この文章ではiPS細胞の誕生と、山中カクテル(山中ファクター)について書こうと思います。私は発生生物学が専門なのですが、再生医療分野とは微妙に畑違いですので、普通のこの分野の紹介記事とは一風違ったものになるかも知れません。iPS細胞の紹介記事には、いっぱい優れたものがあります。私は(http://www.ips-network.mext.go.jp/about/story/no01.html)から始まるwebページにたいへんお世話になりました。読者の皆様も読んでみて下さい。
 medlineで「iPS」をクエリーにして検索したところ、2006年に最初のiPS細胞の論文が出たばかりなのに、何と4,000本もの論文がヒットしてきました。すぐには論文にならず、特許が取れるまで機密を保持する企業の研究成果をも含めると、iPS細胞について分かってきたことはものすごく多いのだと思います。

 爬虫類、鳥類、哺乳類は有羊膜類と呼ばれ、魚類や両生類のような胚発生とは異なる発生様式を持っています(胚盤を作る)。その中でも哺乳類は卵割した胚が一度、胚盤胞というものをつくるのです。胚盤胞の中には内細胞塊(ICM: inner cell mass)という未分化な細胞の固まりがあり、これが子宮壁への着床後に胚盤を作ります(http://ja.wikipedia.org/wiki/胚盤胞)。

 「内細胞塊の中に未分化な細胞を入れて発生させれば、遺伝子改変動物を作ることができる」というのが、キメラマウス、トランスジェニックマウス、ノックアウトマウスの全てに共通した考え方です。ほとんど全ての細胞が、オーケストラ指揮者の総譜(スコア)のような設計図を、ゲノム中に持っています。
 未分化な(リプログラミングした)細胞には、まずはEC細胞というものがあったと、大学生時代に習いました。これは1970年にマウスのテラトーマ(奇形腫、「ブラックジャック」のピノコみたいなものです)から樹立された細胞です。ただこれはもとがガン細胞ですから、非常に高頻度に腫瘍を誘発し(ピノコがガンにならないか心配です。毎年検診を受けた方が良いでしょう)、今では未分化細胞として再生医療に用いる研究者は誰もいません。ただしEC細胞を増殖させ、胚盤胞に導入してキメラマウスを作ることはできます。1975年の仕事です。
 
Proc Natl Acad Sci U S A. 72, 3585-9. (1975)
Normal genetically mosaic mice produced from malignant teratocarcinoma cells(EC細胞によるキメラマウスの作製)
Mintz B. and Illmensee K.
 
 その後1981年にES細胞(胚性幹細胞)が樹立されました。この仕事でマリオ・カペッキ、オリヴァー・スミティーズ、マーティン・ジョン・エヴァンズは2007年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています(何と26年前の仕事!)。
 ノーベル賞の科学分野三部門は特別な賞で、その中でも医学・生理学が最大の激戦区だ、というのは多くの周囲の人たちの一致した見解です。ノーベルには「その年もっとも優れた科学業績を残した人物に対してこの賞を授与する」というような言葉があるのですが、実際には賞を受賞するまで何十年もかかることになります。以前紹介した神戸の理研の竹市雅俊先生も(ES細胞の前にEC細胞があった、と教えて下さったのも竹市先生でした)、今回紹介する山中伸弥先生も、ノーベル生理学・医学賞を受賞することは間違いないと思うのですが、それがいつのことになるのか見当も付きません。他分野の受賞者の顔ぶれを見て、「まだ現役で若いのになあ…」と羨ましく思うことはあります。
 ES細胞とは、内細胞塊の細胞を培養した細胞です。無限増殖能を持ってはいるのですが、その細胞単独で生きていくことはできないのでフィーダー細胞(feeder cell)という下敷きとなる細胞と一緒に培養します。現在ではES細胞がキメラマウス、トランスジェニックマウス、ノックアウトマウスの作製に使われます。1998年にはヒトのES細胞も樹立されています。
 トランスジェニックマウスの場合は外部遺伝子をES細胞に導入すれば良いわけですし、ノックアウトマウスの場合は外部マーカー遺伝子がゲノムのどこに導入されるか、それをコントロールするために外部配列を付けてあげて、本来の遺伝子とマーカー遺伝子とが置き換われば良いのです。両方とも、まずはキメラマウスを作って、その後キメラマウスのES細胞由来の配偶子を受精させることで、作製します。1975年のEC細胞を用いたキメラマウス作製の仕事がいかに重要なものであったか、よく分かります。一個の培養細胞から個体を作ることが出来るなんて!、ということです。この2人はノーベル賞を受賞してはいませんが、それに相当するレベルの素晴らしい仕事です。
 
 ただし、大きな倫理的問題があります。ES細胞の基となる内細胞塊というのは、ヒトの場合は1人の人間ですから、謂わば「殺人」を犯してしまっていることになります。また、ES細胞というのは他人の細胞ですから、移植拒絶の問題も深刻です。これらの問題をクリアーするために「自分の細胞で未分化な細胞を作ってしまおう」というのがiPS細胞の発想です。
 
Cell 126, 663–676 (2006)
Induction of Pluripotent Stem Cells from Mouse Embryonic and Adult Fibroblast Cultures by Defined Factors(マウス胚と成体の繊維芽細胞を、定義済みのファクターによって多能性幹細胞に誘導する)
Kazutoshi Takahashi and Shinya Yamanaka

 この論文の著者には2人しかいないのですが、ウィキペディアによると「韓国の捏造事件のために、Fbx15ノックアウトマウスの樹立に貢献した大学院生と技官の2名を著者に加えなかったことを大変後悔している」と山中先生は述懐しておられるそうです。
 
 山中先生たちは、卵やES細胞の核細胞質を移植すれば分化した細胞を未分化な状態に戻すことが出来ることから、この中には細胞をリプログラミングする因子が含まれているに違いないと推理しました。因子の候補として24個の遺伝子を選んで、Grb2などネガティブな効果(万能性を失わせる効果)を持つものは、ドミナント・ネガティブ・フォームのコンストラクトを作製しました。また、ES細胞のマーカー遺伝子であるFbx15遺伝子のプロモーター領域にネオマイシン耐性遺伝子をつないだコンストラクトも作製しました。この遺伝子が働くと抗生物質G418に対して抵抗性となります。山中先生たちは、もし細胞がES細胞様になったら、G418抵抗性コロニーが得られるのではないか、と予想しました。
 しかしながら、24個の候補遺伝子のどれを導入した場合にもG418抵抗性コロニーは得られませんでした。その反面、24個の候補遺伝子をすべて一緒に導入した場合には(インターネットにはウェルが一個余ったからだ、と書かれていました。それは面白く脚色した嘘だと思いますが…(24個同時というのは必要なポジティブ・コントロールです)Klf4遺伝子もたまたま手元にあったからだ、と書かれていました。)、G418抵抗性コロニーが得られたのです!
 ここから、まずは24個から1つずつ遺伝子を抜いて23個の遺伝子を導入することで、遺伝子の数を10個に絞りました。さらに同様の絞り込みを進めることで、Oct3/4、Sox2、c-Myc、Klf4という4つの遺伝子が細胞のリプログラミングには充分であることが分かりました。この遺伝子群を「山中カクテル」と呼んでいます。この中に山中先生が以前見つけられた、ES細胞の万能性維持に必須な遺伝子であるNanogが含まれていなかったのは不思議です。山中カクテルの下流で、発現が誘導されてくるのでしょうけれども。
 マイクロアレイ(DNAチップみたいなもの、「DNAチップとSAGE」をご参照下さい)解析を行うと、この細胞はもとの繊維芽細胞とは似ても似付かない性質を持っていて、ES細胞様であることが分かりました。iPS細胞をヌードマウス(免疫系が著しく阻害されている)の皮下に注射すると、外胚葉、内胚葉、中胚葉すべての胚葉に由来する細胞のテラトーマが形成されました。
 山中先生たちはこの論文で、cMycはゲノムの脱アセチル化に関与しているのではないか?、Klf4はp53を抑制してNanogを活性化しているのではないか?と推理しています。

 cMycというのは、もともと原ガン遺伝子ですから、iPS作りには不要なのではないかという研究が行われたり、遺伝子を導入するかわりに遺伝子産物であるタンパク質を導入してみよう、というような様々な解析がなされています。今のところ、実用化はまだ成されていませんが、そのうちそのような例も報告されることと思います。組織の培養、移植は難しいのですが、浮遊性の細胞であればある程度容易ですので、先日iPS細胞由来の血小板細胞のニュースが流れました。パーキンソン病の治療では、ドーパミン産生神経細胞を用いた臨床試験が行われており実用化目前の段階ですが、iPS細胞由来のドーパミン産生神経細胞も既に構築済みなようです。
 iPS細胞はヒトでも作られています。山中カクテル以外にも、Oct3/4、Sox2、Nanog、Lin28という組み合わせでも同様の効果が得られるということでした。
 
 iPS細胞はもともと自分の細胞ですから、移植拒絶反応は起こらないはずなのに、拒絶反応が起こってしまったという論文が

Nature 474, 212 (2011)
Immunogenicity of induced pluripotent stem cells(iPS細胞の移植拒絶反応)
Tongbiao Zhao, Zhen-Ning Zhang, Zhili Rong & Yang Xu

です。臨床試験には数年〜10年オーダーの時間がかかります。このような研究が数々行われて徐々に実用上の問題が克服されていくのでしょう。
 
 10年ほど前にはガンの治療法として、無限増殖能をもった未分化なガン細胞に、何らかの薬剤を加えて強制的に分化させてしまおうという方法が盛んに研究されていました。現在ではそのような分化誘導剤の使用による治療が、既に行われているようです。iPS細胞の将来にも大いに期待が持てますね。
 
 私は基礎生物学分野の生物学者ですから、iPS細胞の実用化に向けた研究も大変結構なのですが、山中カクテルはどうやって細胞を未分化な状態にリセットするのか?(2006年の論文の最後に、cMycはゲノムの脱アセチル化を行うとか、山中先生たちが少し述べたようなこと)とか、よく使われているS2細胞などの昆虫細胞では、どんな遺伝子がカクテルを構成できるのか?、とかいうことに興味があります(ドラマ「ガリレオ」の湯川先生みたいでしたね。「それは僕にはあまり興味がない。僕の興味はなぜ〜が起こったのかということだけだ」というセリフ。そんな格好良い意味ではないのですが)。

 

←トライトーンと元気が出るテレビ   →公開臨海実習のアンケート

ホームページへ