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楕円球コラム 「スタンドから」

Vol.114「相手をリスペクトするとはどういうことか」投稿日時:2012/10/02(火) 11:14rss.gif

 前回のコラムがYahoo!のトップニュース(J-CASTニュース)に取り上げられ、想定をはるかに超える反響となってしまった。直接には関係のない方々にまでご迷惑をお掛けしてしまったかもしれない。その点についてはお詫び申し上げたい。
 読んでいただいた方にはご理解いただいていると信じているが、筆者が述べたかったことはあの言動そのものを非難することではない。もちろん、当事者には猛省を促すが、それはけっして個人の問題ではなく、チーム全体の問題であり、そのことに早く気付いて修正してほしいという一念から書かせていただいたことである。
 ちなみに、コラムは「反論を求む」と書いて結んだのだが、チームからの反論はなかった。まあ、「反論が聞きたければ、木村が上井草まで足を運ぶのが筋だ」ということなのだろう。たしかにそのとおりなので、そのことについては特に蒸し返す必要もあるまい。

 なお、各方面から「あのコラムがワセダクラブのサイトに載ったというのがすごい」という声をいただいた。「そこがワセダのすごさであり、後藤監督のふところの深さだ」ということだった。
 筆者もそのとおりだと思う。
 後藤監督ならびにワセダクラブ関係者の皆様には、あらためて感謝申し上げたい。

 さて、今回は前回のコラムでキーワードとして挙げた「自己肯定感」について、何人かの方から「自己肯定感とは何ぞや」とのご質問をいただいたので、そのことについて書いてみたいと思う。

「自己肯定感」とは自分に対する評価、またはその度合いのことだ。「自己肯定感が高い」とか「自己肯定感が低い」といった使い方をする。
 これが低いと、自分自身のことを何かにつけてマイナスに扱うようになる。アスリートにとっては、パフォーマンスに直接影響する、とても重要な心理要因である。

 では、具体的にはどうなるのか。
 例えば、自己肯定感の低い人は、常に無意識のうちに「自分はこの程度の力しかない」と低く評価してしまう。これが、普段の練習で出てしまうと、「自分はどうせこの程度の力しかないのだから、このくらいの練習で十分だ」とか「このメニューをこなした方がいいとは思うけど、どうせやってもAチームには入れないだろから、適当に切り上げておこう」といったことが起こる。

 これは意識レベルの話ではない。潜在意識(無意識)の話である。意識の方がどんなに頑張ろうとしても、潜在意識の自己肯定感が低ければ、何かにつけて自分自身の実力を低く見積もってしまうようになる。頑張ろうと気合いを入れている気持ちとは裏腹に、潜在意識の方がブレーキをかけてしまう。
 しかも、潜在意識は練習のときにだけ出てくるわけではない。むしろ、練習のときにしか出てこないのは意識(顕在意識)の方だ。潜在意識は24時間365日、自分自身をコントロールしてしまう。だからこそ、「自己肯定感」が低い人は、生活全般から変えていく必要があるわけだ。「自己肯定感」を高めるような生活を続けることでしか、本当の意味で自分を変えていくことはできない。

 では、「自己肯定感」が高いと何がいいのか。
 もちろん、低い場合の逆で、「自分はもっとうまくなれる」「もっと強くなれる」と潜在意識が思っているので、練習に対する妥協がなくなるといったことがある。
 あるいは、試合において、劣勢の場面に立ったときでも、「自分はもっとできる」「大丈夫、自分はこの劣勢を逆転できる力がある」と潜在意識が思っているので、むやみに動揺することがなく、自身のもつパフォーマンスをしっかりと発揮することができる。

 繰り返すが、これも潜在意識のレベルの話なので、むしろ何もしなくても、何も考えなくても(「私は大丈夫、私にはできる」などと言葉で唱えなくても)、自然にできるようになっておく必要がある。
 だからこそ、「普段の生活から『自己肯定感を高める』ような生き方をしなければならない」という話になる。

 そして、ここが重要なのだが、「自己肯定感」の低い人は、他人を貶めることで自分の評価を相対的に上げようとする(だが、実際には高まっていない。これが前回のコラムのキーワードとなるゆえんである)。逆に「自己肯定感」の高い人は相手をリスペクトし、相手を高く評価することで自分の評価を高めようとする。

「自己肯定感」の説明でよく出てくる例がある。タイガー・ウッズがいまよりはるかにすごい成績を残していた頃の話である。
 ある大きな大会で、18ホールを終えて、タイガー・ウッズともう一人のライバルAが同スコアだったため、プレーオフに突入した。タイガー・ウッズが先に沈めてパー。ライバルAは微妙なパーパットが残った。
 入れば次のホール以降に勝負は持ち越し、Aがはずせばタイガー・ウッズの優勝である。

 この場面、あなたがタイガー・ウッズの立場なら、何を思うだろうか。ほとんどの人はAのパーパットを見つめながら、心の中で「はずせ!」と願うのではないだろうか。
 通常の自己肯定感の持ち主なら、そう思うのが普通である。ある程度、高い自己肯定感をもっている人なら「入ることを想定して、次のホールへ向けて気持ちを作っておこう」と考えるだろうが、少なくとも「Aがはずせば自分が優勝できる」という気持ちは強く心の中にあるはずである。

 ところがタイガー・ウッズは、後の記者会見で「Aのパーパットをどんな気持ちで見ていたのか」と聞かれ、「入ると信じていましたし、打ったあとは『入れ』と念じていました」と答えたというのだ。
 結果は、Aがパーパットをはずしてタイガー・ウッズが優勝した。Aのパットがはずれた瞬間のタイガー・ウッズの表情はテレビ中継を通して、全世界に流れた。彼はたしかに、「何ではずすんだ!」とでも言いたげなほど苦々しい表情をしていたという。

 これは、そのときのタイガー・ウッズの自己肯定感が、並みのレベルではなく、超ハイレベルに高かったエピソードとして語られている。
 なぜ、自分の勝利ではなく、相手のパットが入ることを信じ、「入れ」とまで念じ、実際、相手がはずしたことで苦々しい表情になったのか。
 記者会見での照れ隠しもあったかもしれない。だが、もう一つあったと言われている。

 それは「私の優勝は、倒すにふさわしい、すばらしいプレーヤーに勝ってこそ意味がある」という潜在意識に刷り込まれた信念が、あの場面で顔を出したということだ。
「自分が倒すべき相手は、あのくらいのパットは軽々入れてほしかった。それでこそ、自分の優勝にも高い価値が生まれる」
 タイガー・ウッズの潜在意識がそう語った瞬間だと解釈されているのだ。

 もし、ライバルAがあのパットを沈めていたら、タイガー・ウッズの闘志はますます燃えさかり、彼のパフォーマンスを極限まで高める要因となっていたことだろう。そして、その倒すに値する、価値あるライバルに勝利したとき、優勝という客観的な評価とは別の、本当の意味で自分が心から納得できる結果(自己評価)を手にすることができる。

 これほどまでに高い自己肯定感をもっていれば、仮に結果的に敗れたとしても、相手は自分にとって倒す価値のある強い相手、すなわち優勝してもおかしくない相手であることを認めているので、「ノーサイドの精神」を発揮するのに躊躇がなくなる。そして、今後、さらに精進していこうという気持ちにさせてくれるはずだ(人生は大学4年間で終わるわけではない。その後の精進こそが人生だと言ってもいい)。

「相手をリスペクトする」という意味がわからなくなったら、この逸話を思い出してほしい。相手がすばらしければすばらしいほど、その相手を倒したときの自分もすばらしくなるのだ。
 劣勢のときほど、相手をリスペクトしてほしい。
「やるじゃないか。それでこそ、倒し甲斐のある、俺たちの真のライバルだ」
 無理にではなく、自然に、無意識にそんなセリフが出るようになったとしたら、結果なんて、それこそ自然についてくるに違いない。

 

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