばのたうつように蛇行している上、道幅が狭いので薄暗くて足場が悪く、おまけにこうやって通り抜けるためにあるものでもないので、行き止まりだって少なくない。 「――この辺りに住んでる?」 「まさか。わたし独り身ですし、住んでるのは寄宿舎よりもっと向こうですよ。暇なときにふらふらするのも、結構楽しいと思いますけどね。やらないんですか?」  汐は立て掛けられた桶を避け、倒れた箒をまたぎながら、 「路地裏には、入らないようにしてるから」  旋は荒れて細った木棚の間をすり抜け、雑木の小枝を踏み折って、 「んー、やっぱり敷居が高いものですかね、初めは骨折り損に感じがちですし。そういうとこ、案内してくれる人がいたらいいんですけど。さっきの玄関飾りなんかも、出自とか由来とか知ったら余計面白く――あ、もうすぐ開けますよ。見て見て」  狭い路地の建物が途切れて、西陽が差していた。五、六段ほどの石段を下ると、腰ほどの高さの垣根に突き当たって、道は左右に分かれる。  垣のすぐ向こうは、切り立った崖だ。  旋は石段の最後の一段に後足をかけたまま、視界の開けたはずの汐を振り返る。  言葉はなかったが、表情がすべてを物語っていた。 「まるで、空飛んでるみたいでしょ?」  夕陽と、高空を旋回するはずの鳶たちの背が見えた。  転げるような急傾斜に張り付いて広がる街並みの、道を挟んで土間と屋根とが向かい合う光景は、天邑でもこの辺りだけでしか見られない。山の根が重なった複雑な谷間に沿って伸びる表通りを、幾筋もの裏通りが追いかける。辺りを不規則に埋め尽くす瓦屋根は、けれど人の営みの表れでもある。その一軒一軒が鱗のように暮れ掛けの夕陽を受けて光を散らしていた。  高台から見下ろした天邑の住宅街は、普段の目線から見るより、ずっと人の活気に満ちている。  夕餉時の煮炊きの匂いが、生い茂り始めた夏草の匂いが、日に焼けた土の乾いた匂いが、鼻の奥まで匂ってくる。旋は、そんな人々の生活が息づいた町並みが、大好きだ。 「こういうのも、悪くないと思わない?」  だから、縒れ羽の少女にもそれを知ってほしいと思う。  地平の遠くを夢見ずとも、叶わぬ高嶺を見上げずとも、探せば手の届く場所に宝物はいくらでもある。  かつての旋に、止まり木にすぎなかった地上の素晴らしさを教えてくれたのは、一冊の手記だ。  食べ歩きに始まり、変わった建物を訪ね歩き、抜け道を書き付け、苗木の成長を記録し、手帳の中の老人は隅々まで天邑を楽しんだ。街中に散らばる小さな小さな歴史の覚書が、灰色だった旋の仮宿を鮮やかに彩った。  自分が、少女にとっての手帳になれたとしたら。半ばまで夢語りに、もう半分は本気で旋はそう思う。 「あんた、……あんたはさ、にこにこするのが、下手だよね」  虚空へ、けれど確認するように汐が呟いた。 「――、それはどういう」  顔色さえ確認する暇もなく、汐は旋の脇を抜けていく。 「道、こっちであってる?」 「え、あ、あってるけど、えっと、ちょっと待って」  随分と速かった歩調は、呼び止めると少し緩くなった。けれどそれきりで、返事もなくて、旋にはさっきの疑問を尋ね直す勇気も出ない。  風が強かった。  旋のそれより少し長い汐の髪が流れて、垣間見える顔は、やっぱり少し俯いている。  やはり自分は、浅はかだったかもしれない。  当たり前に飛べぬ狛纏が空を飛べないのと、当たり前に飛べる駒翼が空を飛べないのとは、まったく違う。旋と目の前の少女は違う。  飛べない狛纏は飛べない狛纏たちの間で育ち、飛べない駒翼は飛べる駒翼たちの間で育つのだ。飛べて当然の駒翼たちは、飛べない駒翼をどう思うだろう。飛べて当然の駒翼の子は、飛べない自分をどう思うだろう。  ――仲間だから、飛べる。友達だから、飛べる。  きっと子供心に、その考えはすごく明確な答えで、揺らぐことも、疑う余地もない。  そしてその考えが行き着く先は、たぶん大体、こういうところ。  ――だから、本当の本当に自分だけ飛べないのなら、それはきっと、自分は彼らの仲間でも何でもなかったということなのだ。  同じく飛べない仲間たちがひとりまたひとりと飛び立ち、最後の仲間が飛び去った時、地上に残された者はどうなるのだろう。いつかきっと飛べる。そのうち何とかなる。そんな頼りない言い訳にすがって一生で一番多感な時期を過ごす彼女に、幼い頃から告げられ続けてきた残酷な言葉と、風に漂うことが出来ない自分自身の重さは、どれほどの息苦しさを持って圧し掛かるのか。  発育不良を引き起こす病を患った駒翼は、人並みの翼を得るまでに、数十の齢を重ねなければならない。そして、生まれてから数十年もの歳月を地面に張り付いて過ごした駒翼は、たとえ羽を持とうとも、空を飛ぶことはできない。それは、人よりも下手だとか、人よりも小さいだとか、そんな生温い話ではない。社会の中で自分だけが地を這う別の生き物として、歪んだ翼と屈折した心を抱えて、生きていかねばならない―― 「ここから、どう行くの?」  不意に掛かった少女の声。釣られて上げた視線の先で、崖沿いの道はいつの間にか途切れていた。 「あ、ごめん、そこを左に。それで、その次は――、」 「……ああ、そっか。ここに繋がるんだ」  先を行く汐が立ち止まる。そういえば、目的地ももうずいぶん近く、道を知っていてもおかしくはない。汐はこちらが指示する前に寄宿舎へ続く石段を登り始めた。  旋は、その階段を登らない。 「それじゃあ、わたしはここをまっすぐだから、これで」 「あ、……うん」  階段を登る背中に、思いつく限りの声を掛けた。 「わ、わたしは、よく暇してるから。なにか用があったら五番の詰所で聞けば、居場所とか、仕事上がりの時間とか、だいたいわかるから、だから、なにかあったら、――なにもなくても、会いに来てくれていいから」  半分くらいは、言ったことを言ったその場で後悔するくらいの勢い任せだった。本当は返事が欲しかったが、少なくとも耳には入っただろう。これ以上を押し付けるのはただの迷惑だ。  返事がないまま、汐の背中が視界から消える。  仕方ないと、落胆にも似た心持ちに蓋を閉め、諦めて歩き出した。  頭上で、木柵の軋む音がした。 「――あのさ!」  頭を上げる。手摺からほんの少し身を乗り出した汐が、むず痒そうな顔で口を開いた。 「その、ありがとう」 「……へ?」  落し物の礼かと、ようやくぴんと来た頃には、もういない。  追おうなどとは思い付きもせず、ぼけらと突っ立ったまま、立ち去ってゆく足音を聞いていた。旋は我知らず顔を緩ませながら、ふと思い出す。  そういえば、羽根を貰うのをすっかり忘れていた。